2023年10月22日

2023年10月22日 主日礼拝説教「気前のよい神の子ども」大坪信章牧師

ルカによる福音書6章37節〜42節、申命記7章9節〜15節
説 教 「気前のよい神の子ども」

 先週は「敵を愛し、憎む者に親切にせよ」という教えに聴きました。その御言葉も含め、その後にも、沢山の教えが続きましたが、その一つ一つは、敵を愛する愛の様々な形と言えました。ガラテヤの信徒への手紙5章22節には「霊の結ぶ実」が9つあります。それは、まず「愛であり」とあって、その後に「喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です」とあります。いわゆる、愛にも色々あって、その豊かさと濃密さが、神の愛と呼ばれるアガペーの特質です。それは、単なる感情的なエロスや、友情的なフィリアと呼ばれる愛を超える愛です。この超越した愛の実現を、イエスさまは、私たちに願っておられます。ただ、それは、もともと、神が民に願っておられること(御心)でした。そのために、神は、あらゆる方法、それこそ、先ほどの愛の豊かさと濃密さによって民を愛されました。しかし、民は、その愛を裏切り続けたのです。要するに、人は誰も、その愛を実現することができなかったのです。

 しかし、その神の愛を、神の子であるイエスさまが、十字架に架けられた姿で実現し、世に示されました。つまり、神の敵となった罪深い人間を、罪の報酬としての死や滅びから救い出すために、イエスさまは、身代わりとなって死なれたのです。だから、これ以上の愛は無いのです。しかし、この神の愛(アガペー)が示された以上、この愛は、確かに、この世に存在します。私たちは、このイエスさまの十字架の愛によって、初めて愛を知ったのです。だから、愛が裏切られる時も、愛に飢え渇く時も、また、愛の葛藤によって苦しむ時も、このイエスさまの十字架の愛は、信じることのできる愛として、世に確立されています。そして、このイエスさまの十字架の愛を信じた時、私たちは、その愛の豊かさと濃密さの中にいて、神が願い、イエスさまも願う、愛の実現に向かって生きるのです。

 そこで、今日、イエスさまは言われるのです。37節「人を裁くな。そうすれば、あなたがたも裁かれることがない。人を罪人だと決めるな。そうすれば、あなたがたも罪人だと決められることがない」と。ここで言う「裁くな」とは、偏見という意味です。また「罪人だと決めるな」とは、非難という意味です。だから、これは普通に、人が人を指導したり、注意したり、諭したり、間違いを指摘したりするな、と言っているわけではありません。それは、仕方にもよるのかもしれませんが、犯罪に目を瞑って良いはずはなく、違法行為や不正行為への取り締まりが為されなければ、社会は惨憺たる状態になってしまいます。ただ、それが、今の社会そのものであるとも言えます。また、そういう偏見や非難が自分の中にあるのであれば、それが罪なのです。そのままでは、決して、イエスさまが願っておられる、愛の実現を生きることはできなくなります。しかし、それだけでは済まなくなります。

 なぜなら、その人は、神によって裁かれ、神によって罪人だと決められてしまうからです。要するに、その人は、愛の実現を生きる根拠としてのイエスさまの十字架の愛の豊かさと濃密さを、一緒に失うことになるのです。そして、その人は、神の愛の中にいない者となるのです。それは、その人にとって、次のことを意味します。それは、罪の報酬としての死が決定的となり、滅びが確定したということです。だから、イエスさまは、私たちが神から裁かれ、将来、神から見捨てられた者になることがないようにと願われるのです。私たちは、イエスさまの教えを聞く時、その教えに対して、決して、自分が充分な者だとは言えません。だから、その教えは、命令でありながら、イエスさまの、私たちに対する願望だということを知る必要があるのです。

 そうして、私たちは、イエスさまが願う愛の実現に向かって生きるのです。それが、37節の「赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦される」という教えです。これらの教えも、神の愛(アガペー)の豊かさの一つです。冒頭で紹介した「霊の結ぶ実」に当てはめれば「赦し」は「寛容」で、「与える」が「善意」です。ただ、この積極性は、私たちの恵みに繋がってはいますが、私たちの救い、それは、私たちが神の子となる資格という恵みに直結しているかと言えば、そうではありません。もし、そうなってしまえば、人を赦すことが、罪の赦しの基準になってしまいます。また、善い行ないが、私たちを義(正しい者)とする基準になってしまいます。そうすると、救いは、神の御手の中にあるのではなく、私たちの手の中にあるということになり、自分が神のようにさえなってしまいます。そして、何より、イエスさまの十字架の死も無意味になります。イエスさまの十字架の死は、私たちの罪のための贖罪の献げ物なのです。私たちは、それが、どのような罪であっても、その罪を心に抱いた時点で、その罪の報酬は死なのです。その罪は、自分の行ないでは、帳消しにできないのです。
 
 だから「赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦される」というのは、こういうことなのです。つまり、私たちが人を赦せば、それによって、神が私たちを赦してくださっていること、そして、赦されている喜びや有り難味が分かるということです。なぜなら、依然、神は目に見えない方ですし、神が私たちの罪を赦されたと言われても、私たちは、どうしても、その現実味に欠けるのです。しかし、私たちが人を赦すなら、私たちは、その葛藤や、相手への気持ち、また、相手の気持ちを味わい知ることになるのです。それによって、私たちは、神の葛藤や、神の私たちへの気持ち、また、自分の気持ち、それは、赦されることが、どんなに有り難いことかを知るのです。主の祈りの中にも似た言葉があります。それは「我らに罪を犯す者を、我らが赦す如く、我らの罪をも赦したまえ」ですが、それも同じなのです。人を赦すことが、私たちの罪の赦しの基準になるのではありません。というより、人の罪を赦すなら、私たちは、その葛藤や、相手への気持ち、また、相手の気持ちを味わい知ることになるのです。それによって、私たちは、神の葛藤や、神の私たちへの気持ち、また、自分の気持ち、それは、赦されることが、どんなに有り難いことかを知るのです。

 だから、赦しの教えの後に続く、38節の「与えなさい。そうすれば、あなたがたにも与えられる」というのも、同じなのです。私たちが人に与えるということを通して、神が、どれほどのものを与えてくださっているかということを知るのです。それは「押し入れ、揺すり入れ、あふれるほどに量りをよくして、ふところに入れてもらえる」のです。なぜなら「あなたがたは自分の量る秤で、量り返されるから」です。だから、私たちは、自分の量る秤を大きくすればするほど、神の恵みが自分に対して、どれほどまでに大きいのかを知ることになるのです。それは、もう、抱えきれないほどの恵みでいっぱいなのに、それでも、まだ押し入れるほどで、それでもまだ足りないので、今度は、揺すって隙間を埋めて押し込むほどなのです。しかし、それでもまだ足りないので、もう、あまりの量に、恵みは、私たちの足元に零れ落ちて、くるぶしまで、いえ、膝にまで達するほどなのです。要するに、もし、私たちが少し与えるなら、私たちは、神が私に対して、少しの恵みを与えてくださっていることを知るのです。それは、そこまでしか想像がつかないからです。しかし、私たちが多くを与えるなら、私たちは、神が私に対しても多くの恵みを与えてくださっていることを知るのです。それは、そこまで想像がついた(見当がついた)ということなのです。だから、このことは「赦しなさい」という教えにも反映されるのです。もし、私たちが少し赦すなら、私たちは、神が私に対しても少し赦してくださっていることを知るのです。それは、そこまでしか想像がつかないのです。しかし、私たちが、多く赦すなら、私たちは、神が私に対しても多く赦してくださっていることを知るのです。それは、そこまで想像がついた(見当がついた)ということなのです。

 ところで、今日のイエスさまの教えは、するなという教えもあれば、しなさいと言う教えもあって色々ですが、この後も、3つほど譬えが続きます。併せて5つの教えや譬えがありますが、そのいずれも、前後の関係に、全く脈絡がないように思われます。このように、色んな教えや譬えを次々と順繰りに話すというのは、ユダヤの教師が、聴衆を飽きさせないために使う説教の方法とも言われています。また、著者のルカが、一つのテーマのもと、イエスさまの教えや譬えを、ここに纏めたというふうに考えることもできます。そうすると、何かが見えてくるのではないでしょうか。それは、人は誰でも、自分の目が、はっきり見えていないということ、それは、ちゃんとした見方ができていない、ということが見えてくるのではないでしょうか。

 イエスさまは、39節で譬えを話されました。「盲人が盲人の道案内をすることができようか。二人とも穴に落ち込みはしないか」と。これは、偏見、それは、思い込みや決めつけが邪魔をして、視野が狭くなっている、或いは、完全に見えていない人のケースです。その人は、同じ境遇にある人を手引きすることなどできるわけがなく、結局は、お互い穴に落ちてしまうということです。また、イエスさまは、40節で譬えを話されました。「弟子は師にまさるものではない。しかし、だれでも、十分に修行を積めば、その師のようになれる」と。これは、無知によって、視野が狭くなっている人のケースです。その人は、知識のある教師を指導することなどできるわけがないのです。ただ、「修行」とありますが、これは、知識を習熟すれば、その教師のようになることはできる、つまり、無知ではなくなるということです。

 そして、最後に、イエスさまは、41節42節で譬えを話されました。「あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。自分の目にある丸太を見ないで、兄弟に向かって、『さあ、あなたの目にあるおが屑を取らせてください』と、どうして言えるだろうか。偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目にあるおが屑を取り除くことができる」と。このように、私たちは、偏見や無知によって狭くなった視野で、どうして、正しく物事や人(相手・他者)を判断することができるのか、ということなのです。だから、人は、まず、自分の中から偏見を取り除き、無知の状態を克服して初めて、はっきり見えるようになって、本当にその物事や、その人(相手・他者)のことを思って、正しく判断することができるのです。

 このように、私たちは、人にあれやこれや言う前に、自分を振り返る必要があったのです。私たちは、常に、神の御前に立って、自分を省みる必要があったのです。そうすれば、私たちは、そこで知るのです。それは、イエスさまが、どれほどまでに、私たちの罪のために苦しみ、壮絶な十字架の死を遂げられたのかということを。だから、私たちが神の御前に立った時、自分の本当の姿、それは、罪に支配された自分を見て愕然とするのです。しかし、そこで、自分が本来あるべき姿をも見て、喜び感謝することにもなるのです。イエスさまは、私たちの罪(偏見、無知)のために、私たちが裁かれ、断罪されなければならない、その罪のために、身代わりとなって死なれたからです。ここに愛があります。だから、今日の説教題『気前のよい神の子ども』というのは、まさしくイエスさまのことです。しかし、それは同時に、イエスさまが、私たちのためを思って望まれることなのです。こうして、罪の現実の中にいる私たちは、イエスさまの十字架の愛によって罪赦され、愛の中に入れられ、愛の実現のために生きる道が開かれているのです。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 10:19| 日記