ルカによる福音書7章1節〜10節、申命記32章45〜47節
説 教 「主イエスの命令」
今日は「主イエスの命令」という説教題で、お話します。私たちは、年度の初めからルカ福音書を読み進めていますが、丁度、イエスさまの『平地の説教』と呼ばれる教えが一通り終わりました。そして、1節を見ると「イエスは、民衆にこれらの言葉をすべて話し終えてから、カファルナウムに入られた」とあります。イエスさまにとって、カファルナウムは、ペトロの姑の家がある町で、マタイ福音書では「自分の町」と説明されています。だから、イエスさまは、そこに帰って来られたと言ったほうが良いのかもしれません。そのカファルナウムは、イエスさまが、ガリラヤ地方で宣教する上で本拠地とされた町で、多くの奇跡が行なわれました。しかし、その町の人々は、結局、悔い改めず、イエスさまを信じませんでした。そこで、イエスさまは、10章15節で、その町について言われました。「カファルナウム、お前は、天にまで上げられるとでも思っているのか。陰府にまで落とされるのだ」と。これは、私たち、教会に属する人々への戒めでもあります。教会は、イエスさまが、自分の町とされたということ以上に、パウロに言わしてみれば、御自分の体とされた場所「キリストの体なる教会」です。だから、教会に属する人々は、イエスさまのことを誰よりも近くに感じ、イエスさまの教えは誰よりもよく知り、その奇跡のことも驚きを持って聞いています。だから救われる。だから天にまで上げられると思っていますが、果たして、そうなのでしょうか。イエスさまの『平地の説教』の最後は、御言葉を聞くだけではなく、聞いて行なう者が「岩の上に土台を置いて家を建てた人に似ている」でした。その家は、しっかり建ててあったので、不測の事態の時にも揺り動かされることはありませんでした。カファルナウムは交通の要衝で、シリアのダマスコからエジプトへ続く「海の道」と呼ばれる重要な道が通っていました。また、交易税を徴収する税関もあり、商業と漁業で栄えました。更には、会堂(シナゴーグ)が建てられ、人々の精神性は、決して低くはありませんでした。しかし、カファルナウムは、今、廃墟です。「海の道」には従っても「キリストの道」は従わなかったのです。
ところで、そのカファルナウムで、2節を見ると「ある百人隊長に重んじられている部下が、病気で死にかかっていた」のです。そこで、3節〜5節「イエスのことを聞いた百人隊長は、ユダヤ人の長老たちを使いにやって、部下を助けに来てくださるように頼んだ。長老たちはイエスのもとに来て、熱心に願った。『あの方は、そうしていただくのにふさわしい人です。わたしたちユダヤ人を愛して、自ら会堂を建ててくれたのです』」とあります。ここに、百人隊長と、その「部下」が出てきます。この部下に関して知り得ることは、彼が「病気で死にかかっていた」ということです。そして、7節では「わたしの僕」と言われています。また、8節では「兵隊」と「部下」が使い分けられていることから、この部下は、百人隊長にとって厚い信頼を寄せる兵士ではなく、召し使いのような存在だったと考えられます。ただ、隊長レベルの人間が一召し使いの病気のことを、これ程までに気に掛けるというのは有り得ません。普通は使い捨てです。また、もう1つ有り得ないのが、このローマの百人隊長は、一召し使いの病気のことで「ユダヤ人の長老たちを使いにやった」ということです。もし、一兵士を使いにやれば、百人隊長は強制的、或いは、暴力的にイエスさまを従わせ、召し使いの病気を癒やさせるという結末が想像できますが、そうではありませんでした。更に有り得ないのが、ユダヤ人の長老たちは、いわゆる侵略者側の命令で使いに出されるので嫌々行くはずです。しかし、長老たちは、イエスさまのもとに来て「あの方は、そうしていただくのに(それは、部下を助けてもらうのに)ふさわしい(そういう資格や値打ちがある)人」だと「熱心に願った」のです。なぜなら、百人隊長はユダヤ人を愛し、自ら率先してユダヤ人のために会堂を建てたからです。その会堂は、4章でイエスさまが教え、汚れた悪霊に取りつかれた男から悪霊を追い出した、あの会堂だったのでしょうか。現在、廃墟のカファルナウムには、同じく廃墟の会堂が残っていますが、その土台部分は、イエスさまの時代に建てられた会堂跡だと言われています。このように、百人隊長が直接やって来たのではなく、使いの者がやって来たわけですが、イエスさまに向かって「熱心に願った」のは間違いありません。
そこで、6節7節「イエスは一緒に出かけられた」のです。「ところが、その家からほど遠からぬ所まで来たとき、百人隊長は、今度は「友達を使いにやって言わせた」のです。「主よ、御足労には及びません。わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。ですから、わたしの方からお伺いするのさえふさわしくないと思いました」と。百人隊長は、イエスさまが自分のもとに近づいた時、今度は、友達を使いにやってイエスさまに言わせました。1つは「あなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではなない」ということ。もう1つは「わたしの方からお伺いするのさえふさわしくないと思った」ということです。これは、先程、ユダヤ人の長老たちが、イエスさまに向かって熱心に願った中で言った、ふさわしい資格や値打ちが自分には無いと言ったのです。百人隊長が、最初からイエスさまのもとに赴かなかったのは、自分がユダヤ人ではなく異邦人だったから、或いは、民間人ではなく兵士だったからかもしれません。とは言え、彼は、ローマの軍隊の中では隊長級の位の高い人物で、一兵士(一兵隊)なんかではありませんでした。しかし、彼は、自分が位の高い存在だと分かっていても、それが果たして神と呼ばれる者を前にしても、そう言えるのか、と思うに至ったのでしょう。イエスさまが自分のもとにやって来ると考えれば、その「もとに」ということは、その「下(した)に」を意味するからです。つまり、自分の支配下や影響下に神に等しい方を入れることになるからです。
だから、百人隊長は、友達に言わせました。7節8節「ひと言おっしゃってください。そして、わたしの僕をいやしてください。わたしも権威の下に置かれている者ですが、わたしの下には兵隊がおり、一人に『行け』と言えば行きますし、他の一人に『来い』と言えば来ます。また部下に『これをしろ』と言えば、そのとおりにします」と。百人隊長は、イエスさまに、ご足労には及びません。「一言」それは「ただ、御言葉をください。」「そうすれば、わたしの僕は癒やされる」と言ったのです。百人隊長は、自分が持つ権威によって、自分の下にいる兵隊や部下に命令を下すことができました。その時、兵隊や部下が命令に逆らうなど以ての外で、命令通りに従うことを知っていました。しかし、百人隊長は、次のことも、よく心に留めていたのです。それは、自分が権威を持つ者だと言う前に、既に口にしています。「わたしも権威の下に置かれている者ですが」と。これが、とても大事なのです。百人隊長が、どうして、ここまでの人格者で有り得たのかが、その一言で分かるのです。「わたしも権威の下に置かれている者です。」だから、百人隊長は、自分の上にいる千人隊長、総督、更に、その上の皇帝(カイザル)の権威に服していたわけです。ただ、それだけでは、百人隊長のような人格者であることは難しいと言えます。なぜなら、人間が血迷う時というのは、自分が権威の下に置かれている者という自覚が欠如している時だけではなく、その権威自体が誤っている時でもあるからです。その時、人間とは何と弱い者でしょう。素晴らしい能力、賜物を戴いていても、のぼせ上がって正常な判断力を失い、逆上して理性を失うのです。今回、初めて知りましたが、のぼせ上がるというのは、漢字では逆上すると書くようです。百人隊長は、権威の下に服さない者ではなく服す者でしたが、その権威を越えて神の権威の下に服する者だったのです。それが、百人隊長を、人格者を越えたところの、一人の純真な信仰者たらしめたのです。
これを聞いたイエスさまは、9節「感心し、従っていた群衆の方を振り向いて言われ」ました。「言っておくが、イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない」と。そして、10節を見ると「使いに行った人たちが家に帰ってみると、その部下は元気になって」いました。こうして見ると、百人隊長の部下は癒やされて元気になりましたが、イエスさまが百人隊長の望む「ひと言」(命令)を下した事実はありません。ただ、この同じ物語が記された他の福音書の並行記事では、百人隊長が中風の病を患った僕について、また、王の役人は、死にかかっていた自分の息子について、直接イエスさまの下に行って事情を説明しています。そうして、それぞれイエスさまから言われた「ひと言」を信じて帰っていきました。そして、僕も息子も、それぞれ良くなったわけですが、それは、イエスさまから「ひと言」が発せられた、その時だったことが強調されています。しかし、このルカ福音書では、イエスさまの「ひと言」が、使いに行った人たちに託されることはなく、ただ、群集の方を振り向いて「イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない」と「ひと言」言われただけでした。しかし、使いの者たちが百人隊長の下に帰ると、既に、その僕は癒やされていたのです。だから、ルカ福音書においては、イエスさま御自身が、神の言葉、神の「ひと言」であることが強調されていると言えます。要するに、私たちがイエスさまを信じるなら、その御言葉に聞き従う必要があるのです。また、私たちが御言葉に聞き従うなら、イエスさまの権威の下に服する必要があるのです。なぜなら『主イエスの命令』は神の命令であり、私たちに命の希望、それも永遠の命の希望を約束するからです。現に、命令とは、文字を見ても、命を与える言いつけと書きます。私たちの主イエスさまは、父なる神の権威に服し、十字架の道を厭われませんでした。そして、最後は「成し遂げられた」(ヨハネ福音書19章30節)と言って、十字架の贖いの死という任務を完了し、息を引き取られました。そして、その3日目の朝に復活されました。だから、私たちも主の権威の下に置かれた者として、その御言葉の権威が与える希望を信じる者でありたいと思います。
2023年11月19日
2023年11月19日 主日礼拝説教「主イエスの命令」大坪信章牧師
posted by 日本基督教団 石山教会 at 10:14| 日記