2022年10月28日

2022年10月30日主日礼拝説教「永遠の住みか」須賀工牧師

聖書:コリントの信徒への手紙二5章1節〜5節、詩編112篇1節〜10節
説教:「永遠の住みか」須賀工牧師

 今朝、私達は、召天者記念礼拝をささげています。過ぐる日、主の御許へ召された聖徒たちの面影を偲びつつ、主の御名を賛美する礼拝を、共にささげたいと思います。ご遺族の皆様におかれましては、主なる神様の慰めが、これからも豊かにありますように、心よりお祈り申し上げます。
 今朝、私達に与えられた御言葉は、コリントの信徒への手紙二5章1節〜5節の御言葉です。改めて1節の御言葉をお読みします。「わたしたちの地上の住みかである幕屋が滅びても、神によって建物が備えられていることを、わたしたちは知っています。人の手で造られたものではない天にある永遠の住みかです」。
 使徒パウロは、ここで「幕屋」という言葉を用いています。この「幕屋」という言葉は、とても、特殊な言葉です。新約聖書においては、この箇所でしか使われていない。それほどに特殊な言葉なのです。ギリシア語で訳された旧約聖書を七十人訳聖書と呼びます。この七十人訳聖書においても、一回だけ使われています。
 その七十人訳で、この「幕屋」という言葉は、人間の「肉体」や「肉体が伴う生活」を表しています。恐らく、ここで言われている「幕屋」もまた、同じような意味で、比喩的用いられている。そのように、考えられます。つまり、「私たちの地上の『体と生活』が滅びても、神様によって滅びることのない体や生活が備えられている」のだ、ということ。そのことが、ここで、まず示されていることなのです。
 「幕屋」とは、簡単に言えば「テント」のことです。「テント」は、とても「弱く」、そして「もろい」ものであります。決して、完全なものではありません。私達の「肉体や生活」も同じであります。完全な人間が、いないように、私達もまた、「もろく」「弱い」ものであります。
 どれだけ良い人生を送っていたとしても、私達は、いつかは「滅びていく」ものです。その意味で、完全ではありません。むしろ、いつ倒れるかわからない。そのような「不確かさ」や「もろさ」を抱えているのです。
 しかし、私達の人生は、「滅び」で終わらない。そのことも、私達は知っています。なぜでしょうか。私達は、主イエス・キリストを知っているからです。主イエス・キリストが、私達の罪のために死に、そして、三日目に復活したこと。そのことを、私達は、知っているからです。そして、その主イエス・キリストは、「わたしを信じるものは、死んでも生きる」。このように約束してくださった。そのことも知っているからであります。だからこそ、私達の人生は、「滅び」で終わらない。そのことも、知っているのです。
 私達にとって、そして、聖徒たちにおいても、「死」は、「前」にはありません。私達にとって、「死」や「滅び」は、既に、私達の「後ろ」にあるのです。私達は、もうすでに、イエスをキリストと告白した、その直後から、復活の命、永遠の命の中に、生き始めているのです。
 私達は、私達が、いつかは、この地上から滅びていくことを知っています。しかし、復活の主に結ばれた私達は、それが終わりではなく、新しい命に向けた、新たなスタートであること。そのことも知っているのです。正に、「死」は、「前」にあるのではなく、「後ろ」にあるのです。
 その深い御恵みを覚えつつ、2節から4節の御言葉をお読みします。「わたしたちは、天から与えられる住みかを上に着たいと切に願って、この地上の幕屋に在って苦しみもだえています。それを脱いでも、わたしたちは裸のままではおりません。この幕屋に住むわたしたちは重荷を負ってうめいておりますが、それは、地上の住みかを脱ぎ捨てたいからではありません。死ぬはずのものが命に飲み込まれてしまうために、天から与えられる住みかを上に着たいからです」。
 私達にとって「死」は、前のものではありません。それは、もうすでに、復活のキリストにあって、過ぎ去ったものであります。
 しかし、この地上において、私達は、「死」を恐れます。この地上においては、「死」を悲しみ、嘆きます。それが、私達の現実です。
 そして、その恐怖や悲しみを、何とかして「払拭」したい。そのように願うものです。まとわりついた恐れや不安、悲しみを、脱ぎ捨てたいと思うのです。
 しかし、私達は、私達の力で、死の力から逃れることはできません。恐れや不安、悲しみから逃れることはできないのです。正に「それを脱いでも、裸にはなれない」のです。
 私は、死に対して、「悲しむ人」に、「もう悲しまないでよい」とは言えません。「死を恐れる人」に、「あなたは不信仰だ」とも言いません。なぜなら、私達は、自分の力で、死を克服することはできない。そのことを知っているからです。
 では、私達は、どのようにして、「死」と向き合うのでしょうか。「死」という悲しい現実を、自分の力で、脱ぎ捨てるのではなく、神様によって与えられる、新しい命、復活の命を着せて頂く。そのことを願う。そのことが大切なのです。死を払拭するのではなく、神様によって、死を飲み込んで頂く。そのことを求め、願い、そして、生きていく。そのことが大切なのであります。
 私達が、私達の力で、死を克服するのではありません。もうすでに、死に勝利された、キリストを着せて頂き、死を飲み込んで頂く。その測り知ることのできない、救いの御業に、寄りすがりながら生きていく。そこに、今を生きる、私達の姿があるのです。
 そして、その深い恵みを確かなものとするため。そのためには、何が必要なのでしょうか。それが「聖霊の働き」なのであります。私達は、私達の知恵や知識によって、あるいは、経験によって、死を乗り越えることはできません。
 しかし、キリストは、私達に聖霊を与えて下さる。聖霊は、今、私達と共に生きる神様・キリストそのものであります。聖霊は、私達に、この希望を確かなものとしてくださいます。 
 そして、この聖霊は、礼拝を通して、御言葉によって働きます。大切なことは、今、この瞬間も、主イエス・キリストは、私達の傍らに、生きてくださり、御言葉と聖霊の働きによって、私達の心に触れてくださり、復活の希望、永遠の命の希望を、確かなものとしてくださるのです。大切なことは、その御言葉に身を委ね、そこに留まり続けることなのです。その深い幸いが、今朝の御言葉を通して、強く、指し示されているのであります。
 私達は、今、過ぐる日、主の御許に召された聖徒たちを偲んでいます。今もまだ、深い悲しみの中にある方もいらっしゃるかと思います。その一人一人の慰めを、心から祈るものであります。
 そして、是非、今朝の御言葉を、思い起こして頂ければと思います。私達にとって、死は、「前」ではなく、「後ろ」なのだということ。既に召された人々にとっても、「死」は、単なる「滅び」で終わることではない。彼らもまた、もうすでに、死に勝利された、復活の主と一つとなって、復活の命、永遠の命を、生き始めているのだ、ということです。
 私達は、私達の力で、死を乗り越えることはできません。死を払拭しても、それを、完全に拭い去ることはできないのです。それは、私達が、常に、罪と死の力の中にいるからです。
 しかし、そのような私達のために、神様は、御子イエス・キリストを与え、キリストに罪を背負わせて、惜しみなく「死」に渡された。そして、その罪と死を打ち破るように、復活を成し遂げてくださったのです。そして、このキリストに結ばれた者もまた、キリストと共に復活の命に生き始めることができるのです。
私達は、人間が死後、どのようになるかは、わかりません。しかし、分かることがあります。それは、キリストが、確かに、復活したことです。そうであるならば、キリストの言われていたこともまた、事実です。  「わたしを信じるものは、死んでも生きる」。
聖徒たちをはじめ、今を生きる私達もまた、もうすでに、復活の主によって、復活の命に、先立って生き始めることができる。そして、復活を希望とすることができるのです。そのことを、私達は、「知っている」のです。
 皆様の上に、神様の慰めが、豊かにありますように、心よりお祈り申し上げます。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 13:45| 日記