今日は、洗足木曜日礼拝です。この礼拝は、特に十字架前夜にイエスさまが、最後の晩餐の席上で、おもむろに12人の弟子たちの足を洗われた、あの洗足の物語を読むことが多いです。ただ今回は、礼拝で読み続けているマタイ福音書の十字架の道行きの物語の続きを読み進めて、イエスさまの復活の物語に繋げたいと思います。十字架の出来事は、先週の4月6日の礼拝で、説教題『十字架の祈り』のお話をしましたが、その続きです。イエスさまが十字架上で息を引き取られたあとのお話ですが、実際そこまで、つまり、墓に埋葬された出来事までを、じっくり十字架の道行きとして読み込むことは、教会でもあまりしないのかもしれません。余談ですが、洗足木曜日は、木曜日ですが、十字架前夜の夕方から金曜日は始まっているので、最後の晩餐や洗足は、金曜日に行なわれたことになります。その後ゲッセマネの園で祈られ、そこでユダの裏切りに遭われ、ユダヤ当局者たちに捕らえられ、夜通し裁判にかけられます。そして、午前9時に十字架に付けられ、午後3時に十字架上で、大声で叫び息を引き取られました。ですから、洗足木曜日から金曜日の午後3時までの出来事は、ユダヤで言うところの金曜日の出来事なのです。そして、実に今日の出来事の前半、イエスさまのご遺体を墓に埋葬する出来事も、その日の夕方までに急ぎ行なわれたので、まだ金曜日の内です。そして、今日の出来事の後半は、夕方以降、つまり、ユダヤでは、日付が変わった土曜日の出来事になります。ですから、最後の晩餐と洗足の物語は、クリスマス前夜のイヴの24日が、クリスマスの日の25日と同じ1日であるのと同じで、翌日の受難日の金曜日と、同じ1日の中で起こった出来事なのです。
それでは、イエスさまが十字架上で息を引き取られた直後の物語を読み進めていきます。57節「夕方になると、アリマタヤ出身の金持ちでヨセフという人が来た。この人もイエスの弟子であった」とあります。「夕方」それは、間もなく、金曜日の翌日である土曜日、ユダヤで言うところの安息日が始まろうとする直前のことです。その時「アリマタヤ出身の金持ちでヨセフという人」が来ました。アリマタヤは、エルサレムの北西、イスラエルの領地で言えば、地図上の真ん中より下の辺りにある町です。アリマタヤと言えば、預言者サムエルが生まれた町として知られています。このヨセフが、どのような人だったのかは、「金持ち」の、イエスさまの「弟子」とマタイ福音書は伝えています。勿論12人の弟子の内の一人ではありません。12人の弟子たちの内のほとんどは、この時、十字架を恐れて逃げ隠れしていました。しかし、ヨセフは、イエスさまを慕い、十字架の現場まで従って来ていた婦人たちのように従って来ていました。ただ「金持ち」で、イエスさまの「弟子」というだけでは、中々ヨセフという人物に迫ることができません。このヨセフについては、聖書の中の4福音書すべてで紹介されています。マルコ福音書では15章43節「身分の高い議員」です。ルカ福音書では23章50節51節「同僚の決議や行動には同意しなかった」「議員」で「神の国を待ち望んでいた」「善良な正しい人」です。そして、ヨハネ福音書では19章38節「イエスの弟子でありながら、ユダヤ人たちを恐れて、そのことを隠していた」人でした。共通するのは「議員」です。これは、律法学者やファリサイ派や祭司で構成されている最高法院71人の内の1人だったということです。この最高法院は、徴税や裁判に関しても決定権を持つ機関でした。だから、ルカ福音書で「同僚の決議や行動には同意しなかった」とあるのは、イエスさまの死刑判決や、そのための行動には加担しなかったということです。とは言っても、ヨセフは、自分がイエスさまの弟子であると公言し、最高法院に真っ向から対立したわけでもありません。ヨセフは、自分がイエスさまの弟子だということを、同僚や同族に知られれば危害を加えられるという恐れを抱いていたので、そのことは「隠して」いました。
だから、58節を見ると「この人がピラトのところに行って、イエスの遺体を渡してくれるようにと願い出た」わけですが、決してピラトへの恐れが無かったわけではありません。マルコ福音書では「勇気を出して」ピラトのところに行っています。ヨセフは、12人の弟子たちが逃げ隠れていた状況や、夕方を過ぎれば安息日に入るので、イエスさまの遺体を十字架から動かせなくなる状況、晒されてしまう現実を憂えたのでしょう。しかし、それ以上に大きかったのは、ヨセフが「金持ち」だったということです。その「金持ち」という事実が直接、掛かっているのは、ヨセフが、60節「岩に掘った自分の新しい墓」を持っていたということです。12人の弟子たちは、漁師出身者のペトロ、アンデレ、ヤコブ、ヨハネなど、決して裕福とは言えない人たちでした。だから、ヨセフは、自分の身の程を知っていたのです。ヨセフは、イエスさまに対して自分ができることは何かを考えたのです。今までは、同僚や同族を恐れ、隠れキリシタンのように生きていた。けれども、今こそ自分が必要とされているのではないか。自分にできること、自分の持っているもの、それは、真新しい墓をイエスさまのために提供すること。それによって、イエスさまの愛に応えたい。そういう気持ちでピラトのもとに行ったのでしょう。そこでピラトは、イエスさまの遺体をヨセフに「渡すようにと命じ」たので、59節60節「ヨセフはイエスの遺体を受け取ると、きれいな亜麻布に包み、岩に掘った自分の新しい墓の中に納め、墓の入り口には大きな石を転がしておいて立ち去った」のです。「立ち去った」ということは、本当に、この務めを担うために立てられた弟子だったということになります。その後61節「マグダラのマリアともう一人のマリアとはそこに残り、墓の方を向いて座っていた」とあるので、婦人たちは、イエスさまが埋葬される場面を見ていました。夜通し見ていたということは無いでしょうから、これは、イエスさまの死と葬りの証人という婦人たちの立ち位置であったと言えます。
こうして、場面は変わり、今度は、イエスさまが葬られた墓を巡る物語が展開していきます。62節「明くる日、すなわち、準備の日の翌日」のことです。「明くる日」「準備の日の翌日」というのは、金曜日の翌日なので、ユダヤでいうところの土曜日の安息日です。土曜日の安息日は、金曜日の夕方から始まっていますので、イエスさまが、墓に埋葬されたあと「祭司長たちとファリサイ派の人々は、ピラトのところに集まって」こう言ったのです。63節64節「閣下、人を惑わすあの者がまだ生きていたとき、『自分は三日後に復活する』と言っていたのを、わたしたちは思い出しました。ですから、三日目まで墓を見張るように命令してください。そうでないと、弟子たちが来て死体を盗み出し、『イエスは死者の中から復活した』などと民衆に言いふらすかもしれません。そうなると、人々は前よりもひどく惑わされることになります」と。ユダヤ当局者たちは、同じ同僚だった議員のヨセフが、イエスさまの遺体を墓に葬るのを苦々しく見つめました。しかし、イエスさまの存在が埋葬によって、人の目からか見えなくなったことを、ほくそ笑んでいたのが分かります。というのは、もはや彼らは、イエスとは呼ばず「人を惑わすあの者」と言っているからです。名前=存在です。ただ、彼らは、イエスさまを目にしなくなっても、イエスさまの言葉は思い出したのです。それが「自分は三日後に復活する」という言葉でした。イエスさまは、常々「自分は十字架に架かって3日目に復活する」と弟子たちに予告しておられたからです。今、イエスさまは、アリマタヤのヨセフの墓に葬られ、日付が変わった土曜日の安息日の夕方から、夜、夜中を迎えようとしています。そこで誰もが考えることは、イエスさまの遺体を弟子たちが盗んで、3日目の日曜日に、弟子たちが、イエスさまは復活したと言い広めるということです。だから、3日目の日曜日まで「墓を見張るように」ピラトに願い出たのです。すると、ピラトは言いました。65節「あなたたちには、番兵がいるはずだ。行って、しっかりと見張らせるがよい」と。そこで、66節、ユダヤ当局者たちは「行って墓の石に封印をし、番兵をおいた」のです。「番兵」を置くだけではなく「封印」までしています。彼らにしてみれば、完全にイエスさまは、詰んだと思ったでしょう。しかし、彼らは、知らなかったのです。逆に、この事実が、イエスさまの完全な埋葬と、その完全な密室になった墓からの、3日目の復活という事実の確かな証拠となるということをです。
このように、復活を信じない人々が、復活を否定するために、どれだけ、復活の可能性の芽を摘んだとしても、復活は、現実のこととして起こります。この場合、イエスさまのご遺体を弟子たちが盗んだ上で、弟子たちが復活を言い広めるという可能性の芽が摘まれました。でも、そんな復活は、初めから似非復活であって、逆に、そういう作り話の可能性が摘まれたのは良かったのです。だから、実際3日後のイエスさまの復活が現実となった時、ユダヤ当局者たちは、不正な手段、つまり、虚偽を言い広めることで、何とか辻褄を合わせようとしました。こうして、復活の事実は、益々確かなものとされたのです。考えても見てください。復活を否定して何が楽しいのでしょうか。復活を否定する意味が分かりません。そんなに人間は、失望して、絶望して、真っ暗な墓の中に納まって、その墓を封印までして、もう完全に出れなくなるほどに命というものを閉じ込めるのです。一体、何がしたいのでしょうか。それよりも、より良い未来を、より良い現実を望もうとしないのでしょうか。十字架と復活のイエスさまを信じるなら、その可能性が摘まれることはありません。誰が、この春に、命が豊かに満ち溢れる春に、植物などの若い芽を摘み取りますか。豊かな可能性を摘み取りますか。たとえ、摘み取っても、復活の命の勢いは誰にも止められません。次から次へと命が溢れ出す、この復活の喜びの春が、それを証明しています。イエス・キリストにあって、私たちの希望が絶たれることはありません。この希望を胸に、明日の十字架の時を心に留め、3日後の復活の朝を共に迎えたいと思うのです。
2025年04月17日
2025年4月17日 洗足日聖餐礼拝説教「封印され監視された墓」大坪信章牧師
posted by 日本基督教団 石山教会 at 18:41| 日記