2023年07月30日

2023年7月30日 主日礼拝説教「御言葉への信頼」大坪信章牧師

ルカによる福音書5章12節〜16節、列王記下20章1節〜7節                 
説 教「御言葉への信頼」大坪信章牧師

 イエスさまは、漁師のペトロたちを伴い、彼らと出会われたティベリアス湖と呼ばれるガリラヤ湖を後にされました。その後、漁師のペトロたちと共に遣って来られたのは「ある町」でした。12節を見ると「イエスがある町におられたとき、そこに、全身重い皮膚病にかかった人がいた」とあります。これまで、イエスさまは、汚れた悪霊に取りつかれた男を悪霊から解放し、ペトロの姑を病(熱)から回復させました。その他にも、色々な病気で苦しむ者を癒し、多くの人に自由を与えられました。そして、今日、イエスさまは「全身重い皮膚病にかかった人」と出会われたのです。このルカ福音書では、この5章に至るまでに、既に「重い皮膚病」という言葉が出てきていました。それは、4章27節です。「また、預言者エリシャの時代に、イスラエルには重い皮膚病を患っている人が多くいたが、シリア人ナアマンのほかはだれも清くされなかった」とあるのです。このナアマンは、異邦人で、その当時(紀元前850年頃)、ただ一人、その「重い皮膚病」が癒されたのです。それは、預言者エリシャが語った言葉(御言葉)を、ただ信じたからです。その物語は、列王記下に記されています。その5章10節で、エリシャは言いました。「ヨルダン川に行って七度身を洗いなさい。そうすれば、あなたの体は元に戻り、清くなります」と。それを、エリシャは、直接ナアマンに会って話したのではなく、使いの者をナアマンのもとに送って言わせたのです。そのため、ナアマンは怒って国に帰ろうとしました。しかし、家来たちがナアマンを説得し、ナアマンがエリシャの言った通りにすると「重い皮膚病」は癒されて元に戻り、ナアマンの体は清くされ、小さい子どもの体のように、すべすべになったのです。このナアマンが、エリシャの語った言葉(神の言葉)を、ただ信じたというのは、今日の物語にも共通することです。

 ナアマンもかかった、その「重い皮膚病」は、旧約の原語ヘブライ語で、ツァラアトと言って、打つとか打たれた者を意味します。また、新約の原語ギリシア語では、レプラと言って、鱗状のガサガサしたもの、かさぶた状の、或いは、外皮を剥ぐことを意味します。以前は、この「重い皮膚病」のことを、今で言うハンセン病のことだと見なしました。ただ、厳密には、もっと広い意味での皮膚病として取り扱われるため、現在では、ハンセン病そのものを指すのは間違いであると言われています。一番新しい聖書協会共同訳では「規定の病」(律法で規定された病)となっています。いずれにしろ、私たちは、その病の患者が、肉体的、精神的、また、社会的苦痛を受けたことを知っています。それは、直接は、病が与えた苦痛でしたが、それ以上に、人間の無知や無理解、そして、無情が与えた苦痛のほうが大きかったと言わざるを得ません。

 この広い意味での皮膚病の扱いについては、聖書の旧約、レビ記13章14章の律法の規定の中に記されています。それこそ、聖書協会共同訳で言うところの「規定の病」です。そして、それは、本当に広い意味で取り扱われています。というのは、人間の身体の疾患のことだけを言うのではなく、他に衣類や皮(革)や家屋(壁の表面)等に発生する菌やカビの状態を指す名称でもあったからです。ここでは、その中の皮膚病、或いは、白癬と呼ばれるケースについて取り上げます。もし、皮膚病の疑いがある時は、祭司のところに行って調べてもらいます。そして、次の症状がある時、皮膚病という診断が下ります。それは、皮膚の毛が白や場合によっては黄色みを帯びた症状、或いは、赤みがかった白の疱疹や湿疹が皮下組織に及んでいる時。発疹が皮膚に広がっている時。また、皮膚がただれている時です。その時、祭司は、その人に「あなたは汚れている」と宣告します。反対に、次の症状がある時は、皮膚病ではないという診断が下ります。それは、皮膚の毛が白や黄色みを帯びることなく、赤みがかった白の皮膚でもなく、症状が皮下組織に及んでいない時。発疹が皮膚に広がっていない時。また、皮膚がただれておらず白くなっている時です。その時、祭司は、症状が軽ければ、場合によっては1週間、長くて2週間の隔離の期間を経て、その人に「あなたは清い」と宣告します。

 このように、重い皮膚病と診断された場合、患者は皮膚と皮下組織(神経)にダメージを受けています。皮膚の感覚はなくなり、身体に奇形や変形を伴う危険な状態です。このような重い皮膚病にかかった患者、それは、祭司から「あなたは汚れている」と宣告された人は、律法で2つのことが課されました。1つは、人が自分の近くを通る時「衣服を裂き、髪をほどき、口ひげを覆い、『わたしは汚れた者です。汚れた者です』と呼ばわらねばならない」(レビ記13章45節)ということです。また、もう1つは「その人は独りで宿営の外に住まねばならない」(同46節)ということです。この2番目の隔離については、病が蔓延するのを防ぐための処置でした。けれども、先程「重い皮膚病」が、旧約の原語ヘブライ語では、ツァラアト、それは、打つとか打たれた者を意味するとあったように、神に打たれた者、つまり、罪ある者、汚れた者としての隔離でもあったのです。そのため「重い皮膚病」の患者は、肉体の苦しみに加え、軽蔑という、それは、精神的・社会的な面も合わさった、二重の苦しみに耐える必要があったのです。

 そのような「全身重い皮膚病」にかかった「この人」は、宿営の外からやって来て、12節「イエスを見てひれ伏し、『主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります』と願った」のです。「この人」は、イエスさまを前に、これまで多くの「重い皮膚病」の患者がしてきたように「わたしは汚れた者です。汚れた者です」と呼ばわることをしませんでした。むしろ、イエスさまに近づき「ひれ伏し」たのです。この「ひれ伏す」という言葉には、顔や眼という意味があります。「この人」は、イエスさまと向かい合って、顔と顔を合わせ、イエスさまの目に、自分の存在を認めてもらおうとしたのです。そして、その顔(口)から出る、つまり、言葉(御言葉を)を求めたのです。「この人」は「わたしは汚れた者です。汚れた者です」と言わなければならないことを、頭では理解していても、体がイエスさまに反応したのでしょう。というのは、人間には、第1の脳が頭にあり、第2の脳が内臓の腸にあり、そして、第3の脳が皮膚にあると言われます。確かに、頭で物事を受け止める時、腸で物事を受け止める時があるのと同じように、肌で、それは、皮膚で物事を受け止める時もあります。

 例えば、スーパーへ買い物に行った時に、不思議な感覚に陥ったことが何度かあります。それは、食品や食材のあるフロアを歩いていると、頭ではなく、体のほうから「今日は魚が食べたい」とか「今日は肉が食べたい」と要求してくるのです。別に体が言葉を発するというわけではなく、欲する食品のほうに向かって体が勝手に動いていくのです。昨日は、おそらく体が自分の体に足りないと、余程心配したのか、今まで一度も買ったことがない「野菜サラダ」を手に取っていました。大体、野菜は食材を買って調理しますが、最近は、それが滞り、体が悲鳴を上げたのだと思います。また、日焼けもそうなのです。一昨年までは何のケアもしなかったのに、昨年から、皮膚が日陰を求めて歩き、交差点では、柱の細い陰の所に立って信号待ちをするほどです。

 余計なことを話しましたが、きっと「この人」も、律法の規定では、人に近づくことが許されていないことは百も承知でした。けれども、イエスさまが町に遣って来られた時、頭を差し置いて、皮膚が反応し、体が自然とイエスさまのほうに向かったのではないかと思うのです。そして「この人」は言いました。「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と。そうすると「この人」は、御心でなければ、自分は清くされないという思いが、同時に頭を過っていたはずなのです。「この人」は、これまでのうわさ通り、イエスさまに対して「重い皮膚病」を清める御言葉への信頼はあったのです。しかし、罪を赦し清める御言葉への信頼は、まだ、なかったと言えます。しかし、イエスさまは、13節「手を差し伸べてその人に触れ、『よろしい。清くなれ』」と言われました。すると「たちまち重い皮膚病は去った」のです。イエスさまは、まず、手を差し伸べて「この人」に触れました。それは「この人」の皮膚や体が、どれほど欲し、待ち望んだ御業だったでしょう。手当てという言い方があるほどですから、そのような行為が清めの一端を担っていたということは否めません。しかし、それで「重い皮膚病は去った」とは、書かれていないのです。「よろしい。清くなれ」それは「わたしの心だ。清くなれ」とイエスさまが言われた時に「たちまち重い皮膚病は去った」のです。だから、明らかに「重い皮膚病」は、イエスさまの言葉(御言葉)の権威に反応したのです。「重い皮膚病」もそうですが、遡れば、ペトロの姑の病である「熱」もイエスさまの権威ある御言葉によって去り、男に取りついた悪霊もイエスさまの権威ある御言葉によって出て行きました。こうして、人間に苦痛を味わわせる、この世の様々な支配、それは罪と死と滅びの支配から、人々を解放し、回復させ、自由を与えることが、イエスさまの心だったのです。だから「この人」の御言葉への信頼は、まだ完全ではなかったと言えます。イエスさまの心は、人の皮膚や神経を犯す「重い皮膚病」からの解放以上に必要な、心と魂を犯す「罪」からも解放し、自由にするからです。その罪からの解放については、次の物語の中で取り扱われます。

 ところで「重い皮膚病」や「熱」は、どこに去り、「悪霊」は、どこに行ったのでしょうか。消えたわけではありません。「悪霊」や「病」や「重い皮膚病」、そして、罪や死や滅びは、イエスさまが、負うべき重荷として、その身に背負われたのです。そして、十字架の時に、イエスさまは、その重荷と共に、神に打たれ、呪われた者となり、見捨てられた者となり、私たちの悩み苦しみの身代わりとなって死なれたのです。だから「重い皮膚病」にかかった「この人」に告げたイエスさまの言葉「よろしい。清くなれ」それは「わたしの心だ。清くなれ」というのは、イエスさまの命を懸けた言葉であり、究極の愛の言葉だったのです。そこで、イエスさまは、14節で「厳しくお命じになった」のです。「だれにも話してはいけない。ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めたとおりに清めの献げ物をし、人々に証明しなさい」と。「清めの献げ物」については、冒頭で説明した律法の規定、レビ記14章に記されています。そこには、主の御前に贖いの儀式を行うことにより、「思い皮膚病」が清められたことを証明する、清めの儀式となることが記されています。イエスさまは、律法を破るために来られたのではなく、律法を完成するために来られたということが、このことを「この人」に指示されたことからも分かります。しかし、祭司に見せるが早いか、15節16節には「イエスのうわさはますます広まったので、大勢の群衆が、教えを聞いたり病気をいやしていただいたりするために、集まって来た。だが、イエスは人里離れた所に退いて祈っておられた」とあります。「この人」は、「重い皮膚病」が清められた喜びを喜んでいるのであって、本来、喜ぶべき、罪からの解放、回復、自由の救いを喜んでいたわけではないのです。だから、噂を聞いて、イエスさまのもとに集まってくる人々もまた、そのことを知らないでいるのです。そのことと言うのは、イエスさまが言われた「わたしの心」です。それは、「わたしが、あなたの病、苦しみ、悲しみ、それだけではなく、罪、死、滅びを背負い、十字架の死(身代わりの死)を死ぬ」ということです。だから「あなたは、心の最奥底から、それは、皮膚や神経を犯す病ではなく、心と魂を犯す罪から清くなる」ということです。このことを信じること、それが、本当に『御言葉に信頼する』ということなのです。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 10:21| 日記