聖書:使徒言行録19章21節〜40節、エレミヤ書10章1節〜16節
説教:「真の神」須賀工牧師
今朝、私達に与えられた御言葉は、使徒言行録19章21節から40節の御言葉です。初めに、21節から22節の御言葉を、改めてお読みします。「このようなことがあった後、パウロは、マケドニア州とアカイア州を通り、エルサレムに行こうと決心し、『わたしはそこへ行った後、ローマも見なくてはならない』と言った。そして、自分に仕えている者の中からテモテとエラストの二人をマケドニア州に送り出し、彼自身はしばらくアジア州にとどまっていた」。
ここから分かりますように、使徒パウロは、ここで、エフェソ伝道を終える予定です。そして、次に、マケドニア州とアカイア州、そして、エルサレムを経由して、ローマに行く計画を立てていたようであります。
因みに、この道中、使徒パウロは、コリントにて、ローマの信徒への手紙を執筆することになります。その手紙の中で、パウロは、ローマを訪問した後、「イスパニア」(今のスペイン)にも、伝道をする。そのことを決めていたようであります。
さて、この文脈において、特徴的な言葉があります。それは、「決心した」という言葉です。口語訳聖書では、「パウロは御霊に感じて・・・決心した」と訳されています。原文を直訳すると、「霊において決心した」と訳すことができます。
つまり、この一つ一つの計画は、人間によるものではない、ということです。祈りをもって、聖霊に導かれた計画なのであります。要するに、この旅路は、使徒パウロの意志ではないのです。神様の御心を信じ、それに委ねた旅路なのであります。言い換えるならば、正に、パウロの人生は、神様の御心に委ねた人生であった。そのようにも言えるかもしれません。
因みに、この旅路は、思いも寄らない形で、実現してしまいます。しかし、これもまた、使徒パウロにとっては、神様の御心なのであります。
私達もまた、信仰の旅路を行くものです。キリスト者の人生とは、正に、この世の荒れ野を行く旅路であります。しかし、私達もまた、自らの意志や願いに従うのではありません。神様の御支配の中で、神様に委ねて生きる。それが、私達の人生であり、そこにこそ、真の価値と幸いを知ることができる。そのような人生なのであります。
自分の力で、一生懸命に、生きる。確かに、その方が、この世的には、カッコいいと思えます。神様に頼ることの方が、よっぽど、弱々しく、映るかもしれません。しかし、人間は、決して、完全ではありません。必ず、動揺します。不安になります。恐れに陥ります。何かに頼りたくなります。そして、その生き方は、結局は、不確かでもあります。
しかし、神様は、完全な御方です。それ故に、完全なものに、寄りすがり、より頼む人生もまた、たとえ不安定な生活に見えても、立ち続けられる、歩み続けられる。そして、何よりも、不確かな歩みではなく、神の国を目指した、確かな歩みなのです。そのような人生を、今から生きられるのであります。その深い幸いが、ここから、まず、よく表されている。そのように言えるのであります。
しかし、エフェソの人々はどうでしょうか。聖書によると、多くのエフェソの人々は、キリスト者になったようです。魔術を捨て、神々を捨て、真の神を信じたのです。自分や他のものに頼って生きること。それが、如何に不確かであるか。それを、多くの人が、使徒パウロ−教会−を通して、知るものとされたのであります。そして、真の神に頼り、キリストの救いの恵みの中に生きること。それが、如何に、救いを確かにできる人生であるか。それも、知ることが出来たのであります。
しかし、このような、エフェソの大変革によって、困った人もいたようです。彼らは主に、アルテミス神殿の模型を造る職人でありました。
アルテミスとは、女神の名前です。元々は、狩人の女神だと言われています。ただ、エフェソでは、豊穣の女神として拝まれていたようです。当時、エフェソの町では、このアルテミスの大神殿がありました。その大きさは、世界七不思議の一つと言われるほどの大きさであると、言われています。つまり、エフェソの人々にとって、この神殿は、彼らの誇りそのものであったと言えるかもしれません。
しかし、そこに、パウロが遣わされたのです。そして、伝道が開始されたのです。そればかりか、更に、使徒パウロは、「手で造ったものは神ではない」と語り始めたわけです。
すると、多くの人々が、使徒パウロに傾聴した。そして、キリスト者になっていった。それ故に、神殿に関わる職人たちが、不利益を被ってしまった。それが、騒動の火種になってしまったのです。
彼らは、女神の名が、汚されたと叫びます。信仰が汚されたと叫んだのです。しかし、聖書によると、実は、それよりも、自分たちが、不利益を被ってしまったこと。そのことに危機感を感じたようです。
実は、これこそが、偶像崇拝の本質なのです。彼らは、「アルテミスは偉大だ」と言いながら、そこで、本当に考えていることは、自分の利益なのです。自分の評判なのです。あるいは、自分たちの名誉なのであります。
更に言うならば、聖書によると、ここで、町の書記官が、この騒動を静めました。しかし、彼も又、あたかも「信仰深い」発言をしているように見えますが、その本質は、「保身」のためであります。当時、町の騒動は、町の書記官の責任でありました。町の秩序が崩れると、書記官が、命をもって責任を取らなければいけない。そういう決まりもあったのです。それ故に、この町の書記官もまた、ここで、自分の保身のために、人々をなだめているのです。
つまり、ここで、騒動を起こす人間も、それを止める人間も、みんなが、自分の利益、自分の名誉しか、考えていないのです。
それは言い換えるならば、偶像の神々とは、人間の利益や名誉や利害を守ってくれる存在。要するに、自分の願望の投影でもあるのです。それは、更に言うならば、そのような神々そのものが、人間の名誉や利益そのものである。そのようにも言えるかもしれません。その意味で、それ自体は、「神」ではなく、人間の願いを込めた「人間の手で造られた偽物」であると言えるのです。
しかし、そのような神々が、本当に、人間を幸せにしているのでしょうか。この町の人々の様子を見ると、そうは見えないのです。彼らは、常に、自分たちの利益や名誉や利害を守るために、心を配っている。その意味で、彼らの人生は、常に、不確かさや不安にあふれている。そのようにも、ここで感じられるのであります。
私達が信じているのは、勿論、人の手で、造られた神様ではありません。私達が、信じている神様は、私達を造られた神様です。人に作ってもらわれなければ、存在しえない偽物ではなく、私達に命を与え、命を守り、永遠に生かして下さる、真の神であります。
その真の神様は、御子イエス・キリストにおいて、この世に生きておられる真の神です。そして、その神は、私達の為に、惜しみなく、御子の命を、死に渡される神であります。そして、私達と共に、永遠に生きることを、望まれる神であります。
私達は、真の神の御子イエス・キリストが、私達のために、命を捨てて下さった。そのことによって、罪と死から救われています。だから、私達は、もうこれ以上、自分の利益や名誉を追い求める必要ないのです。
なぜなら、御子が、この私のために命を捨ててくださったから。無条件で、愛してくださったから。永遠の命を約束してくださったから。それが、私達にとっての、測り知ることの出来ない、最大の利益であり、それ以上の利益はない、ということ。そのことを知っているからなのです。今、私達を満たしているのは、お金や立場ではありません。今、私達を満たしているのは、それ以上に、大切な救いであり、愛であり、永遠の命なのです。
使徒パウロは、この深い恵みに満たされ、この愛に支配されていた。だからこそ、自分の利益、自分の意志を追求せず、むしろ、それらを捨てて、自分の命を捧げてでも、神様の御心に委ねて、旅を続けることができたのです。
私達もまた、この世の荒れ野を旅しています。しかし、その歩みは、「道」そのものであるキリストと共にある旅路です。そして、そのキリストによって、生かされ、支えられ、慰められ、恵みに満たされた旅路なのであります。その幸いを、改めて、思い起こすものでありたいのです。
人間の利益を、追求した宗教は、利益や願いの分だけ、人の思いが、交差する宗教です。そこには、本当の秩序はありません。バラバラです。この騒動においても、秩序は失われています。つまり、結局、彼らは、孤独なのです。
しかし、私達は、違います。私達は、共に、ただ一人の主を見上げ、隣人なるキリストと共に歩みます。そして、痛みや悲しみ、そして、喜びを共にできる兄弟姉妹と一体となって歩むのです。私達は、もう、この世にあっても、この世を去る旅路を行くときも、孤児にはならないのです。
大切なことは、私の願いではなく、真の神なるキリストが、この私のために、何をしてくださったのか。その深い恵み一点に、共に、心を集中させ、その恵みに、共にとどまりつつ、主の御名を賛美し、崇めつつ、信仰の旅路を行くことなのです。そして、その旅路は、この世をもって、終わるものでもありません。私達は、もうすでに、聖徒たちと共に、永遠の命に向かった旅路の中にいるのです。
この一週間、皆様も、大変、苦労の多い日々をお過ごしになられただろうと思います。私は、ここにおられる方も、そうでない方も、それぞれの場で、信仰者として、立派に走り続けていることを知っています。
そうでありますから、この礼拝を通して、この御言葉を通して、少しでも、今、あなたが、もうすでに、恵みの中にあること、恵みの支配の中にあることを思い起こして頂ければと思います。
そして、その恵みに、寄りすがっていい。それにより頼んでいいのだ、ということ。エフェソの人々のように、結果や利益を追求するのではなく、むしろ、パウロのように、恵みの支配に身を置きながら、そして、全てを主に委ね、主に担っていただきながら、新しい旅路を、共に進めて頂ければと願う者なのであります。皆様の信仰生活の上に、神様の深い導きがありますように、心からお祈りをしたいと思います。
2022年11月14日
2022年11月20日 主日礼拝説教「真の神」須賀工牧師
posted by 日本基督教団 石山教会 at 12:45| 日記