2023年08月20日

2023年8月20日 主日礼拝説教「罪人を招く主イエス」大坪信章牧師

ルカによる福音書5章27節〜32節、詩篇32篇1節〜7節
説 教「罪人を招く主イエス」大坪信章牧師

 27節「その後」とありますが、それは、イエスさまが、中風を患っている人を癒された出来事の「後」のことです。中風を患っている人の癒しの出来事では、御言葉による罪の赦しと病の癒しが行なわれました。その、いずれも決して簡単ではない業を、イエスさまは行なわれました。それは、単純にイエスさまが、それが誰であれ、その一人ひとりに対して責任を持つ神の子・救い主、主だったからです。それゆえに、イエスさまの言葉、その一言一言には、抗し難い、それは、決して抗えない、そういう権威があったのです。要するに、逆らえないということです。積極的に言えば、従わざるを得ないということです。世の中では、権力が行使され、権力に逆らえない、権力に従わざるを得ないという事態を生んでいます。その強制力は、決して平和や平安を約束することはありません。むしろ、不安や恐れを与えています。しかし、今や権力ではなく、主であるイエスさまによって、権威が行使され、その恵みや救いの言葉に逆らえない、その言葉に従わざるを得ないことが起こっています。その強制力は、人々に解放と回復と自由を約束しています。普通、恵みとか救いを拒絶する人はいません。もし「恵みに逆らう」とか「救いの方法に従わない」という言い方があれば、それは、言葉として、ものすごく違和感があります。普通に考えて、恵みや救いは、中々そう有ることが難しいことです。だから、もし、それが実際に有り得るなら、それは、もう本当に有り難いと言うか感謝でしかないのです。しかし、その恵みや救いの喜びを、世の多くの人々は拒絶しています。この恵みと救いは、中風を患っていた人にとって「あなたの罪は赦された」というイエスさまの一言、それは、御言葉によって与えられました。その御言葉に権威があったのは、その一言に、神の子であり救い主であるイエスさまの、彼に対する責任と約束が込められていたからです。イエスさまは、中風を患っている人の罪の身代わりとして十字架を背負い死なれます。それは、イエスさまが主だからです。たとえ人間社会から見捨てられたような人であれ、イエスさまは、その人の主なのです。いわゆる「あなたの罪は赦された」という一言は、中風を患っていた人に対する主の命令だったのです。そして、このことは、今日の物語にも通じることなのです。

 27節「その後」イエスさまは「出て行って、レビという徴税人が収税所に座っているのを見て、『わたしに従いなさい』と言われ」ました。「出て行った」というのは、マルコ福音書では「湖(ガリラヤ湖)のほとりに」出て行ったようです。そして、そこで「レビという徴税人が収税所に座っているのを」見られたのです。この「収税所」で有名なのは、カファルナウムの町の収税所です。そう言えば、中風を患っている人の救いも、マルコ福音書では、カファルナウムの町を舞台に起こっています。そのカファルナウムは交通の要衝でした。だから、その町を出入りする通行人からは通行税が、そして、輸出や輸入の商品などからは通関税が徴収されました。収税所は、その他にも人頭税から所得税に至るまで、様々な税を徴収する事務所だったのです。そして、そこに居た「レビ」は、マルコ福音書では「アルファイの子レビ」と、父親の名前まで明らかにされています。しかし、マタイ福音書では、福音書の著者「マタイ」自身を指すのです。だから、実際、このレビは、レビなのかマタイなのか、それとも、同一人物が途中で名前を変えたのかは定かではありません。ユダヤでは、名前を2つ所有することは有り得ますが、レビとマタイは、いずれもヘブライ語の名前なので、その2つを1人の人間が所有する可能性は低いようです。或いは、レビは、レビ族(神の代理人としての祭司)の家系なので、そのことが関係しているのかもしれません。ただ、この後、徴税人の「レビ」は、悔い改めて主に立ち帰るのです。この当時、徴税人が悔い改めて主に立ち帰るというのは、この出来事や同じく徴税人ザアカイの出来事に限ったことではありませんでした。このルカ福音書を遡れば、3章で、洗礼者ヨハネが、悔い改めの洗礼を宣べ伝えていた時に「徴税人も洗礼を受けるために来て」(12節)いるからです。だから「レビ」がレビでもマタイでも、或いは、同一人物でも不思議はないのです。ただ、イエスさまの弟子(12人弟子)として選ばれた徴税人は、マタイ(神の賜物)という名前の人物だったということだけは確かなことです。この徴税人のレビは、収税所に座っていました。それは、レビが、ある程度、高い地位に就いていたことを窺わせます。そこで思い出すのが、この福音書の19章に記されている、徴税人ザアカイの物語です。ザアカイについては「この人は徴税人の頭で、金持ちであった」(2節)と説明されているので、明らかに地位の高い人でした。そして、徴税人は皆一様に裕福でした。なぜなら、彼らは、当時ユダヤを植民地としていたローマ帝国に寝返った売国奴、つまり、裏切り者のユダヤ人だったからです。彼らは、大枚をはたいて徴税人の職を勝ち取り、帝国の代理人として、税金や罰金を徴収する権限が与えられていました。レビは、祭司の家系ですから、当然、神の代理人としての働きが求められますが、現状は、ローマ皇帝を主とする帝国の代理人に成り下がっていたと言えます。そして、おもに、先ほど幾つか挙げた様々な税を、通行人から取り立てました。それも、人々から徴収できる正規の徴収額以上の金銭や現物を取り立て、正規の分は帝国に、残りは私利私欲のために自分の懐へ入れたのです。ただ、それと引き換えに、徴税人は、人々から、泥棒や人殺しなどの罪人、また、異教徒(異邦人)と同じくらい憎まれ、会堂からも締め出され、社会から孤立していたのです。

 そのような、徴税人のレビに、イエスさまは目を留められました。そして、唐突に「わたしに従いなさい」と言われると、28節「彼(レビ)は何もかも捨てて立ち上がり」イエスさまに「従った」のです。これは、ルカ福音書の5章で、ガリラヤ湖の漁師たちが「舟を陸に引き上げ、すべてを捨てて」イエスさまに従った出来事と同じです。それを徴税人のレビに当てはめれば、自分の地位の高さを表す「その座を放棄し」そこから「立ち上がり」そして「すべてを捨てて」イエスさまに従いました。それは、冒頭でも話したように、イエスさまが、ガリラヤ湖の漁師たちは勿論のこと、レビにとっても主だからです。いわゆる「わたしに従いなさい」という一言は、徴税人のレビに対する、主の命令だったのです。その後、レビは、29節「自分の家でイエスのために盛大な宴会を催し」ました。そして「そこには徴税人やほかの人々が大勢いて、一緒に席に着いて」いました。要するに、レビは、幹事(世話役)を買って出て、徴税人仲間や社会に埋もれていた大勢の人を家に招待したのです。それは、悪名高い人たちや罪人呼ばわりされた病人や体の不自由な人たちでした。このレビが率先して行なった幹事という働きは、色々なスキル(能力)が求められます。特にコミュニケーション能力は欠かせません。その会話術や説得力などは、元々、徴税人のレビが持っていた能力でした。しかし、レビは、その能力を、これまでは、徴税人として使い、様々ものに課税し、必要以上に人々から税を徴収し、正確に帳簿を付けたのです。そういう意味で、レビには、職務遂行能力があったと言えます。しかし、今、彼は、その能力を幹事(世話役)として、イエスさまに献げたのです。

 これまでは、ローマ皇帝がレビの主で、その下でレビは税の徴収者でした。しかし、その主の下で得た高い地位と裕福な暮らしと引き換えに、レビは、人間性も人間味も失ったのです。その結果、レビは、人々の冷たい視線や敵意の目に晒され、息苦しく、それは、生きることが苦しくなっていたのでしょう。しかし、イエスさまが自分の主だと気づいたのです。そして、その下で、レビは社会から爪弾きにされ、社会に埋もれた人々の魂の徴収者になったのです。それは、ルカ福音書5章で、ガリラヤ湖の漁師たちがイエスさまから「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる」(10節)と言われたのと同じことが、ここでも起こっているのです。つまり、レビは「人間をとる徴税人」になったのです。それは、とても素晴らしいことで、誰もが喜ぶことでした。しかし、30節を見ると「ファリサイ派の人々やその派の律法学者たちはつぶやいて」イエスさまの弟子たちに言ったのです。「なぜ、あなたたちは、徴税人や罪人などと一緒に飲んだり食べたりするのか」と。おそらく、このファリサイ派の問いに、弟子たちは答えられなかったのです。なぜなら、それは、主が良しとされたことだったからです。それで、代わりにイエスさまが答えられました。31節32節「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである」と。悔い改めというのは、自分の人生を後悔することではありません。自分の人生を、新しい主との間で契約を更改するように更改することなのです。

 これまで、イエスさまの働きには、医者の側面が強く出ていましたが、ここで、はっきりと御自分の働きについて証しされました。「わたしが来たのは、罪人を招いて悔い改めさせるためである」と。つまり、イエスさまは、御自分のことを、真の主を見失った罪人たちの主(神の子・救い主)だと言われたのです。サムエル記上16章7節に、このような御言葉があります。「人は目に映ることを見るが、主は心によって見る」と。イエスさまは、真の主を見失い、この世の主の下で人間性も人間味も失い、平安も喜びもないレビの心を見抜かれたのです。レビという名前は「親しむ」とか「結合する」という意味があります。これは、レビが誰と親しみ誰と結合するかで、人生は大きく変わることを暗示しています。つまり、誰を主として生きるのか、それによって私たちの人生も大きく変わります。レビは、イエスさまを主とし、失った人間性と人間味を取り戻しました。それは、幹事として、盛大な宴会に多くの人々を招いたことからも分かります。レビの能力は、最大限に最善の仕方で用いられたのです。それは、レビの家系である祭司の働きの復活でもありました。祭司は、人々の罪を贖う儀式を神から請け負っています。同じように、レビは今、人々の罪を贖う主の下へ、社会に埋もれ、罪に悩み苦しむ人々を招く者になったのです。レビは「ここに神の子・救い主がおられます。今すぐおいでください。この方は、私の主、私の罪の贖い主、また、あなたの主、あなたの罪の贖い主です」と言い広めたのではないでしょうか。私たちも、この神の子・救い主である、主イエスさまによって取り戻した人間性、そして、人間味を、喜んで神さまに献げていきましょう。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 10:18| 日記