2025年04月13日

2025年4月13日 主日神の家族礼拝説教「十字架の主、十字架の王」大坪信章牧師

ヨハネによる福音書19章17節〜27節、歴代誌上18章14節〜17節   
「十字架の主、十字架の王」
 
 受難節レント四旬節の40日間も、いよいよ最後の1週間となりました。昨日が34日目だったので、あと6日です。それが、今日の日曜日から始まる受難週と呼ばれる1週間です。その受難週の始まる、この日曜日に、イエスさまは、エルサレムへ入城されました。そして、木曜日に最後の晩餐が行なわれ、金曜日に十字架に架かり、その日の内に墓に葬られます。それから金土日の3日後の日曜日に墓の中から復活されます。今日は、その金曜日の十字架のお話です。十字架のお話は、4つの場面に分かれています。この4つの場面は、イエスさまが、私たちにとって、どのような方なのかを教えてくれます。

 まず、第1場面は、イエスさまが十字架に架かるお話です。17節18節に、イエスさまは「自ら十字架を背負い、いわゆる『されこうべの場所』(されこうべの場所とは、どくろとか頭蓋骨の丘の処刑場)、すなわちヘブライ語でゴルゴタという所へ向かわれ」ました。兵士たちは、そこでイエスさまを「十字架に」両手両足を太い釘で打ちつけて「ほかの二人(彼らは犯罪者たち)をも」イエスさまを「真ん中にして両側に、十字架につけ」ました。こうしてイエスさまは、2人の犯罪者に両隣を挟まれた真ん中の十字架につけられました。この場面で、何か気づきませんか。イエスさまは、重い十字架を無理やり負わせられたのではありません。イエスさまは「自ら十字架を背負い」と書いています。この福音書を書いたヨハネは、今日の第4場面にも出て来るイエスさまの十字架の下にいた弟子です。他の弟子たちは十字架を恐れて逃げました。イエスさまを間近で見ていたヨハネの目に映ったイエスさまの姿は、兵士たちに十字架を背負わされた姿ではなく、自ら十字架を背負った姿だったのです。

 「背負わされた」と「背負った」では、随分と意味が違ってきます。どうしてイエスさま、何の罪も犯していないのに、まるで、ご自分の十字架でもあるかのように、また、それを背負うことが使命や責任であるかのように、自ら十字架を背負われたのでしょうか。それは、イエスさまが主だからです。主とは、主人とか、あるじ、主将(キャプテン)や大将のことです。いわゆる、主力になる人や中心人物です。キャプテンは、自分のことよりチームや仲間のことを考えます。主であるイエスさまも、自分のためではなく、私たちを守るため、救うために命を懸けて十字架を背負われたのです。私たちは、弱くて愚かで助けが必要なので、イエスさまは、私たちの身代わりになって、私たちの十字架を自ら背負ってくださいました。私たちが重い十字架を背負って生きなくていいように、その苦しみと悲しみから救ってくださる主なのです。

 次に第2場面は、十字架の上に罪状書きを書いた掛札が掲げられたというお話です。19節、ローマ総督の「ピラトは罪状書きを書いて」それを掛札のようにして「十字架の上に掛け」ました。罪状書きには「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」と書いてありました。普通、罪状書きには、どんな悪いことをしたのか、が書いてありました。例えば、物を盗んだ、人を傷つけた、人を殺めたという具体的な事実です。でも、イエスさまの罪状書きには、そういう過ちではなく「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」という事実だけが書かれていました。その通りイエスさまは、ナザレの村の出身で、ユダヤ人の王として生まれたのです。これが、どうして罪状書きなのでしょうかね。

 この罪状書きは、20節「ヘブライ語、ラテン語、ギリシア語」の色んな国の言葉で書かれていました。だから、エルサレムに住んでいるユダヤ人は、ヘブライ語を読んで理解しました。また、ゴルゴタの丘があるエルサレムには、ちょうど世界中の国々に住んでいた大勢のユダヤ人も、過ぎ越しの祭りのために集まっていたので、彼らも自分が住んでいた国の言葉(ラテン語やギリシア語)で罪状書きを読んで理解しました。その後、彼らは、自分たちが見聞きしたことを自分の家や国に帰って人々に話したので、世界中の人々が、イエスさまが「ユダヤ人の王」だと知るようになりました。

 ただ、21節「ユダヤ人の祭司長たち」だけが、その罪状書きの内容に不満を持っていました。だから彼らは、ピラトに言いました。「『ユダヤ人の王』と書かず、『この男は「ユダヤ人の王」と自称した』と書いてください」と。「自称した」というのは、 自分だけが勝手に、そう思い込んでいる時に、人が自分について言う言葉です。ユダヤの祭司長たちは、イエスさまが勝手に自分のことをユダヤ人の王だと言って、民衆を惑わしたと言いたかったのです。そこで、ピラトに罪状書きの内容を「ユダヤ人の王」ではなく「この男は『ユダヤ人の王と自称した』」と書き換えて欲しいと言ったのです。でも、ピラトは、22節「わたしが書いたものは、書いたままにしておけ」と答えました。だから、イエスさまは、その通り「ユダヤ人の王」です。そして、その事実は、今や全世界の人々に伝えられたので、イエスさまは、世界の王なのです。

 ところで皆さん、王様は、何人もいる必要がありますか。王様は一人で良いのです。でも、この世界には、王様が何人もいます。だから、戦争も起こるし、その国と行き来が出来なかったりします。この世界の王様は、自分を豊かにすることを考えています。でも、本当の真の王様は、自分の国の人々を豊かにすることを考えます。イエスさまは、今や「すべての人たちの王」となられました。イエスさまは、真の王様だから、自分ではなく私たちを豊かにします。そのために、ご自分を犠牲にして十字架に架かりました。世界中の人々が互いに愛し合い、愛の掟によって神の国の国民として豊かに暮らせるように、罪を洗い清めて愛の衣を着せてくださったのです。だから、イエスさまが唯一の王だと信じる人は、愛の衣を着て、豊かに生きることができます。

 続いて、第3場面は、兵士たちがイエスさまの服をはぎ取り、くじ引きをして分けたお話です。23節24節、兵士たちは、イエスさまを「十字架につけてから、その服を取り、四つに分け、各自に一つずつ渡るように」しました。そして「下着も取ってみたが、それには縫い目がなく、上から下まで一枚織りであった」ので「これは裂かないで、だれのものになるか、くじ引きで決めよう」と話し合いました。兵士たちは、たまたま、くじ引きしたのではないのです。それは「聖書の言葉が実現するため」だったのです。実は、旧約の詩編22編18節に、メシア(救い主)預言があります。これは、やがて到来する救い主は、どのような方で、人々は、その救い主に、何をするのかが書いてあります。その中の一つが「彼らはわたしの服を分け合い、わたしの衣服のことでくじを引いた」なのです。救い主のイエスさまに対して、兵士たちが「このとおりにした」のは、イエスさまの誕生前から分かっていたことだったのです。

 つまり、イエスさまは、私たちの救い主として、この世に遣わされることになっていたのです。この主であり、王であり、救い主であるイエスさまの国(神の国)の特徴は、愛で満ちています。その神の国には、イエスさまが、わたしの主、わたしの王、わたしの救い主と信じる人々が入ります。今も、次々にイエスさまを信じて救われた人々が、神の国に入っています。だから、もう、神の国の扉は閉まっても良いのですが、神さまは、まだ、その扉を閉じません。神さまは、一人でも多くの人たちがイエスさまを信じて、罪赦され、愛の衣を着て、神の国に入ることができるように、その扉を開いて待っておられます。でも、開いている扉は、やがて閉まります。だから、まだ、イエスさまを信じて洗礼を受けていない人、罪を赦していただいていない人たちは、洗礼を受けて、神の国に入ってもらいたいのです。閉まった扉は、もう、どんなに叩いても開かないからです。イエスさまは、この世の国の主や王のような人物ではありません。イエスさまは、十字架の主、十字架の王、そして、約束された救い主です。その神の国は、愛で満ちています。

 その愛のことが、最後の第4場面に出てきます。第4場面は、イエスさまが十字架の下にいた母マリアと弟子のヨハネに、あるお願いをしたお話です。25節〜27節、イエスさまの「十字架のそばには、その母と母の姉妹、クロパの妻マリアとマグダラのマリアとが立って」いました。イエスさまは「母とそのそばにいる愛する弟子(これはヨハネ)とを見て、母に、『婦人よ、御覧なさい。あなたの子です』と言われ」ました。それから弟子のヨハネにも「見なさい。あなたの母です」と言われました。こうして「そのときから、この弟子(ヨハネ)は」イエスさまの「母を自分の家に引き取った」のです。簡単に言えば、ヨハネは、イエスさまの母を自分の母のように、また、イエスさまの母は、ヨハネを自分の子どものように愛しなさいと言われたのです。このように、互いに愛し合うことが神の国の掟です。これからも私たちは、イエスさまが十字架の主、十字架の王として教えてくださった、その愛を受け止めていきましょう。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 15:36| 日記