2023年12月03日

2023年12月3日 主日礼拝「ザカリアの不信仰」大坪信章牧師

ルカによる福音書1章5節〜25節、申命記32章48節〜52節                 
説 教 「ザカリアの不信仰」

 長く恵まれた聖霊降臨節も終わり、今日から4週を数える待降節アドベントに入りました。そのため、これまで読み進めてきたルカ福音書7章以降の物語を一旦ストップして、今日から4回の日曜日は、ルカ福音書の最初の物語、1章から始まるクリスマス物語を読み進めていきます。とは言っても、今日の物語がクリスマス物語かと言えば微妙です。なぜなら、今日の物語は、イエスさまではなく、ヨハネの誕生物語だからです。また、その両親もヨセフとマリアではなく、ザカリアとエリサベトです。ということで、正確には、クリスマス物語の6か月前の物語になります。ただ、1章26節から始まるクリスマス物語は「6か月目に、天使ガブリエルは…、ヨセフのいいなずけであるおとめのところに遣わされた」と言って始まっています。だから、クリスマス物語は、6か月前に起こったヨハネの誕生物語を発端としています。そう考えると、ヨハネの誕生物語は、微妙というより、クリスマス物語の伏線と言えます。また、誕生物語としての構図は、同じ天使ガブリエルの登場に見られるように、イエスさまの誕生物語と非常に似ています。ただ、明らかに違うのは、イエスさまが神の子・救い主であり、ヨハネは、そうではないということです。このヨハネの誕生物語は、5節を見ると「ユダヤの王ヘロデの時代、アビヤ組の祭司にザカリアという人がいた」という言葉から始まります。そして「その妻はアロン家の娘の一人で、名をエリサベトといった」とあります。ザカリアが属する「アビヤ組」は、神殿における奉仕の務めを神から託された、祭司を組織する組の一つです。祭司の組織については、歴代誌上24章に記されています。要約すれば、祭司を組織する組は24組あり、アビヤ組は、第8組目でした。そして、妻のエリサベとも同じ祭司の家系、すなわち、モーセの兄アロン家の娘でした。この2人が属する祭司の家系は、イスラエル12部族でいうレビ族の一員です。だから、広い意味で2人はレビ人です。けれども、そのレビ族の中で、神はアロンの家系を選び、特別職としての祭司職や大祭司職の務めを任されました。他のレビ人は、この大祭司や祭司に仕える者として、神殿の務めを果たしました。

 このように、ザカリアとエリサベトは、祭司の家系だったので、6節「二人とも神の前に正しい人で、主の掟と定めをすべて守り、非のうちどころがなかった」のです。「正しい」というのは「主の掟と定めをすべて守り」とあるように、律法によって正しい人で「非のうちどころがなかった」ので、どんなにか祝福された人生だったでしょう。当時、祝福と言えば、それは、土地の継承や子孫繁栄でした。土地の継承について言えば、レビ族は、約束の地に部族としての嗣業の土地の割り当てはありませんでした。なぜなら、神ご自身がレビ族の嗣業の土地だったからです。嗣業とは、継ぐという意味で、神から授かった賜物を継ぐということです。つまり、神に仕える働きそのものが、レビ族の継ぐべき土地でした。また、子孫繁栄について言えば、それは、天地創造物語の中で、神が生き物を祝福された言葉でした。創世記1章28節では、神が人間を祝福して言われました。「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ」と。この子孫繁栄も、神から授かった賜物を継ぐことでした。なぜなら、ユダヤ人は、死者のよみがえりを信じない人が大半だったからです。そのため、希望は、親の面倒を見、家の財政を助ける子どもに託されました。だから、子どもがいない家は呪いと見なされました。「しかし」7節を見ると「エリサベトは不妊の女だったので、彼らには、子供がなく、二人とも既に年をとっていた」とあるのです。この現実は、2人の悩みの種でした。ザカリアは、13節の言葉によれば、子どもを授かりたいと願い続けていましたが「二人とも既に年をとっていた」ため、現実は年々厳しくなる一方でした。2人は、律法において「正しい人」「非のうちどころがない」人でしたが「信仰は」歳を重ねる毎に弱っていったと考えられます。そのような2人に、この後、いずれも良い意味で、驚くべきことが起こるのです。8節9節をご覧ください。「さて、ザカリアは自分の組が当番で、神の御前で祭司の務めをしていたとき、 祭司職のしきたりによってくじを引いたところ、主の聖所に入って香をたくことになった」とあります。ザカリアは、所属するアビヤ組が神殿奉仕の当番だったので、祭司の務めに当たっていました。このアビヤ組の奉仕月は決まっていました。それは、イエスさまの誕生月から、子どもが生まれるまでの月数10か月と、この物語でネックになっている6か月を遡れば、クリスマスの1年前の夏頃になります。その夏頃に、アビヤ組が神殿で祭司の務めに当たっていた時、ザカリアが、しきたりによって、くじを引くと「主の聖所に入って香をたくことになった」のです。これは、民の代表として神に祈る務めで、人生で一度も回ってこないこともある光栄な務めでした。祭司の務めの期間は25歳から50歳までと短かったからです。そうして、10節、ザカリアが「香をたいている間、大勢の民衆が皆外(それは、神殿の庭)で祈っていた」のです。 すると、11節12節「主の天使が現れ、香壇の右に立った」ので「ザカリアはそれを見て不安になり、恐怖の念に襲われた」とあります。 聖書は、神を見た者は死ぬと言っており、神的な存在を前に恐れるのは、人間の普通の感覚です。しかし、天使は言いました。13節〜17節「恐れることはない。ザカリア、あなたの願いは聞き入れられた。あなたの妻エリサベトは男の子を産む。その子をヨハネと名付けなさい。その子はあなたにとって喜びとなり、楽しみとなる。多くの人もその誕生を喜ぶ。彼は主の御前に偉大な人になり、ぶどう酒や強い酒を飲まず、既に母の胎にいるときから聖霊に満たされていて、イスラエルの多くの子らをその神である主のもとに立ち帰らせる。彼はエリヤの霊と力で主に先立って行き、父の心を子に向けさせ、逆らう者に正しい人の分別を持たせて、準備のできた民を主のために用意する」と。この天使ガブリエルのザカリアへの告知内容を見ると「男の子」が産まれ、その子は、あなたの「喜び、楽しみ」となり、多くの人の「喜び」にもなると言われています。また「偉大な人になり」「聖霊に満たされ」とあるくだりは、神の任命を受け、誓約を果たす聖別されたナジル人の性質と似ています。更に、大預言者「エリヤの霊と力」に満ち「父の心を子に」ですから、それは、愛情と平和の回復です。また「逆らう者に正しい人の分別」というのは、悔い改めの心の回復ですから、この告知は、間違いなく良い知らせです。私たちがもし、この良い知らせを聞いたら、どんな反応をするでしょうか。

 ザカリアは天使に言いました。18節「何によって、わたしはそれを知ることができるのでしょうか。わたしは老人ですし、妻も年をとっています」と。このザカリアの言葉は、何か、とても冷めた受け答えという印象を受けます。要するに、ザカリアは「そんなことは信じられない」と言ったのです。「良い知らせなんか信じられない」と。もし、全く心当たりがなければ、その答えでも已むを得ませんが、ザカリアは、子どもを授かることを必死に願っていたのです。年を重ねる毎に、それを信じる気持ちが弱っていったとはいえ、そう願っていたのです。それなら、素直に心から喜べば良いのです。しかし、ザカリアの言葉には、天使の言葉が何一つ反映されませんでした。普通は、言葉に釣られるということが起こるのです。それが自分の中に無い言葉でも、その言葉に釣られて、自分もその言葉を口にしていたりします。この出来事で言えば、ザカリアは、天使の言葉に釣られて良い知らせを喜ぶだけで良かったのです。しかし、時に、言葉は残酷です。そう思い込んだら、或いは、現実に囚われれば、そこに希望が無いと分かっていても、そこに向かわせるからです。そうやって、自分の意思のままに突き進むということが、何でもかんでも正解なんて言うことはないのです。むしろ、神の意思に自らを任せることが、私たちには必要なのです。イエスさまは、十字架前夜、ゲッセマネの園で祈られた時、ご自分の意思ではなく、神の意思(御心)を優先されました。だから、人は、言葉によって生きもすれば、逆に、言葉によって死にもするのです。天使は、良い知らせを告げに来たのです。19節「わたしはガブリエル、神の前に立つ者。あなたに話しかけて、この喜ばしい知らせを伝えるために遣わされたのである」と。しかし、ザカリアは、この良い知らせを信じなかったので、天使は、ザカリアに宣告しました。20節「あなたは口が利けなくなり、この事の起こる日まで話すことができなくなる。時が来れば実現するわたしの言葉を信じなかったからである」と。その頃、聖所の外(神殿の庭)では、民衆が、21節「ザカリアを待って」「彼が聖所で手間取るのを、不思議に思って」いました。その後、22節23節によれば「ザカリアはやっと出て来たけれども、話すことができなかった」のです。「そこで、人々は彼が聖所で幻を見たのだと悟った」のです。「ザカリアは身振りで示すだけで、口が利けないまま」でしたが「やがて、務めの期間が終わって自分の家に帰った」とあります。この後、ガブリエルの言葉が実現しました。24節25節「妻エリサベトは身ごもって、五か月の間身を隠していた。そして、こう言った。主は今こそ、こうして、わたしに目を留め、人々の間からわたしの恥を取り去ってくださいました」と。実に、天使ガブリエルは、紀元前500年頃にも、預言者ダニエルの祈りに答え、彼の前に現れ、救い主到来の良い知らせを告げていたのです。ザカリアという名前は『神に覚えられた者』という意味です。神は、決して、私たちの祈りを忘れたりしません。どれだけ年を重ね、その祈りの火が消えかけ、願う気持ちが弱まっても、祈り続けるなら、神は、祈りに答えてくださるのです。

 ところで、どうして、このヨハネの誕生の知らせが、イエスさまの誕生の知らせの6か月前に届いたのでしょうか。それは、ヨハネが「エリヤの霊と力で主に先立っていく」者(先駆者)だったからです。マタイ福音書では、イエスさまが、ヨハネについて「実に、彼は現れるはずのエリヤである」(マタイ福音書11章14節)と言っておられます。実に、旧約のマラキ書3章23節24節には「見よ、わたしは、大いなる恐るべき主の日が来る前に、預言者エリヤをあなたたちに遣わす。彼は父の心を子に、子の心を父に向けさせる。わたしが来て、破滅をもって、この地を撃つことがないように」と預言されてもいます。こうして、ヨハネは、旧約最後の預言者として主に先立ち、準備が整った民を、主の前に備える務めを果たすのです。ただ、それだけではなく、このヨハネ誕生の物語は、冒頭でも言ったように、イエスさまの誕生物語の伏線なのです。マリアは、当時14歳ぐらいの少女だったと言われています。未だ婚約の段階で、子どもを授かりたいという願いは時期尚早でした。願いがあっても、それは、ザカリアほどに切実ではなかったはずです。だから、マリアは、ガブリエルから受胎告知を受けた時「どうして、そのようなことがあり得ましょうか。わたしは男の人を知りませんのに」と言いました。しかし、その後「わたしは主のはしためです。お言葉通り、この身になりますように」と信じたのです。それは、ガブリエルが、親類のエリサベトは、不妊の女であり、歳を取っていたのに、男の子を身ごもっているという知らせも告げたからなのです。マリアも、誰もがそうであるように、ガブリエルが現れた時に恐れ、ガブリエルから「恐れるな」と言われました。ザカリアの場合は、自分が祈っており、ダニエルの出来事も知っていれば、尚更、身に覚えがあったのです。しかし、マリアは「戸惑い」を隠すことができず「この挨拶は何のことかと考え込んだ」とあります。だから、マリアにとっては、自分に起こったことが、全く理解できなかったのです。しかし、マリアの言葉には、天使の言葉が反映されました。言葉に釣られるということが起こりました。それは、親類のエリサベトが男の子を身ごもったという良い知らせを聞いて信じたからです。だから、自分に起こったことも、これは、良い知らせであると信じたのです。たとえ、自分の中に無い言葉でも、神の言葉に釣られて自分もその言葉を口にするのです。マリアは、天使の言葉に釣られて、良い知らせを信じ、喜ぶことができたのです。だから、マリアは、受胎告知の後すぐに、ナザレからエルサレムという遠距離を、急いで行って、身重のエリサベトに会っています。私たちは、悪い知らせを信じるようにとは、一切言われていません。良い知らせを信じるようにと言われています。今日から待降節(アドベント)の期間に入りました。それは、到来や来臨を意味する言葉で、イエスさまが来てくださるという良い知らせを待ち望む期間です。私たちは、この期間に訓練されるのです。良い知らせを信じて待ち望むという訓練です。イエスさまの十字架の救いも復活も、昇天も再臨も、すべて良い知らせです。信仰とは、良い知らせを喜んで受け入れる心なのです。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 10:19| 日記