2023年02月25日

2023年2月26日主日礼拝説教「そばに立つ主」須賀工牧師

聖書:使徒言行録22章22節〜23章11節、出エジプト記22章27節〜29節
説教:「そばに立つ主」須賀工牧師

 今朝、私達に与えられた御言葉は、使徒言行録22章22節〜23章11節の御言葉です。今朝の御言葉も、前回に、引き続き、とても長い文脈となりました。今回も、一つのことに焦点を当てて、共に、御言葉に、聴いて参りたいと思います。
 今朝の御言葉のテーマは、「復活」です。使徒パウロは、23章6節以下で、次のように語っています。「わたしは、死者が復活するという望みを抱いている」と。この言葉は、恐らく、使徒パウロが、ユダヤ人の最高法院を、混乱させるための策略として、語られたものであると思います。但し、この言葉には、使徒パウロによる伝道内容の全てが、込められていると言えるのです。
 少し、ここまでの経緯を、お話させてください。ユダヤ人にとって、パウロは、裏切り者です。それは、簡単に言えば、彼が、ユダヤ人としての信仰やプライドに傷をつけたからです。そして、彼らは、神殿で、パウロを見つけると、集団リンチにしました。
 しかし、使徒パウロは、ローマ帝国の守備隊によって、身柄を保護される形で、逮捕されます。今朝の御言葉は、その翌日の出来事です。
 使徒パウロを逮捕した、千人隊長は、彼が、ローマの市民権を持つ者だと聞いて、恐れを抱きます。当時、ローマ帝国の市民権を持つ者には、様々な権利が認められていたからです。ですから、逮捕をすること、拷問をすることには、かなり、気を配らなくてはなりません。場合によっては、その立場を、失ってしまうこともあったからです。
 そこで、千人隊長は、ユダヤ人が、なぜ、パウロを、訴えているのか。その内容を聞くために、ユダヤ人の最高法院を召集したのです。そこには、当時、エルサレム神殿の大祭司であったアナニアも同席をしていました。つまり、彼を代表とするユダヤ社会における最高権威者たちが、千人隊長によって集結させられ、パウロを訴えることになったのです。
 それに対して、パウロは、この機会を、伝道の機会として、用いました。彼は、彼らの前で、そして、多くの人々の前で、自分が、「何を信じ」「何を宣べ伝えているのか」。そのことを、一言で、見事に、表現しています。それが、「わたしは、死者が復活するという望みを抱いている」という言葉なのです。今朝は、ここに注目をしたいと思います。
 「死者が復活するという望み」は、将来、「自分自身が復活する」という望みです。私達は、誰でも、いつかは、肉体の死を迎えます。どんなに立派な人も、正しい人も、豊かな人でも、死に打ち勝つことはできません。
 それに対して、「死者が復活する」とは、その「死」が、私達の終わりではない、ということ。そのことを意味しています。パウロは、そのような、将来の希望を、今、この瞬間から見つめつつ、その希望を語り続けてきたのです。
 この希望の根拠は、どこにあるのでしょうか。それが、「主イエス・キリストの復活」です。「キリストの復活」は、父なる神が、主イエス・キリストを死から解放し、それに勝利され、新しい命、永遠の命を与えて下さった。そのことを表しています。
 その「キリストの復活」について、使徒パウロは、コリントの信徒への手紙一15章20節で、次のように表現しています。「眠りについた人たちの初穂」と。
 「初穂」とは、その年に取れた最初の収穫物のことです。つまり、この「初穂」によって、これから与えられるだろう収穫の豊かさが決まることになります。
 このように、キリストの復活は、眠りについた人たち、つまり、いつか必ず、死んでいく私達自身に与えられる、恵みの初穂であり、恵みの先駆けとなるのです。つまり、キリストの復活を信じる、この私達もまた、このキリストの復活に続くようにして、新しい命、復活の命、死を打ち破る命に与ることができるのだ、ということなのです。
 それ故に、キリストの復活は、喜びの中の喜びであり、私たちの喜びと希望の土台となるのです。勿論、この世で、豊かで、あることも、悪いことばかりではないでしょう。しかし、それらが、私達を永遠に導くものではありません。必ず、奪われ、失われていくものです。その意味で、限界のあるものであり、限界あるものは、本当の喜びに至らすことはできません。
 しかし、キリストは、復活されました。死を打ち破られました。死によって、全てを奪われても、キリストは、あなたの傍らに、残り続けてくださるのです。これこそが、真の喜びであり、その喜びが、私達の生きる土台になるのです。
 使徒パウロは、正に、常に、キリストの復活の希望の中に、生きていました。また、それを伝えていました。
 その伝道旅行は、決して、容易なものではありませんでした。困難や苦しみがありました。命の危険もありました。今回のように、痛みを負うこともありました。
 しかし、それでも、彼が、ひるむことなく、立ち続けることができたのは、なぜでしょうか。今回のように、最高法院の人々に、訴えられたとしても、毅然とし、冷静でいられたのは、なぜでしょか。
それは、正に、使徒パウロ自身が、この希望と喜びだけを、生きるための土台としていたからなのであります。
 仮に、この地上での人生を、一つの枠の中とし、死の支配を、枠の外のようなものであると考えるならば、パウロは、この枠の中だけではなく、むしろ、枠の外に、思いを馳せていたのではないかと思います。
そして、その枠の外にある、死の支配が、キリストの復活によって、打ち滅ぼされ、復活の命、永遠の命の約束に変っている。そのことを、彼は、今も、この瞬間も、見つめていたのではないかと思うのです。それ故に、この人生の枠の中が、いかに苦しみや恐れに満ちたものであったとしても、それによって、絶望しきることはなかったのだろうと思うのです。
 先にも、申し上げましたが、このパウロの発言は、最高法院を分断させてしまう。それほどの力のある言葉でした。
 しかし、使徒パウロは、ここで、ただ、議場を混乱させたかった。そういうわけではないと思います。恐らく、復活を信じないサドカイ派の人々。彼らに対しては、彼の信仰の中心である復活の希望を、ただただ証したかったのだろうと思うのです。
 サドカイ派は、「復活」を信じません。それは、つまり、人間の常識を超えた事柄を否定していた、ということでもあります。つまり、彼らは、目に見える世界だけを信頼し、この人生の枠の中だけで勝負をしていたわけです。いわゆる、現世主義者であったのです。
 サドカイ派の主要メンバーは、祭司に属していました。勿論、神殿で、儀式を執り行うのも、彼らの大切なお務めです。神秘的な儀式を取り扱う人間が、現世主義であるというのは、いささか矛盾しているようにも感じます。
 しかし、実は、現世主義と宗教は、非常に、結びつきやすいものなのです。どれだけ、神秘的な儀式を執り行う宗教であったとしても、そこで、求められ、そして、与えられるものが、「家内安全」「病気快復」「商売繁盛」「安産祈願」「恋愛成就」であるとするならば、つまり、この世の生活や人生の幸福・平安・満足・安定しか見つめられていないとするならば、それは、もはや現世主義なのです。この世の人生の枠の中だけに、思いを向けているだけなのです。
 使徒パウロは、人生の枠の中のことしか見つめられない。そういう人々に対して、「死者が復活するという望み」。これを、どのような形でも、語らずにはいられなかったのであります。そこにこそ、本当の喜びと希望があるのだということ。そのことを言わずにはいられなかったのです。それが、この御言葉から、指し示されているのです。
 この喜びと希望は、主イエス・キリストの復活によって与えられ、保証されています。私達の罪を背負って十字架にかかって死んで下さった。その主イエス・キリストを、父なる神は、復活させてくださいました。
そして、キリストに連なる、全ての人に、罪の赦し、死への勝利、そして、新しい命、復活の命、死に支配されることのない永遠の命を保証して下さいます。私達は、その変わることのない、正に、本当の永久保証を握りしめながら、今を、この瞬間を生きられるのです。
 私達の肉体は、いつかは滅びます。この世の人生には、限りがあるのです。しかし、その限りある人生が、罪の赦しと永遠の命の約束の下に、置かれるならば、私達は、その復活の希望によって、この世の人生を、真の喜びと希望をもって、精一杯生き抜くことができるのです。
 信仰を持っているからと言って、すべてが、安定することはありません。それは、パウロが迫害を受けている。その様子からも知ることができます。
 しかし、私達は、この世における、あらゆる苦しみが、永遠ではないことも知っています。必ず、それが取り去られる時がくる。いや、永遠の希望の中に、今、ここで生きられる時、その苦しみが、永遠の中にある一瞬であることも知ることができる。
 そして、何よりも、あらゆる、苦難の中で、私達は、決して、一人ではない。そのことも知ることができます。死に勝利されたお方は、今もまだ、私達と共に生きておられる主です。私達のそばに立つ主です。そして、その御方は、今、私たちの傍らに立って生き、語りつづけ、私たちの慰めであり続けてくださるのです。
 本日から、受難節の礼拝に入りました。主イエス・キリストの御苦しみを覚え、その痛みと死によって、私たちの命が贖われていることを知ると共に、私達の心を、主に向けて、歩み出したいと思います。
私達が、抱える不条理さよりも、遥かに大きな不条理さの中で、主は、私達の為に、命を捨てられました。その主は、復活し、今も、あなたと共に生き、罪の赦し、永遠の命を悟らしめてくださいます。
あなたが、本当の喜びを知って、今を生きられるように。そして、本当の希望を知って、自らの死と向き合えるように。そして、今、この瞬間が、永遠の一瞬であること、もうすでに、あなたは、永遠の流れの中に、生きられるのだ、ということを、指し示してくださいます。この深い恵みの中で、私達は、主の僕として、日々、喜びと希望の内を、歩み続けるものでありたいのです。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 00:00| 日記