2022年08月27日

2022年8月28日 主日礼拝説教「真の救い」須賀工牧師

聖書:使徒言行録16章16節〜40節
説教:「真の救い」須賀工牧師

 今朝、私達に与えられている御言葉は、使徒言行録16章16節から40節の御言葉です。改めて、16節から18節の御言葉をお読みします。「わたしたちは、祈りの場所に行く途中、占いの霊に取りつかれている女奴隷に出会った。この女は、占いをして主人たちに多くの利益を得させていた。彼女は、パウロやわたしたちの後ろについて来てこう叫ぶのであった。『この人たちは、いと高き神の僕で、皆さんに救いの道を宣べ伝えているのです。』彼女がこんなことを幾日も繰り返すので、パウロはたまりかねて振り向き、その霊に言った。『イエス・キリストの名によって命じる。この女から出て行け。』すると即座に、霊が彼女から出て行った」。
 聖書によると、パウロたちは、フィリピにて、一人の女奴隷に出会いました。彼女は、「占いの霊」に取りつかれていました。この場合の「占い」とは、「口寄せ」とか、「腹話術」という意味も含まれています。恐らく、神々の神託を受けて、運命や運勢を言い当てる。そのような務めをしていたと考えられます。
 また、聖書によると、「主人たちに多くの利益を得させていた」とありますから、彼女は、複数の主人によって、まるで、お金を生み出す道具のように、扱われていたと言えるでしょう。要するに、この女性は、「占いの霊」だけではなく、人間によっても、支配されていたわけであります。
 そもそも、「占い」とは、何でしょうか。今でも、「占い」に頼る人は、少なくはありません。占いの目的は、勿論、色々な表現が、できるかもしれませんが、概ね、自分の運命をより良くすることです。逆に言うならば、自分の人生において、都合の悪いことを遠ざけることでもあります。
 しかし、その根底にあるのは、将来に対する「不安」です。自分の人生を何とか、良いものに変えたい。自分の未来を、よりよい方向へと変えていきたい。そういう不安払拭のために、占いがあるわけです。
 私達の人生に、本当に良いものを与えて下さるのは、何でしょうか。それは、唯一の神様だけです。真の神を信頼し、神様のもとに留まる。このことこそが、真の平安であり、真の安心であり、真の救いなのです。
 なぜでしょうか。それは、神様が、私達をお造りになられたからです。そして、私達のことを、よく知っていて下さるからです。神様が、この私の人生の真の支配者でいてくださるからなのであります。
 それに対して、「占い」は、その神様から私達を切り離します。そして、他のもの、あるいは、自分自身を、人生の支配者としてしまう。そのことにつながるわけです。それ故に、聖書では、「占いの霊」は、悪霊の一つとして数えられていくことになるのです。
 その意味で、この人は、悪霊に縛られ、悪霊によって心奪われた人間たちに支配されていたのだと言えるのであります。
 さて、この女奴隷は、パウロたちの後ろについてきました。そして、こう叫ぶのです。「この人たちは、いと高き神の僕で、皆さんに救いの道を宣べ伝えているのです」と。これは一見、パウロたちにとって、良い宣伝になるように感じます。
 しかし、パウロは、この「占いの霊」を退けました。なぜでしょうか。その言葉が、占いの霊、悪霊から出ていることを、パウロ自身が、見極めていたからであります。一見、自分にとって、都合がよさそうに思える。そのことも、それが、本当に、神から出ているのか、人から出ているものなのか、悪霊から出たものなのか。それを見極めることが、大切なのであります。そのために、私達は、常に、主を礼拝し、キリストにある福音に留まり、聖霊の働きを祈り求めていく。そのような姿勢が、重要となっていくのであります。
 さて、19節から24節の御言葉をお読みします。「ところが、この女の主人たちは、金もうけの望みがなくなってしまったことを知り、パウロとシラスを捕らえ、役人に引き渡すために広場へ引き立てて行った。そして、二人を高官たちに引き渡してこう言った。「この者たちはユダヤ人で、わたしたちの町を混乱させております。ローマ帝国の市民であるわたしたちが受け入れることも、実行することも許されない風習を宣伝しております。」群衆も一緒になって二人を責め立てたので、高官たちは二人の衣服をはぎ取り、「鞭で打て」と命じた。そして、何度も鞭で打ってから二人を牢に投げ込み、感謝に厳重に見張るように命じた。この命令を受けた看守は、二人をいちばん奥の牢に入れて、足には木の足枷をはめておいた」。
 パウロたちは、女奴隷を、占いの霊から解放しました。しかし、そのことで、利益を失った主人たちから恨まれてしまいます。彼らは、パウロとシラスを捕えて、広場に引き立てていきます。そして、高官に引き渡しました。そればかりか、高官は、民衆の言葉だけを信じ、ろくに調べもせずに、厳重な牢屋へ、彼らを入れてしまうのであります。
 ご存じの通り、パウロたちは、決して、町を混乱させたわけではありません。つまり、この訴えそのものが、でっち上げられた訴えなのであります。そればかりか、正しい裁判もなく、一方的に、鞭を打たれ、投獄されたわけです。言うならば、これは、非常識な人権侵害であると言えるでしょう。
 当時、確かに、ユダヤ人たちは、ローマ市民から、反感を持たれやすかったとも言われています。しかし、後に分かりますように、パウロたちは、ローマの市民権を持っているわけです。調べたらわかることなのです。ですから、これは、大変な権利侵害に当たるのであります。
 どうして、このようなことが起きてしまったのでしょうか。それは、主人たちを始め、高官たち、看守たちも含めて、全ての人が、何かに縛り付けられて生きているからです。主人たちは、利益に縛られていました。高官たちは、何でしょうか。彼らは、民衆の声に縛られています。看守は、ある意味で、上からの権威に、縛られている。そのように言えます。
 一人一人が、何かに縛られて生きている。そこで不自由に生きている。それが、この悲しい結果を、生み出すことになったわけです。
 一見、自由に見えるかもしれない。自由に生きているように見えるかもしれない。しかし、あの女奴隷も、ここで関わる彼らも、民衆ですらも又、様々なものに縛られながら生きている。しかし、それは、また、私達自身においても、言えることかもしれません。
 それでは、真の救いとは、何でしょうか。この文脈から言うならば、真の自由とは、何でしょうか。それは、どのような生き方なのでしょうか。そのことを踏まえて、25節から34節の御言葉をお読みします。「真夜中ごろ、パウロとシラスが賛美の歌をうたって神に祈っていると、ほかの囚人たちはこれに聞き入っていた。突然、大地震が起こり、牢の土台が揺れ動いた。たちまち牢の戸がみな開き、すべての囚人の鎖も外れてしまった。目を覚ました看守は、牢の戸が開いているのを見て、囚人たちが逃げてしまったと思い込み、剣を抜いて自殺しようとした。パウロは大声で叫んだ。「自害してはいけない。わたしたちは皆ここにいる。」看守は、明かりを持って来させて牢の中に飛び込み、パウロとシラスの前に震えながらひれ伏し、二人を外へ連れ出して言った。「先生方、救われるためにはどうすべきでしょうか。」二人は言った。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます。」そして、看守とその家の人たち全部に主の言葉を語った。まだ真夜中であったが、看守は二人を連れて行って打ち傷を洗ってやり、自分も家族の者も皆すぐに洗礼を受けた。この後、二人を自分の家に案内して食事を出し、神を信じる者になったことを家族ともども喜んだ」。
 パウロとシラスは、女奴隷を悪霊から解放しました。それによって、反対に、人間の手によって、自由を奪われてしまいます。
 しかし、どうでしょうか。彼らは、牢屋で、一体、何をしていたでしょうか。聖書によると、「賛美」の歌を歌い、「祈り」を捧げていたのであります。
 彼らは、不当に逮捕されたことを、妬んだり、怒ったりしなかった。あるいは、涙を流して嘆いたり、神様に不平を言ったりすることもなかったのです。
 私達は、本当に些細な事でも、腹を立てたり、妬みを抱いたり、憎しみを持ったりします。そんな私達よりも、何倍も不条理を味わい、心を痛められても、彼らのしたことは、一つなのです。礼拝なのです。神を賛美したのです。神様をほめたたえたのです。祈りをもって、神様に委ねたのであります。
確かに、彼らの体は、今、不自由であると言えるかもしれません。しかし、彼らは、神と共にあって、神を賛美し、祈る自由に生きることができた。
 それだけではありません。そこにいる全ての囚人が、賛美に耳を傾け、祈りを合わせ、そのことで、心に平安を得ることが出来たのであります。大地震が来て、牢の戸が開いても、彼らは、そこに留まったと言われています。それほどの平安が、ここにはある。いや、主を賛美し、礼拝するとは、正に、このような自由と平安の中に生きられることなのであります。
 一見、自由に見える、神を知らぬ人々が、不安や恐れに捕らわれているのです。それに対して、どの人が見ても、不自由に見える彼らが、主を礼拝し、神を賛美し、神様との親しき交わりに生きる時、いかなる思い煩い、怒り、妬み、不安から解放されて、平安や自由に生きているのです。
 ここにこそ、キリスト者であることの、真の平安と救いがある。そのように、言えるのであります。いかなる逆境の中にあっても、私達は、賛美を捧げることができる。主を礼拝することができる。希望に立ち帰ることができる。もし、そうでないならば、それは、神様の問題ではなく、私達自身が、真摯に、神と向き合い、神様のものであることを忘れ、神を褒めたたえる。そのことを忘れてしまっているのかもしれません。
さて、聖書によると、ここで大地震が起きます。牢屋の戸が開いているのを見た看守は、囚人が逃げたと思い、自害しようとするわけです。看守にとって、囚人を逃がしてしまうこと。その責任は重いものです。彼らは、処罰の厳しさを思って、絶望し、自害しようとしたわけです。
 しかし、パウロは、それを止めた。そこで、誰も逃げなかったわけです。神様を賛美する。そのところに、彼らは、留まり続けたのであります。突然の災害や自分の失敗によって、動揺する看守。それに対して、いかなる災害がきても、揺らぐことのない、真の平安や自由に生きられる。そのような人たちがそこにいたのです。
 思えば、この看守もまた、その責任の重さや上からの権威によって、縛られていたのかもしれません。自由な人間に見えて、実は、彼らも又、不自由に生きていたわけです。
 しかし、この看守は、この出来事を通して、自分は、本当の意味で、自由ではないことを知った。そして、根本的に救われなければいけない。そういう自分自身の事実に気づかされていくのであります。
彼は、「先生方、救われるためにはどうすべきでしょうか」と尋ねました。パウロは、「主イエスを信じなさい」と言われました。
 イエス様を、救い主と信じる。イエス様を真の神として信じる。それが救いなのです。但し、ただ、信じる、という話ではないのです。ここで言われている「主イエスを」という言葉には、もう一つ大切な意味があります。それは、「主イエスの上に」という意味です。
 イエス様の上に乗る。いや、イエス様が、この私を、イエス様の上に乗せてくださる。担ってくださる。それは、言い換えるならば、イエス様に、全てをお委ねして生きる。
 イエス様を信じて生きるとは、そういう新しい生活に生きることなのです。イエス様を、私の人生の主人とし、主イエスに、私の命を明け渡していく。イエス様に担っていただいて生きられる。そこに平安がある。そこに希望がある。そこに、何にも縛られることのない真の自由がある。そこに、真の救いに生きられる現実がある。そのことが、ここで、強調されているのです。
 この聖書箇所には、本当に、色々なものに、縛られている人たちが登場します。しかし、そのどれもが、不安から来るものです。しかし、その不安が取り除かれることはないのです。その意味で、本当の自由ではないのであります。
 しかし、この私のために、命を捨て、この私のために、復活してくださった御方は、今や、全ての支配者であります。その御方の背中に乗せていただく。そのことこそが、信仰を持って生きることの幸いなのであります。
 信仰生活は、自立した生活ではありません。信仰生活は、私が主人公になる生活ではありません。信仰生活は、キリストに担っていただき、キリストが支配する生活です。その生き方こそが、実は、一番の平安と自由とを約束された生き方なのであります。そして、その自由は、死すらも、打ち勝つことの出来ないほどの自由なのだということ。そのこともまた、心に留めておきたいのであります。
 その生き方は、外から見れば、不自由そうに見えるかもしれません。しかし、その生き方こそ、罪や死すらも打ち破るほどの、真の救いを知る生き方であり、真の自由を知る生き方へと、私達を導いていくものなのです。
 悪霊にとりつかれた人は、キリストの名によって、解放されました。そこで働かれるのは、キリスト御自身であります。そのキリストは、今も、生きておられます。そして、私達をあらゆる縛りから解き放ち、キリストにある真の自由と救いに生かしたいと願っておられるのです。私達は、このキリストを、いつも、私達の心に迎え入れ、どのような状況に対しても、主を賛美する。その礼拝に押し出されて歩んで行く。そこから、真の平安と自由を知る人生が切り開かれていくのです。その幸いを覚えつつ、新たにまた歩み出したいと思います。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 18:55| 日記