2023年11月26日

2023年11月26日 主日礼拝「生命を与える主イエス」大坪信章牧師

ルカによる福音書7章11節〜17節、列王記下4章32節〜37節               
説 教 「生命を与える主イエス」

 今日の福音書の出来事は、これまで私たちが見てきたイエスさまの御業の中では、最たるものと言えます。これまで、イエスさまは、度々、悪霊に取りつかれた男を癒し、病人を癒し、体の不自由な人を癒されました。いわゆる、イエスさまの宣教の業は『いやしと教え(御言葉)』です。けれども、今日の出来事は、これまでのような癒しではなく、死んだ生命が、何と、もう一度、生きる、生き返るという死者のよみがえりです。すなわち、平行の癒しではなく垂直の癒しです。これをもって、イエスさまの癒しの業は、ひとまず頂点に達しました。そして、この時点でイエスさまの業は、1つの区切り目を迎えたのです。なぜなら、この出来事は、17節を見ると次のように言われているからです。「イエスについてのこの話は、ユダヤの全土と周りの地方一帯に広まった」と。そして、18節以降では、この広まった死者のよみがえりの話しを、あの洗礼者(バプテスマの)ヨハネの弟子たちが耳にし、やがて、それが牢獄に繋がれていた洗礼者ヨハネ自身の知るところとなるのです。そこでヨハネは、2人の弟子をイエスさまの下に送って言わせました。19節「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか」と。それは、ヨハネが抱いていた救い主像が、罪人や悪人を裁く裁き主だったからです。しかし、自分の弟子たちが巷で聞いてきた噂は、自分の救い主像とは、全くかけ離れていました。それで、イエスさまは、ヨハネの弟子たちに、こう答えられました。22節23節 「行って、見聞きしたことをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。わたしにつまずかない人は幸いである」と。要するに、ヨハネは、イエスさまに躓いたのです。また、この後、30節には「ファリサイ派の人々や律法の専門家たち」が「自分に対する神の御心を拒んだ」とありますが、要するに、彼らも躓いたのです。どうして躓いたのかと言えば、それは「自分の考えが正しい」と思っているからです。このように、自分が正しいと思っている人々が、神の寵愛や恵みを受けることは決してありません。昨日、滋伝協(滋賀伝道協力)教育委員会主催の『教会芸術を学ぶ集い』〜賛美歌で祝うクリスマス〜のコンサートに参加しました。アヴェ・マリアなどの歌やオルガン演奏等を聞きながら、満ち足りた一時を過ごしました。開会礼拝では「分かち合う」と題して、エフェソの信徒への手紙5章6節〜20節を通してメッセージをいただきました。「暗いこの世だから、私たちは賛美を歌うのです」と。また「時には、躓くようなことがあるかもしれない。だから、私たちは、共に歌を分かち合い、言葉を分かち合い、思いを分かち合うのです」と。つまり、礼拝を守るのです。それは、自分の命を守るのです。

 開会礼拝では、奏楽を担いましたが、そのメッセージ後に歌った讃美歌は、讃美歌21の81番『主の食卓を囲み』でした。それを伴奏しながら、メッセージが更に力を増したように思えました。イエスさまは「目の見えない人」の目を開き「足の不自由な人」を歩かせ「重い皮膚病を患っている人」を清くし「耳の聞こえない人」の耳を開かれました。そして「死者」を生き返らせ「貧しい人」に福音を告げ知らせる救い主です。そのことが信じられないなら、どうして、次の事実を信じられるでしょうか。イエスさまは、私たちの罪のために身代わりとなって十字架にかかって死んでくださる主(救い主)なのです。これから迎えるクリスマスは、イエスさまが十字架に架かって死ぬためにお生まれになる日、ということを忘れてはなりません。この主の歌である賛美を分かち合い、この主の言葉である御言葉を分かち合い、この主の思いである御心を分かち合いながら、私たちは、数多の躓きを乗り越えていくのです。『主の食卓を囲み』を弾きながら、その食卓で、私たちは、イエスさまの裂かれた肉と流された血潮を分かち合うことを思い、豊かな気持へ導かれました。この物語の中で、イエスさまが死者をよみがえらせたことによって、待ち望むべき救い主は、どのような方であるのかが、はっきりと世に示されたのです。そう意味で、1つの区切り目を迎えたのです。また、それは、このルカ福音書を書いたルカにとっても1つの区切り目でした。というのは、13節を見ると、ルカは初めて、この物語の中でイエスさまを「主」と呼んだからです。つまり、この死者のよみがえりの出来事が、医者であるルカをして、そう言わせたのです。だから、この死者のよみがえりの出来事は、単なる奇跡物語ではないのです。奇跡物語は「そんなことがあるはずはない」とか「信じられない」という反応を、私たちに求めていません。そもそも、奇跡は、イエスさまが主であり、イエスさまの教えが確かであることを指し示す出来事です。だから、奇跡物語というのは、逆に、自分が正しい人間だという思いや、自分の考えが、すべてだと思う思いを、完全に打ち砕く出来事でもあると言えるのです。
 
 それでは、この死者のよみがえりの物語を見ていきます。11節「それから間もなく、イエスはナインという町に行かれた。弟子たちや大勢の群衆も一緒であった」とあります。この前の『百人隊長の物語』は、ガリラヤ湖の北西岸にあるカファルナウムが舞台でしたが、ナインは、そこから南西に約30キロ降った、丁度ナザレの南、タボル山の近くです。標高差が400mもある上り坂なので大変な道のりです。けれども、イエスさまは、そこに一日強の時間を掛けて向かわれたのです。そうして、12節「イエスが町の門に近づかれると、ちょうど、ある母親の一人息子が死んで、棺が担ぎ出されるところだった」のです。イエスさまの後に従ってきた弟子と群衆の行列は、期待と希望に満ちていましたが、ナインの町の門から外に出てきたのは、諦めと絶望に満ちた葬送の行列でした。イエスさまが遠路遥々、険しい坂道を上って来られたのは、この行列の先頭を歩く、死んだ一人息子の母親に会うためでした。この息子は40歳以下の若者だったので、母親は、働き盛りの愛する一人息子を失ったのです。今、働き盛りを強調したのは、家計簿が、この一人息子にかかっていたからです。その事実の補足として「その母親はやもめ」で「町の人が大勢そばに付き添って」いたともあります。つまり、この母親はやもめで、身寄りのない捨てられた女のようになっていたのです。町の人が大勢付き添っていても、多数は泣き女であり、やもめの周りは悲しみが渦巻いていました。すると、13節「主はこの母親を見て、憐れに思い、『もう泣かなくともよい』と言われた」のです。 そして、14節「近づいて棺に手を触れられると、担いでいる人たちは立ち止まった。イエスは、『若者よ、あなたに言う。起きなさい』と言われた」のです。イエスさまは、この二言を言うために、一日強の時間を掛けて険しい上り坂を歩いて来られたのです。イエスさまは、やもめの痛々しい姿に心を痛め、深い同情を示されました。「憐れに思い」という言葉は、腸がちぎれるほどの痛みを持って、イエスさまが、この母親の痛みを共有されたことを意味します。中々できることではありませんが、そのあとの言葉「もう泣かなくともよい」と言うだけなら誰でも言えます。ただ、そのあとには「いつまでも、泣いていたって仕様がないじゃないか」と言葉を足すはずです。人は、これ以上の言葉をかけられないのです。しかし、イエスさまは、もう1つの言葉を持っておられました。イエスさまは、木製の担架のような「棺」に手を触れて言われました。「若者よ、あなたに言う。起きなさい」と。すると、15節「死人は起き上がってものを言い始めた」ので、イエスさまは「息子をその母親にお返しになった」のです。その時、16節「人々は皆恐れを抱き、神を賛美して、『大預言者が我々の間に現れた』と言い、また、『神はその民を心にかけてくださった」と言った』のです。「大預言者」これは、聖書の旧約に出て来る偉大な預言者と呼ばれたエリヤや、今日、聖書で朗読されたエリヤの後継者エリシャの物語を読めば分かります。彼らの働きも、死者のよみがえりだったからです。ここで「恐れを抱き、神を賛美」した人々は、その物語を思い出したのでしょう。恐れというのは、勿論、畏れ敬う気持であるのは当然ですが、漢字が使い分けられているように、同時に、恐いという「恐れ」もあったに違いないのです。「神にできないことは何一つない」と言った受胎告知後のマリアの反応のように「神は何を為さるか分からない」そういう恐さがあるのです。それは、時に、私たちの驚きや感動となって、ここで人々が言ったように「神はその民を心にかけてくださったと」言うのです。それは「神は、その民を訪れてくださった」と言うのです。

 自分のこととして、置き換えれば分かるはずです。死人が起き上がってものを言い始めるわけですから、畏怖の前に、正直、恐れが先に立ちます。今の時代は、非暴力が叫ばれていますが、聖書の物語でさえ、虐待や脅しを心に植えつけるので、教育上宜しくないという話しも聞きます。しかし、根本的に、神に対する畏れもそうですが、恐れを失えば、人間は、一体どこに向かうか行き先は明瞭です。人間は弱く愚かですが、何度も罪を冒し、何度も同じことを繰り返すのでしょうか。そうして、神の忍耐を試し、この世から見捨てられたような一やもめを愛した、神の腸がちぎれるほどの痛みを伴う、その愛を弄ぶのでしょうか。と言ったところで、実際は、そうなのかもしれません。それが人間なのかもしれません。ただ、今、終末、再臨が遅れていると言われて久しいですが、その理由が聖書に書いてあります。ペトロの手紙2、3章9節〜14節「ある人たちは、遅いと考えているようですが、主は約束の実現を遅らせておられるのではありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです。主の日は盗人のようにやって来ます。その日、天は激しい音をたてながら消えうせ、自然界の諸要素は熱に熔け尽くし、地とそこで造り出されたものは暴かれてしまいます。このように、すべてのものは滅び去るのですから、あなたがたは聖なる信心深い生活を送らなければなりません。神の日の来るのを待ち望み、また、それが来るのを早めるようにすべきです。その日、天は焼け崩れ、自然界の諸要素は燃え尽き、熔け去ることでしょう。しかしわたしたちは、義の宿る新しい天と新しい地とを、神の約束に従って待ち望んでいるのです。だから、愛する人たち、このことを待ち望みながら、きずや汚れが何一つなく、平和に過ごしていると神に認めていただけるように励みなさい」と。神は、一人でも多くの人々が悔い改め、立ち帰るように待っておられるのです。はっきり言って、自分が自分の罪のために滅ぼされてしまうと言うなら恐ろしいです。別に、神がそう仰り、そう為さると言われなくても、それは、自分の心が一番良く分かっていることです。私は、若い頃に神さまに怒られましたが、怒られて良かったと思っています。何度も同じことを繰り返せば、たとえ神が自分を赦してくださったとしても、おそらく自分が自分を赦せなくなったと思うからです。私が、今こうして、ここに立っているのは、神への恐れと、畏れと、感謝と、喜びがあるからです。また、聖書は、こうも言っているのです。ローマの信徒への手紙2章1節〜5節「だから、すべて人を裁く者よ、弁解の余地はない。あなたは、他人を裁きながら、実は自分自身を罪に定めている。あなたも人を裁いて、同じことをしているからです。神はこのようなことを行う者を正しくお裁きになると、わたしたちは知っています。このようなことをする者を裁きながら、自分でも同じことをしている者よ、あなたは、神の裁きを逃れられると思うのですか。あるいは、神の憐れみがあなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と寛容と忍耐とを軽んじるのですか。あなたは、かたくなで心を改めようとせず、神の怒りを自分のために蓄えています。この怒りは、神が正しい裁きを行われる怒りの日に現れるでしょう」と。だから、すべてが終わり、すべてが一新される、その終末、再臨が来る前に、自分の判断で、自分の決心で神を信じ、神に立ち帰り、神に従うのです。神の前に自らの力を捨て、降参し、降伏し、神の御腕に、乳飲み子のように委ねられる者となることを、神は求めておられるのです。

 先週、一人の姉妹の病床を訪れました。歌が好きで、若い頃、聖歌隊をしていた彼女は、わたしの目に、白いシーツで覆われたベッドの上で器具を装着され、虚しく横たわっていたわけではありませんでした。力は大分失われ、呼吸は苦しそうでした。しかし、わたしの目に、彼女は、神の御腕の中に委ねられている者、それは、安心して自分を任せる神の子どもの姿に見えました。「わたしも、そうなりたい。すべての人が、そうなってほしい」と思いました。勿論「死の床に伏せろ」と言っているのではありません。自分の力を捨てて「神の御腕の中に委ねられた者となりたい、なってほしい」と思ったのです。詩篇131編2節3節に「わたしは魂を沈黙させます。わたしの魂を、幼子のように、母の胸にいる幼子のようにします。イスラエルよ、主を待ち望め。今も、そしてとこしえに」とあります。イエスさまは、今日言われました。「若者よ、あなたに言う。起きなさい」と。これは命令です。主の命令です。命令です。それなのに、未だうずくまっているのですか。若者は起きました。主の命令は、命を与えます。それは、先週の百人隊長の話しの中でも言った通りです。命令とは「命を与える言いつけ」と書くのです。そして、実に「命令」と言われなくても、この「命」そのものが、その一字が、命令という意味を持っていることに気づくのです。命は、口と命令の令の字で構成されているからです。また「命」は、叩くという漢字が入ってもいるのです。だから、神が試練を与え、命を叩き、火で精錬された金のように輝かせてくださるということでもあるのです。また、その命を叩く音は、心臓の鼓動ということでしょうか。もしかしたら、心臓の鼓動は、神が私たちの命に触れ、ドアを叩くように私たちの命にノックし、私たちと、いつまでも共にいてくださろうとしているのかもしれません。ただ、今日の物語の中で、死んだ一人息子の命にイエスさまがノックされたことは、確かな事実です。そして、実に、それは、ヨハネの黙示録でも言われているのです。3章20節「見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう」と。

 ところで、今日の説教は『生命を与える主イエス』と題しましたが「命」ではなく「生命」です。その通り、この死んだ一人息子は、起き上がりましたが、それは、生命としての命を回復した。つまり、よみがえりはよみがえりでも、蘇生としての蘇りに過ぎません。それでも、この死人の復活は、驚きを通り越していますが、神の御業は、こんなもんじゃないのです。蘇りではなく、甦り、それは、更に生まれると書いた甦りだからです。それは、罪と死に支配された生命ではなく、蘇生したとしても、やがては必ず死に至る生命ではなく、罪の赦しが与えられた永遠の命です。このように、神の怒りを受け、断罪されるしかない私たちの命は、その神の怒りを受け、断罪された救い主イエスさまによって贖われたのです。この主イエスの御言葉に聞き従い、この肉体が、ただの肉体となることがないように、やがては栄光に輝く復活の体となるように、健全な魂を宿す者となりましょう。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 10:18| 日記