2023年07月23日

2023年7月23日 主日礼拝説教「神の言葉の威力」大坪信章牧師

ルカによる福音書5章1節〜11節、イザヤ書55章8節〜13節                 
説 教「神の言葉の威力」大坪信章牧師

 これまで、イエスさまは、ガリラヤのナザレ、そして、カファルナウムの町の会堂や家で宣教されました。その後イエスさまは、カファルナウムの町から、更に範囲を広げて、ユダヤの諸会堂に行って宣教されました。その宣教内容とは、恵み深い御言葉の権威による、罪からの解放と回復と自由の約束でした。また、その、しるしとしての、悪霊の追放や病の癒しなどの奇跡も併せて行ない、沢山の人を圧倒されました。そうして、幾つもの会堂を巡り歩かれたイエスさまが辿り着いたのは「ゲネサレト湖畔」でした。1節を見ると「ゲネサレト湖畔に立っておられると、神の言葉を聞こうとして、群衆がその周りに押し寄せて来た」とあります。「ゲネサレト湖畔」というのは、ガリラヤ湖の別称です。ガリラヤ湖は色んな呼び方があります。ゲネサレト湖と呼ぶのは、湖の西側にゲネサレトという町や平原があるからです。他にも、キンネレト湖という呼び方は、湖が竪琴の形をしているためです。琵琶の形をしている琵琶湖にも似て、ガリラヤ湖は、琵琶湖の4分の1の大きさと言われています。他に、ティベリアス湖とも呼ばれますが、これも、湖の西側にティベリアという町があるからです。その町は、その当時、ユダヤを支配していたローマ皇帝の名前をとって付けられた新しい町でした。

 そのような「ゲネサレト湖畔」にイエスさまが立っておられると「神の言葉を聞こうとして、群衆がその周りに押し寄せて来た」のです。イエスさまは、これまで会堂で宣教されました。しかし、そこは、もう人が入り切らず、危機管理上の安全面も考えて、広い場所に移動されたのでしょう。ただ、広いとは言っても、そこは、平原ではなく「ゲネサレト湖畔」でした。その理由が、2節3節に記されています。「イエスは、二そうの舟が岸にあるのを御覧になった。漁師たちは、舟から上がって網を洗っていた。」そこで「イエスは、そのうちの一そうであるシモンの持ち舟に乗り、岸から少し漕ぎ出すようにお頼みになった。そして、腰を下ろして舟から群衆に教え始められた」と。もし、ゲネサレト平原に行けば、イエスさまを中心に人だかりができて、イエスさまは、揉みくちゃにされてしまいます。しかし、湖であれば、岸から少し離れた舟の上から宣教することで、群衆との距離が保たれ、群衆に安心して話しをすることができるからです。ただ、それは、必要に迫られての成り行きに過ぎません。というのは、イエスさまの福音宣教は、常に人との出会いを伴うものだったからです。つまり、ある物事に付随して、別の物事が起こったからです。この物語で言えば、群衆に向かって安全に福音を語るという物事に付随して、ペトロを始めとする4人の漁師を救い、彼らが弟子となる物事が起こったからです。既にイエスさまは、実家を出て、洗礼者ヨハネから洗礼を受け、荒れ野で誘惑も受けられました。そして「神の国は近づいた」と宣言し、福音宣教という公生涯に入っています。その公けの公的な生涯は、30歳(それは、祭司の務めが始まる年齢)から、33歳で十字架に架かって死ぬまでの、僅か3年でした。しかし、その3年間が色濃く記された福音書を見れば、イエスさまの福音宣教には、2つの側面があったことに気付かされるのです。それが大衆と個です。それは、会堂や湖畔や平原で福音を宣教されるイエスさまの姿と、4章40節に「一人一人に手を置いていやされた」とあるように、個別に宣教されるイエスさまの姿です。

 石山教会では、この4月に牧師交代があり、6月には、沢山の方々に見守られ、無事に就任式が行なわれました。改めて感謝いたします。前任地には10年いました。特に10年目の6月、前任地を後にすることを決断した頃は、悶々とした日を過ごしました。しかし、そのさ中、別れを惜しんでくださった教会のある婦人が、ラインで「待っている人たちがいる」という言葉を送ってくださったのです。また、他の方からは、著書『夜と霧』の中に出て来る「何かがあなたを待っている。」「誰かがあなたを待っている」という言葉をいただきました。そのようなこともあって、悶々とした日々は、それこそ、著書『夜と霧』の中で言われているように、人生の意味を考える、そういう機会に変わりました。ですから、赴任してからこの方、その「何か」とは何なのだろう。その「誰か」とは誰なのだろうと思いながら過ごしています。だから、出会う人、出会う人「この人かな。この人かな」と思って、毎日、過ごしているというのもあります。その中で一人、生年月日が全く一緒の男性と出会いました。月日が一緒でも珍しいですが、生まれた年も一緒で、しかも、こちらは大阪、あちらは京都で場所も近い。おまけに身長も体重もすべて、見た感じ、ほぼ同じでした。「この人かな」とも思いましたが、今のところ、その人は、待っている「誰か」ではないようです。勿論、わたしという人間を待っているとは思っていません。わたしに出会っても高が知れています。でも、わたしが戴いた、わたしも戴いた福音であるイエスさまに出会うなら、高が知れているどころか底が知れないのです。つまり、底知れない恵みと喜びを戴くことになるのです。だから、出会う人のすべては『イエス・キリストの福音を待っている』方として、これからも関わりを深めたいと思っています。福音を待っている「誰か」とは、福音に発見されて、本当の自分を取り戻し、本当の自分の生き方に目覚めたいと思っている「誰か」です。もし、この解放と回復と自由の救いが実現するなら、それは、本当に喜ばしいことです。だから、逆に、福音であるイエスさまに発見された人には「本当に有り難う」と言いたい気持ちなのです。

 だから、ペトロにも有り難うと言いたいのです。なぜなら、ペトロは、この後、福音であるイエスさまに発見されるからです。4節を見ると、イエスさまは、群衆に「話し終わったとき、シモン(ペトロ)に、『沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい』と言われ」ました。このペトロは、既にカファルナウムの町に住んでいた姑の癒しの出来事の中で、イエスさまと知り合っていたはずです。でも、ペトロにとって、その時は、まだ、イエスさまと出会う時ではなかったのです。何が言いたいのかと言いますと、要するに、もう既にイエスさまを知っている人でも、まだ、イエスさまと出会って従ってはいない人も当然いるということなのです。だから、その人にとって、イエスさまとの出会いは、むしろ、これからです。ただ「ゲネサレト湖畔」でイエスさまと出会ったペトロは、怪訝そうな顔つきでした。なぜなら、ペトロは、他の漁師たちと共に「舟から上がって網を洗っていた。」つまり、仕事を終えようとしていたからです。しかも、それは、5節でペトロが「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした」と言っているように、一晩中、漁に出て、魚一匹も捕れず、ただただ疲れ果てて帰って来てのことだったからです。それなのに、漁のことに関しては、経験値の低いイエスさまが「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と命じたのですから、普通なら拒絶します。しかし、ペトロは「お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と答えたのです。これは、ペトロがイエスさまを「先生」(ラビ・教師)と言っていることからも分かります。要するに、イエスさまが、これまでの福音宣教の中で、どのように力を現されたのか。それは、御言葉によって力を現された、ということの紛れもない証拠でした。なぜなら、ペトロは「お言葉(御言葉)ですから、網を降ろしてみましょう」と言ったからです。

 そして、6節「漁師たちがそのとおりにすると、おびただしい魚がかかり、網が破れそうになった」のです。そこで、7節「もう一そうの舟にいる仲間に合図して、来て手を貸してくれるように頼んだ」ところ「彼らは来て、二そうの舟を魚でいっぱいにしたので、舟は沈みそうになった」ほどでした。ペトロたちは、夜通し漁をして1匹も取れなかったのに、今、漁に適さない時間帯であるにも拘らず、大漁という現実を突き付けられています。だから、思わず、8節「これを見たシモン・ペトロは、イエスの足もとにひれ伏して」言ったのです。「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」と。この罪の自覚は、どこから来ているのでしょうか。それは、ありがちな倫理や道徳の違反が関係したのではありません。よく見ると、ペトロは、この出来事を通して、イエスさまの足もとに「ひれ伏して」います。それは、礼拝を意味する言葉です。また、事の始まりに、ペトロは、イエスさまを「先生」と呼びましたが、事の終わりには「主よ」と呼んでいます。つまり、ペトロにとって、この出来事は、イエスさまを神の子・救い主と認識するには、十分な奇跡(しるし)だったのです。要するに、イエスさまは、悪霊や病という現象、また、魚という被造物、果ては、嵐の海の波や風さえも従わせることの出来る、正真正銘の「主」なのです。確かに、9節10節には「とれた魚にシモン(ペトロ)も一緒にいた者も皆驚いたからである。シモンの仲間、ゼベダイの子のヤコブもヨハネも同様だった」とあります。だから、罪の自覚は、倫理や道徳の違反云々ではなく、ただ、生ける神の言葉である、イエス・キリストとの出会いによって芽生えるのです。そして、当然の如く罪を自覚したペトロは、イエスさまに「わたしから離れてください」と言いました。しかし、イエスさまは、そのペトロの言葉を虚しくして、このように言われました。10節「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる」と。 そこで、11節「彼らは舟を陸に引き上げ、すべてを捨ててイエスに従った」のです。

 これは、旧約のイザヤ書6章に記されている預言者イザヤの召命と似ています。イザヤは、紀元前742年、それは、ウジヤ王の死んだ年に、幻の中で「高く天にある御座に主が座しておられるのを見た」のです。また、そこには、6つの翼を持つ天使セラフィムも飛び交っていました。その時イザヤは、神のご臨在を前に、罪の自覚が芽生え「わたしは滅ぼされる」と言いました。すると、セラフィムの一人が「祭壇から火鋏で取った炭火」をイザヤの口に触れさせて「あなたの咎は取り去られ、罪は赦された」と言ったのです。それと同時にイザヤは、主の御声も聞きました。主は「誰を遣わすべきか。誰が我々に代わって行くだろうか」と言われました。そこでイザヤは「わたしがここにおります。わたしを遣わしてください」と言ったのです。ペトロもまた、神の子救い主であるイエスさまを前に、罪の自覚が芽生えました。その罪の自覚は、もはや天使ではなく、イエスさま御自身が取り去り、赦すことを約束されました。なぜなら、イエスさまは、ペトロに「恐れるな」と言っておられるからです。この御言葉にも権威があります。この「恐れるな」の一言には、この時には、まだ実現していない、約束されたイエスさまの十字架の愛と復活の救いを見て取ることができます。なぜなら、ヨハネの手紙1、4章18節で、こう言われているからです。「愛には恐れがない。完全な愛は恐れを締め出します」と。それは、ひとえに、イエスさまが、この後の物語5章32節でも言われるように「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである」からなのです。だからイエスさまは、ペトロに「今から後、あなたは人間をとる漁師になる」と言われたのです。イザヤと同様に、罪赦された、あなたを、滅びゆく人々のために、解放と回復と自由の福音を待つ人のもとに遣わすと言われたのです。

 ところで、奇跡は、これまでもイエスさまが行なわれたことでしたが、それらは、決してメインではありませんでした。それらは、悪霊の追放や病の癒しのことですが、そのことを説教の中で取り扱った時、そういったものは、インパクトがあっても、その中に本質が無い。だから、悪霊追放や病の癒しは、単なる現象への対処に過ぎず、それが問題の解決ではないと言いました。ですから、この物語の大漁という奇跡も、ものすごくインパクトのある現実ですが、その中に真実は無いのです。そして、大漁という奇跡は、2度目はあっても3度目はありませんでした。2度目というのは、復活されたイエスさまが、ガリラヤで弟子たちと出会われた時です。イエスさまは、ガリラヤ湖で漁をしていた弟子たちと再会し、再び弟子たちを大漁の奇跡へと導き、その後、弟子たちと一緒に朝の食事をされました。だから、この大漁の現実は、単なる現実なのです。言ってみれば、マタイ福音書9章37節で言われているように「収穫は多いが、働き手が少ない」ということなのです。だから、その大漁そのもの中に真実はありません。ただ、その出来事には、それ以上に優るものとしての真実があり、そこに触れることこそが、真の信仰を生み出すのです。大漁の奇跡は目に見える現実です。しかし、そこには、目に見えない真実があり、それが「神の国は近づいた」という宣言であり、それが、神の国の支配(イエス・キリストのご支配)の訪れなのです。その訪れは、ペトロが罪の自覚のゆえに、自分から離れるようにとイエスさまに願っても、更に近づいてくるのです。なぜなら、イエスさまにとって、ペトロと漁師たちは、福音を待っている「誰か」だったからです。だから、この大漁の出来事は、イエスさまを信じれば、人生、何でも上手くいくというような、御利益的な大漁、大漁という話しではないのです。なぜなら、信じて救われた人も、何でも上手く行かない代表的な死は通らなければならない道だからです。だから、この大漁の出来事には、目に見える、それ以上の、それに優る喜びが暗示されているのです。それが「人間をとる漁師」という言葉で表されていると言えます。これまでのペトロは、自分が福音を待っている「誰か」だったのです。しかし、これからは、誰かが待っている「あなた」になったということなのです。

 だから、真実は、すべて神の言葉、御言葉の中に隠されていると言えます。『神の言葉の威力』は、私たちをご利益的な信仰に導くのではありません。そうではなく、滅びゆく魂を救済する宣教、それは、罪やサタンや世の物事に支配されている人々に解放と回復と自由を与える宣教へと導くのです。そうして、人は、人生に生きる意味を取り戻すのです。このことを、著書『夜と霧』の中では“ロゴセラピー”と言っています。冒頭で引用した「何かがあなたを待っている。」「誰かがあなたを待っている」というのも“ロゴセラピーのエッセンス”と言われています。ロゴというのは、ギリシア語でロゴス(意味)です。それで意味によるセラピー(癒し)となるようです。ただ、ロゴスというのは、他にも意味があり、調べれば、ミュトスと呼ばれる神話や寓話や空想に対する理性、言(神の言葉・イエス・キリスト)、もっと言えば、神のことでもあるのです。また、それは、論証する言葉、物語る言葉であるとも言われています。兎に角、言葉を通じて語られ、表わされる、理性的な働き(力)のことだと説明されているのです。それが、福音なのです。私たちは、常に、福音を待っている「誰か」です。その福音は、恵み深い御言葉の権威によって私たちを救い、主であるイエスさまに従わせてくれるのです。しかし、それだけではなく、同時に私たちは、常に、誰かが待っている「あなた」でもあるのです。だから、福音を持っている「あなた」は「人間をとる漁師」として、その福音を、あなたを待っている「誰か」に届けるのです。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 10:23| 日記