2024年02月18日

2024年2月18日 主日礼拝「沈黙の意味するところ」大坪信章牧師

ルカによる福音書23章1節〜12節、イザヤ書53章1節〜7節
説 教 「沈黙の意味するところ」         

 先週の水曜日(灰の水曜日)から、受難節・四旬節・レントに入り、今日は、その受難節第1主日を迎えています。既に、イエスさまの受難については、先週の礼拝から読み進めています。まず、イエスさまは「祭司長、神殿守衛長、長老たち」(52節)に、ゲッセマネの園で捕らえられました。その後一晩中「見張りをしていた者たち」(63節)によって監視され、暴力を振るわれました。そして、夜が明けて朝になってから、ユダヤの最高法院に連れ出され、そこで尋問を受け、裁判を受けられました。その朝とは、まさしく、イエスさまが十字架に架けられる受難日の朝でした。イエスさまが十字架に架けられるのは、ちょうど、その朝の午前9時です。だから、朝になって尋問を受け、裁判を受け、その後、判決と刑の執行が行なわれるまでに要された時間は、4時間程度ということになります。今、私たちは、午前10時半に礼拝を始めましたが、この後、家に帰って昼食を取り、ちょっとくつろいで迎えた4時間後の午後2時半には、イエスさまが十字架に架けられたということになります。その短い時間の中で、神の子・救い主であるイエスさまは、度重なる尋問を受け、裁かれ、十字架を負わされ、十字架に釘で打たれて晒されるのです。このように、人間の計画は、あまりにも短絡的で、雑で杜撰なのが分かります。それに対して、神の御計画は、どこまでも深く、緻密で長い時間を要するものです。ちなみに、その神の御計画は、未だに続いており、どんな人でも、どんな人間でも、悔い改めて、十字架の主イエスさまを「私の主・私の救い主」と信じるなら救われます。もう、とっくに世の終わりが来てもおかしくはないのですが、未だ世の終わりが来ないのには理由があります。それは、一人でも多くの人が悔い改めて、イエスさまを信じ、神に立ち帰るようにという神の御配慮です。ペトロの手紙2、3章9節には、次の御言葉があります。「ある人たちは、遅いと考えているようですが、主は約束の実現を遅らせておられるのではありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです」と。神さまは忍耐しておられます。また、今日の物語の中では、最高法院で裁判を受けられたイエスさまが、今度は、ローマ総督ピラトと、ガリラヤとペレアの領主ヘロデ・アンティパスから裁判を受けられます。その間、イエスさまは、ほぼほぼ沈黙なさいますが、この沈黙にもまた、忍耐という一面が表れています。今日は、このイエスさまの沈黙に学びたいと思います。

 1節にこうあります。「そこで、全会衆が立ち上がり、イエスをピラトのもとに連れて行った」と。「全会衆」とは、最高法院の議員たちのことです。最高法院は、先週の説教の中で、イエスさまを裁いた「民の長老会、祭司長たちや律法学者たち」が所属するユダヤの議会(サンヘドリン)と呼ばれています。最高法院は、ローマ帝国支配下におけるユダヤ人の最高裁判権を持った自治機関で、宗教問題を扱う部門と政治問題を扱う部門に分かれていました。議長の大祭司を除く70人の議員たちで構成され、議員の内訳は、サドカイ派、ファリサイ派、長老の3つのグループでした。彼らは、行政権と司法権を持っていましたが、司法権の死刑執行の権限だけ、ローマ帝国によって剥奪されていたので、ローマ総督を通す必要がありました。その「全会衆」である議員たちが立ち上がったのは、意見がまとまり、イエスさまをローマ総督ピラトのもとに連れて行くためでした。連れて行くというより、引っ立てていったというほうが、言葉としては当たっています。なぜなら、議員たちは、彼らの常套手段ですが、イエスさまの言葉尻を捉えた上で、神への冒涜罪として死刑の宣告を下したからです。だから、そのまま、ユダヤの律法に従って石打ちの刑に処せばよかったのです。ただ、先程も少し触れたように、当時、最高法院は、死刑執行の権限を有していなかったので、議員たちは、ピラトの下へ、イエスさまを引っ立てていったのです。

 そこで、議員たちは、ピラトに、イエスさまについて、こう訴え始めました。2節「この男はわが民族を惑わし、皇帝に税を納めるのを禁じ、また、自分が王たるメシアだと言っていることが分かりました」と。議員たちは、ピラトがイエスさまを裁きやすいように、3つの罪状を並べました。1つは、扇動罪、もう1つは、納税の拒否、そして、3つ目が不敬罪です。この議員たちの訴えを受け、ピラトは、イエスさまに次のように尋問しています。3節「お前がユダヤ人の王なのか」と。すると、イエスさまは「それは、あなたが言っていることです」とお答えになりました。ここでもイエスさまは、最高法院で問われたことへの返答と同じ言葉を使って答えられました。「それは、あなたが言っていることです」と。イエスさまは、最高法院の議員たちと同様、ピラト自身にも、自分の言葉に責任を持つように、促しておられるのです。ピラトは、3つの罪状の内、3つ目の不敬罪に関してのみ取り扱い、イエスさまに尋問しました。なぜなら、1つ目の扇動罪については、イエスさまが、教えや奇跡によって人々の感情を高ぶらせ、意見を変更させ、特定の行動を起こすように誘導した事実は無かったからです。議員たちが扇動罪に込めた思いは、イエスさまが、律法を守ることより、福音を信じることを言い広めた、その意見の変更でした。しかし、それは、宗教の問題であり、ローマ帝国を脅かすほどではありませんでした。むしろ、感情を高ぶらせていたのは、議員たちのほうでした。彼らは、2度目のピラトの裁判の時、ピラトの職務に脅威を与えるほどに群衆を扇動したからです。また、納税の拒否についても、ピラトは、その事実がなかったから取り扱いませんでした。イエスさまは、ルカ福音書20章20節〜26節の物語の中で、律法学者たちや祭司長たちが遣わした「正しい人を装う回し者」から質問されました。その内容は「皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか」という質問でした。それは、律法学者たちや祭司長たちが、イエスさまの言葉尻を捉え、イエスさまを総督の支配と権力に渡すための質問でした。その時、イエスさまは「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」と答え、質問者たちを驚かせました。だから、ピラトは、それ以外の不敬罪に関してだけ、イエスさまに尋問したのです。しかし、尋問後、ピラトは、訴えに来た祭司長たちと群衆に言われました。4節「わたしはこの男に何の罪も見いだせない」と。 確かに、イエスさまが王であるというのは、ローマ帝国の皇帝以外の権威者の存在を認めることになるので脅威と映ります。ただ、実際は、そうでもありませんでした。現に、イエスさまが生まれた頃には、ヘロデ大王がユダヤ人の王として君臨していました。しかし、その政権は、植民地同様の傀儡政権に過ぎなかったのです。このように、イエスさまの罪状は、すべて、総督ピラトにとっては、意に介さない訴状ばかりだったと言えます。しかし、5節を見ると、最高法院の議員たちは「この男は、ガリラヤから始めてこの都に至るまで、ユダヤ全土で教えながら、民衆を扇動しているのです」と言い張ったのです。「今に、暴動が起こって、今後、ピラトは手を焼くことになる」と、半ば脅しのように、必死になって訴えたのです。

 すると、6節7節「これを聞いたピラトは、この人はガリラヤ人かと尋ね、ヘロデの支配下にあることを知ると」イエスさまを「ヘロデのもとに」送りました。なぜなら「ヘロデも当時、エルサレムに滞在していた」からでした。それは、ヘロデも過ぎ越しの祭りのために来ていたためです。このヘロデは、ヘロデ大王の子どものヘロデ・アンティパスです。当時、ヘロデ大王の4人の息子は、父が支配した地域を分割して支配しました。冒頭でも少し説明しましたが、その内のヘロデ・アンティパスは、ガリラヤとペレアの領主でした。ピラトは、議員たちの訴えを裁くのが面倒になったのでしょう。それは、裏を返せば、自分で決断することの責任逃れとして、また、角度を変えれば、ガリラヤの領主ヘロデ・アンティパスの顔を立てるという政治的なプラスの要素が相俟って、イエスさまをヘロデのもとに送ったのでしょう。ヘロデは、イエスさまを見ると、8節「非常に喜んだ」とあります。「というのは、イエスのうわさを聞いて、ずっと以前から会いたいと思っていたし、イエスが何かしるし(奇跡)を行うのを見たいと望んでいたから」でした。それで、矢継ぎ早に、9節「いろいろと尋問したが、イエスは何もお答えにならなかった」のです。いわゆる、イエスさまの沈黙です。このヘロデの尋問は、単に個人的に抱いたイエスさまへの興味関心が中心だったと思われます。ヘロデには、イエスさまを裁く気などなかったのかもしれません。せいぜい政治的に利用価値があるかどうかが問題だったのかもしれません。だから、イエスさまが、ヘロデの尋問に答えたとしても、それが直接裁判に影響することもなかったのです。しかし、それでも、イエスさまが沈黙した理由は、次の10節にあります。「祭司長たちと律法学者たちはそこにいて、イエスを激しく訴えた」からです。最高法院の議員たちは、ピラトの総督官邸から、ヘロデの所にまでも付いて来ていたのです。イエスさまの沈黙は、この、聞く耳を持たず、イエスさまの言葉尻を捕えようと狙っていた彼らの存在によるところが大だったと言えます。その後、ヘロデは、政治的な利用価値が無いと見限ったのでしょう。11節を見ると「ヘロデも自分の兵士たちと一緒にイエスをあざけり、侮辱したあげく、派手な衣を着せてピラトに送り返した」のです。「派手な衣」とは、ヘロデが、皮肉を込めてイエスさまに着せた、王が身に纏う紫色のガウンでした。そして、12節を見ると「この日、ヘロデとピラトは仲がよくなった」とあるのです。この2人は「それまでは互いに敵対していた」のにです。類は友を呼ぶというのか。ただ、その諺は、よい者同士が、よい事柄も含めて引き寄せ合うという意味なので、少し意味が違います。英語では、似た諺に「同じ羽毛の鳥は一緒に群がる」があります。この諺は、悪い部分が似ていることで引き寄せ合うという意味なので、似た者同士がつるんだピラトとヘロデの関係そのものです。また、他にも、ヘロデに激しく訴えた「祭司長たちと律法学者」も、実は、もともと主義主張が違うサドカイ派とファリサイ派なのです。しかし、この日、意気投合してイエスさまを訴えましたが、この事実も「同じ羽毛の鳥」が「一緒に群がる」ことにぴったりと当てはまります。このように、悪は悪で引き寄せ合い、群がる傾向にあります。問題は、よい者同士や、よい事柄こそ引き寄せ合う必要があるということです。しかし、実際は、肝心な弟子たちがイエスさまの十字架を前に、方々に散っていくような状態です。しかし、クリスチャンという言葉は、ギリシア語では「小さなキリスト」を意味し「キリストに似た者・キリストに倣う者・キリストに属する者」なのです。その似た者同士こそ、集まる必要があります。類は友を呼ぶのです。それなのに、似た者同士が集まらず、仲も良くないなら、どうなるのでしょうか。私たちは、類ではないから友を呼べないということなのでしょうか。それとも、類なのに同士討ちをしているのでしょうか。それなら、パウロは、こう言っています。「互いにかみ合い、共食いしているのなら、互いに滅ぼされないように注意しなさい」(ガラテヤの信徒への手紙5章15節)と。そんな状態では、宣教どころか、悪を行なう者たちの笑い者です。十字架の時は「闇が力を振るっている」(22章53節)時でした。だから「同じ羽毛の鳥は一緒に群がる」のも有り得ます。しかし、今は、パウロの言う「恵みの時」「救いの日」なので「あらゆる場合に神に仕える者としての実(じつ)を示す」(コリントの信徒への手紙2、6章2節3節)時、それは、光が力を振るっている時なのです。だからこそ、仲良くやっていく時なのです。

 イエスさまは、闇が力を振るっている時の中で沈黙されました。それは、イザヤ書53章7節の御言葉に帰するところが大きいのです。「苦役を課せられて、かがみ込み彼は口を開かなかった。屠り場に引かれる小羊のように、毛を刈る者の前に物を言わない羊のように、彼は口を開かなかった」とあります。また、イエスさまの沈黙は、私たちの自己中心的雄弁を制するものでもあります。旧約のマラキ書2章17節には、こう記されています。「あなたたちは、自分の語る言葉によって、主を疲れさせている。それなのに、あなたたちは言う。どのように疲れさせたのですか、と。あなたたちが、悪を行う者はすべて、主の目に良しとされるとか、主は彼らを喜ばれるとか、裁きの神はどこにおられるのか、などと言うことによってである」と。そして、最後に、世の中には、「雄弁は銀、沈黙は金」という諺があります。いわゆる、沈黙は、時に金ほどの価値があるという意味です。それ程の価値があるなら、それはまさしく、私たちが、イエスさまの沈黙の中で、私たち人間の罪がどれほど深いかということ、また、イエスさまが、どれ程の苦しみを、私たちから受けられたのかを知ることです。先ほど引用した、イザヤ書53章の8節には、こう記されています。「捕らえられ、裁きを受けて、彼は命を取られた。彼の時代の誰が思い巡らしたであろうか。わたしの民の背きのゆえに、彼が神の手にかかり、命ある者の地から断たれたことを」と。しかし、これは、どこまでも深く緻密な神の救いの御計画でした。ここに、私たちの罪の赦し、罪の贖いがあります。それは、私たちが、雄弁に、毅然とした態度で、私たちの救い主、イエス・キリストの十字架と復活の愛を語り続けるためです。だから、今日も、私たちはクリスチャンとして、イエスさまに似た者として、互いに愛し合い、「イエスは主である」との合言葉(愛の言葉)で救いの喜びを分かち合いましょう。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 10:18| 日記

2024年2月25日 礼拝予告

〇教会学校 9時15分〜
聖書:ヨハネの手紙1、4章16節b〜21節
説教:「神は愛です」

〇主日礼拝 10時30分〜 
聖 書:ルカによる福音書23章13節〜25節、イザヤ書53章8節〜10節
説 教:「三度の無罪判決と大声」大坪信章牧師

感染予防対策をした上で、礼拝を献げています。みなさまのお越しを心よりお待ち申し上げます。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 08:43| 日記

2024年02月11日

2024年2月11日 主日礼拝「神を裁く十字架の時」大坪信章牧師

ルカによる福音書22章63節〜71節、ヨブ記30章20節〜31節                
説 教 「神を裁く十字架の時」      

 今日の主日は、降誕節第7主日です。ということで、今週で、クリスマスから始まった教会の暦の降誕節が終わります。ただ、同時に、今週半ばの14日(水)は、灰の水曜日と呼ばれます。そして、その日から、受難節・四旬節と呼ばれるレントの期間に入ります。ですから、正確には、次週の日曜日から、受難節第1主日が始まるので、次週から、イエスさまの受難を心に留めればよいのです。けれども、今回は、レントの期間を迎える準備として、まだ、降誕節ですが、受難の説教を聞いていただければと思います。レントの期間は、灰の水曜日から始まって、日曜日を除く40日間を数えます。そして、その翌日が、復活日の日曜日でイースターになります。灰の水曜日は、カトリックでは、実際に灰を被り、神の御前に悔い改めの姿勢を示す日とされています。ただ、私たちプロテスタントでは、そのような儀式はしません。その代わり、もちろん悔い改めの姿勢を普段よりも意識することを心がけます。そもそも40日という期間は、イエスさまが公生涯を始める前に、荒れ野で40日間、断食され、悪魔の誘惑を受けられたことに因んでいます。だから、その期間、断食や節制を心掛ける人もいますが、それは、形式的に陥る危険があります。だから、大事なのは、イエスさまが、私たちの罪のために身代わりとして、十字架に架かって死なれた時に、私たちは、どれ程おぞましい罪を抱いたのか。また、その時イエスさまは、その体と心に、どれ程の苦悩を刻まれたのか、ということを知り、心に留めることなのです。

 それでは、63節をご覧ください。「さて、見張りをしていた者たちは、イエスを侮辱したり殴ったりした」とあります。イエスさまは、ゲッセマネの園で祈り終わった後、イスカリオテのユダの裏切りに遭い、祭司長、神殿守衛長、長老たちに捕らえられました。その後、イエスさまは、見張りをしていた者たちによって監視されたのです。その際、見張りをしていた者たちは、イエスさまを「侮辱したり」「殴ったり」したと書かれています。ということは、イエスさまは、有形力を行使する身体的暴力と、心無い言動により相手の心を傷つける精神的暴力の2つを被られたということになります。一般的に、身体的な暴力には「殴る蹴る・身体が傷つく可能性のある物で殴る・刃物などの凶器を突き付ける・髪を引っ張る・首を絞める・腕をねじる・引きずり回す・物を投げつける」などがあります。これらは、他人だけではなく、身内の間で行なわれても罪になるものです。また、精神的な暴力には「大声で怒鳴る・行動や通信の制限・人の前でバカにする・命令口調でものを言う・大切な物を壊す、捨てる・危害を加えると言って脅す・殴るそぶりや物を投げるふり」などがあります。これらは、PTSD(心的外傷後ストレス障害)を発症させれば傷害罪になるものです。ただ、63節の暴力について、こんな訳もあるのです。見張りをしていた者たちは「からかい始めて痛めつけた」と。意訳ですが、その訳からは、暴力の実際を知ることができます。つまり、最初は、暴力が目的ではなくても、次第にエスカレートして、結果、暴力になるという流れです。なぜなら、からかうというのは、冗談やいたずらで相手を困らせて、怒らせて、その反応を楽しみ、面白がることが目的だからです。 その立場には、年長者が立つ場合が多いのです。一時期、相撲界でも「かわいがり」という言葉が注目を浴びましたが、残念ながら、それは、本来の言葉の意味の成就としてではなく、大きな暴力や殺人事件になってしまってからのことでした。本当に、年長者や経験値の高い人間が、そんなことをしてくるというのは、年少者の人間にしてみれば、もはや呆れてものも言えません。そういうことが、普通に、まかり通る社会であってはならないとつくづく思います。民度が低いというのか、人間性が低いというのか。だから、そういうことには、お互い、気を付けていかなければなりません。

 昨年4月に京都教区滋賀地区に遣わされてから、幼稚園の関係で行なわれる研修会に幾つか参加させていただいています。その中でも多いのは、人権に関する研修会です。先週の水曜日も、そのままのタイトルで「人権研修会」がありました。差別をテーマにした話しに対して色々と思うことはあります。ただ、そういうテーマの研修会に熱心なこともあるのか、全体的な印象としては、自分が生きてきた中では、一番、人間に対して言葉を選ぶ人が多いのかなとは思います。とは言え、間もなく自分も半世紀を迎え、数字の意味では分かり易く、年長者の仲間入りをする年齢になって、感じることがあります。つまり、年少者の立場で思うことは、年配者には、その背中を見せてほしいということです。それでなければ、誰も、暴力のない世の中をイメージできませんし、そこに憧れや希望を抱くこともできません。これは、自分を年長者の立場に置き換えて考えれば、もちろん、心に痛い言葉として突き刺さります。だから、この問題は、結局一人ひとりが、お互いに気を付けていかなければならないのです。特に、年配者の私たちは、これからの世代の子どもたちに目を向ける必要があります。だから、利己的、利己主義は止めて、これは、造語ですが、利口的、利口主義を考えても良いのではないでしょうか。私たちは、次の世代に何を残すのか。暴力か、それは、さすがに在ってはならず在り得ません。それなら、暴言か、傷か、傷の舐め合いか。教会は、そういったことを真剣に考えてきていれば、今頃○○○○年問題なんていうことを、心配することなんてなかったのです。私たちが残す必要があるのは、ただ、イエス・キリストの十字架と復活によって示された、神の愛を信じる信仰です。

 このように、イエスさまは、見張りをしていた者たちから、身体的、精神的暴力を振るわれましたが、それに対するイエスさまの反応のことは書かれていません。そして、その後64節65節には、見張りをしていた者たちが「目隠しをして『お前を殴ったのはだれか。言い当ててみろ』と尋ねた」のです。そして「そのほか、さまざまなことを言ってイエスをののしった」のです。要するに、嘲笑した。侮辱した。愚弄したのです。見張りをしていた者たちは、もはやゲーム感覚で、身体的、精神的暴力を振るっています。しかし、イエスさまに関しては、やはり、その反応のことが書かれていません。これは、イエスさまが捕らえられてから、刑場の十字架へと向かわれる中で一貫した態度でした。そのことが、このあとの物語を読み進めていけば分かります。いわゆる「沈黙」です。個人的には、訳の分からないことを言われ、暴言を浴びれば、色んな対応をしてきたなと思い返します。受ける必要のない言葉を黙って全部受け、萎縮した時期もあります。逆に、言い返した時期もあります。それ以外には、胸の内を聞いてもらった時期もあります。一番良いのは、聞いてもらうことですね。けれども、イエスさまの「沈黙」これは、次週の日曜日の裁判の話題でもありますが、黙って全部受け止めて、死なれるのです。なぜなら、罪や悪、また、その類のあらゆる言動が、もう誰をも傷つけないように、誰をも苦しませないように、イエスさまは、すべてを背負って死なれるのです。だから、誰も、暴力や暴言によって自分を追い込んで苦しめてはいけないのです。命は大切です。たった一度の人生です。今は思います。人生は楽しいものなんだなって。だから、死ぬなら人生を楽し・ん・で・からにすべきです。人生には、楽しいことがいっぱいです。せっかく生きているのですから、命は、神さまが与えてくださったプレゼントですから、楽しくいきましょう。自分の命を誰かに遠慮する必要などなく、何かに憂慮もする必要もありません。ただ、すべてに配慮する必要はあります。そして、自分の命を自分のためにではなく、誰かのために生きるなら、それは、高い志だから、人々に、ましてや、神さまが喜ばれます。霧は晴れます。雨は上がります。雪は止みます。これまで、気候も歴史も何事も、全く同じ状態や状況が続いたことなどないのです。変わります。だから、こればかりは、本当に、そうすべきです。人は、命が尽き果てるまで一生懸命に生き続けるべきです。

 こうして、66節67節「夜が明けると、民の長老会、祭司長たちや律法学者たちが集まった。そして、イエスを最高法院に連れ出して、『お前がメシアなら、そうだと言うがよい』と言った」のです。このユダヤの国の指導者たちからの尋問に対して、イエスさまは、初めて口を開いて言われました。67節〜69節「わたしが言っても、あなたたちは決して信じないだろう。わたしが尋ねても、決して答えないだろう。 しかし、今から後、人の子は全能の神の右に座る」と。確かに、イエスさまは、沈黙を破ってはおられますが、今、聞く耳が全くない者を前にしておられるのです。だから、本当のことを話しても、会話が成立することはなく、まともに相手をしても意味がないことをご存じです。だから「人の子は全能の神の右に座る」と言われるのです。そして、この発言は、イエスさまの発言と言うより、聞く耳のない者たちが、それこそ自分の口で、イエスさまは誰なのか。イエスさまはどういった存在なのかと言わせるための呼び水・誘い水と言えるのです。そして、今、彼らは、正に、誰を、どういった存在を裁き、罪に定めようとしているのか。そのことを自覚させられようとしているのです。また、それを事実として歴史に刻ませられようとしているのです。なぜなら、70節71節を見ると「そこで皆の者が、『では、お前は神の子か』と言うと、イエスは言われた。『わたしがそうだとは、あなたたちが言っている。』人々は、「これでもまだ証言が必要だろうか。我々は本人の口から聞いたのだ」と言った」とあるからです。こうして、イエスさまは、彼らが彼ら自身の言葉に責任を持つように話しておられるのです。それでは、なぜイエスさまは、ご自分のことについて露骨に示そうとは為さらず、それとなく言い表そうと為さるのでしょうか。直接的ではなく、間接的に言おうと為さるのでしょうか。それは、イエスさまが、本当に神の子・救い主だからです。つまり、罪がない方だからです。罪が無いので罪を犯すことができないからです。だから、この十字架刑は、イエスさまに限って言えば、イエスさまの罪というよりも、人間である私たちの罪が、そこに明らかになった、露わになったと言えるのです。要するに、人間である私たちが、神の子・救い主である方を、それは、罪のない方を、罪に定めて殺したということなのです。そして、イエスさまは、その私たちの罪を背負って死なれたということなのです。

 だから、イエスさまの十字架の時というのは、表面的には、人間が神を裁く時のように見えてはいるのです。けれども、実際は、全く逆なのです。神が、人を裁かれる時なのです。そのことを示す言葉として「人の子は全能の神の右に座る」が、あります。「神の右に座る」とは、神が持つ権威・栄誉・力を、イエスさまが父なる神から与えられて、父なる神の代わりに、その働きを為していることを意味するのです。従って「神の右に座る」とは、統治において、これ以上ないという権威・栄誉・力の象徴的表現なのです。権威とは、他の者を服従させる力・威力のことです。威力とは、他人の自由意志を抑圧し、押さえつけ服従させる強い力や勢いのことです。つまり、神が、人を裁くのです。そして、その特権は、神の子に与えられているのです。しかし、イエスさまは、その特権を行使されることはなく,御自らを父なる神に裁かれる者とされたのです。聖書フィリピの信徒への手紙2章6節〜8節に記されている通りです。「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」要するに、イエスさまご自身が、人間の罪を身にまとわれ、神の裁きを受けて死なれたのです。そして「神の右に座る」その座を、執り成しの祈りの座とされたのです(ローマの信徒への手紙8章34節)。この究極の愛の事実が明らかになっても、私たちは、まだ、イエスさまを、神の子・救い主だと認めない、そういう弱さ・愚かさがあります。先程「人権研修会」の話しをしましたが、講師の先生は、最初にマジック(手品)を披露されたのです。穴の開いた袋の中に入れたハンカチの色が、出し入れする度に変わるマジックです。そこには、学習する(学ぶ)ことによって、人は、人権(差別)に対する考え方が変わるという思いが込められていました。また、講演の途中では、学ぶだけではなく、無くそうとすることが大事だとも言われました。私たちもまた、これから始まるレント受難節の中で、イエスさまの十字架の御言葉に学ぶことによって、まだ、本当のことを知らない方々は、イエスさまへの見方、十字架への見方が変わることを願っています。また、既に変わっている人たちは、学ぶだけではなく、イエスさまの十字架に示された、罪からの解放という救いを、信じ続けることを大事にしていきたいと思います。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 10:17| 日記