2020年01月18日

2020年1月26日 礼拝予告

〇教会学校 9時15分〜
主題:「義人ヨブの苦難」
聖書:ヨブ記1章9節〜22節
※礼拝後、絵本の読み聞かせの時があります。

〇主日礼拝 10時30分〜
主題:「安心して行きなさい」須賀 工牧師
聖書:マルコによる福音書5章21節〜43節
※礼拝後、五分の集いがあります。

皆様のお越しを心よりお待ち申し上げます。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 15:50| 日記

20201月19日 主日礼拝説教「700リットルのぶどう酒」須賀 舞伝道師

聖書:ヨハネによる福音書2章1節〜12節

 本日、私たちに与えられましたのは、ヨハネによる福音書2:1-12の御言葉です。主イエスが行われた、最初の奇跡、カナの婚礼での奇跡を伝える箇所です。
 私たちは、このヨハネによる福音書を4月から順に読み進めて参りました。月に1度ですから、やっと前回までで1章を読み終えたところであります。2章からはいわゆる、主イエスの「公生涯」が記録されていきます。公生涯とは公の生涯、つまり主イエスが公に行った伝道活動のことです。そう考えますと、1章で伝えられている弟子たちの召命は、主イエスと弟子たちしか知られていない所で、ある意味密かに行われていたことでもありました。そして、主は、彼らにこう言われるのです。「もっと偉大なことをあなたは見ることになる(1:50)」前回の説教では、この「もっと偉大なこと」は、「もっとも偉大なこと」と言っても過言ではないと申し上げました。そのもっとも偉大なこととは、「天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り降りするのを、あなたがたは見ることになる。(1:51)。」ということでした。
 当時のユダヤの人々にとって、これは、ヤコブが夢で見た、天と地をつなぐ梯子の故事を思い起こさせる言葉でした。旧約聖書の創世記28章に出てくる物語です。ここで主は、「私こそが、ヤコブが夢に見た梯子そのものである。」と弟子たちに明かされるのです。それは、主イエスに神様を見る、主イエスがおられるそのところに神様が御臨在される、主イエスを通して神様とは如何なるお方かが分かるようになる、ということを意味します。−神様が主イエスにおいて顕現する−というメッセージは、いわば、キリスト教の中心的な使信(メッセージ)でもあります。そして、この主の約束の言葉のすぐ後に、2章からの主の公生涯が始まり、カナでの婚礼の奇跡が起こってくるわけです。
 本日の御言葉が伝える物語のあらすじはこうです。主イエスと弟子たち、そして主イエスの母が招かれた婚宴の席で、途中、ぶどう酒が切れて無くなってしまいます。主イエスの母が、そのことに気づき「ぶどう酒がなくなりました。」と訴えます。主はその訴えを一旦は遠ざけますが、召使いを呼び大量の水を用意させ、それを上質なぶどう酒に変えるという奇跡を行うのです。
 本日、私たちが一番に心に留めたい御言葉は、11節です。もう一度共にお読みしたいと思います。「イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。」
 「しるし」という言葉が出てきます。これは、奇跡に限らず、主イエスの言葉や業の全てをあらわす特別な言葉です。しるしという言葉が出てくる時、そこでは必ず、しるしを通して、何か大切な事柄が指し示されるのです。では、カナの婚礼の奇跡が指し示すのは一体何でしょうか。それは、「イエスとは誰か。」ということであります。水がぶどう酒に変わるという奇跡が、カナでの婚礼の席で起こった。その奇跡を執り行ったナザレの人、イエスという男は一体何者か。それが、本日の御言葉から聞き取るべきメッセージなのです。
 「イエスとは誰か。」一つは、主イエスは「律法の完成者」であるということです。実は、この物語には、当時のユダヤ教社会に向けられた、メタファー(隠喩)がたくさん詰まっているのです。代表的なのは、ユダヤ人が清めに用いる水が上質なぶどう酒に変わるということです。主が「水をいっぱい入れなさい」と言われるこの水瓶は、元来ユダヤ人が体を洗うための清めの水を入れる水瓶でした。清さを保つ事は、律法でも定められていることでした。つまり、この水瓶の水は、律法を指し示すメタファーなのです。それが、上質なぶどう酒という全く新しいものへと変えられる。主イエスによって古い秩序から新しい秩序へと造り変えられていく。そのような、第二の創造物語が、カナでの最初の奇跡をもって、今正に始められるということが、ここで強く指し示されていくのです。
 そして、「イエスとは誰か」について、もう一つ明らかにされている事柄があります。ここで私たちは、11節の「その栄光」という言葉に目を向けたいと思います。ヨハネによる福音書1:14は、この主イエスの栄光を「父の独り子としての栄光」であると説明します。従って、イエスとは「父の独り子としての栄光」が現れておられるお方である、即ち、−神様が主イエスにおいて顕現する−というキリスト教信仰の中心的メッセージが、ここで伝えられていくのです。
 もしかすると、私たちは、先を急ぎすぎているかもしれません。ここで、改めて問わなければならないことがあります。それは、本日の物語とそのメッセージが、一体私たち石山教会に、またこの礼拝に招かれている全ての方々にどのような意味を持つのかということです。
 私たちは、皆それぞれ大小悩みを抱えています。しかし、眼前の悲しみ、苦しみに対して、キリスト教の福音(よき知らせ)は一体どのような慰めとなるのでしょうか。一方で、今差し当たって大きな試練に直面していない者にとってはどうでしょう。よくキリスト教では、「信じて救われる」と言いますが、「救い」と聞きますと、どうも私たちは試練に合っていたり、苦しみを覚えていたりする状況を思い浮かべてしまいます。しかし、ここに集う全員が必ずしも、試練の真只中にいるわけではありません。そのような方にとっては、そもそも「救い」や「復活の希望」など必要なのでしょうか。
 ここで見落としてはならないことがあります。それは、この物語の舞台が、結婚式の祝いの席であったということです。当時のユダヤ結婚式は、私たちの想像を超える盛大なものでした。日頃は貧しく質素な生活をしている人であっても、結婚式は特別です。ある本によると、その祝宴は2、3日、長い時には1週間続くとありました。皆、何とかお金を工面して祝宴を開くのです。その時ばかりは、花婿は王と呼ばれ、花嫁はお妃と呼ばれたそうです。その間、料理やお酒を絶やすことなく祝宴を続けるわけですから、当然、準備も大変です。しかし、花嫁も花婿もこの日ばかりは、自分たちが主人公、皆が祝宴のために仕えてくれるのは当たり前だ、そのような思いでいたかもしれません。周りも人生一度きりのことだから、特別な時だから、そのようなことはゆるされるだろう。皆が、この幸せを楽しもうと祝宴を開いていたのです。
 本日の物語は、そのような婚宴の只中に、主イエスがおられることを伝えます。結婚式には、その夫婦の日頃の生き方があらわれてくるものです。これから新しい家庭を築いていく2人が、生まれてからこれまでどのように歩んできたか、そしてこれからどのような未来を歩もうとしているのか。結婚式には2人の人生が凝縮されているのです。しかし、人生の幸福な時、喜びの時、人は自分に助けが必要だと思いもしません。主を忘れ、自分が人生の主となって楽しみ尽くすのです。一方で、困った時、悲しい時、苦しい時には、主の助けが必要だと思うのです。ここに人間の現実があります。しかし、主は、カナでの婚宴の時、花婿、花嫁が王と妃になるその宴の時であっても、そこに確かにいてくださる。もしかしたら、その時、主が共にいてくださることに心を向ける人は少ないかもしれません。しかし、確かに主はそこにおられ、人生の喜びを共にしてくださるお方であることが、ここで強く示されていくのです。
 ところが、楽しい宴席の途中に、お酒がなくなるという事態が起こります。本来ならこんな失礼はあってはならない、大失態です。宴も盛り上がり、幸せの絶頂とも言えるその時に、ほころびが生じます。主イエスの母マリアは、いち早くその事態を悟ります。険悪な雰囲気になってしまうかもしれない。もしかしたら、揉め事の火種となるかもしれない。そうとなっては大変。息子よ、何とかしておくれ。そのような思いで「ぶどう酒がなくなりました。(3節)」と訴えるのです。しかし、主は「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。(4節)」と答えます。非常に冷たい言葉にも聞こえます。では、「わたしの時」とは、一体いつなのでしょうか。一般的にこれは、主イエスが死ぬ時を意味します。つまり、十字架の死の時です。それは、栄光の時とも言われます。本来ならばその時に現されるはずの栄光を、主はこのカナの婚礼においても現わしてくださったのです。しかし、主イエスが、母に「何とかしてぶどう酒を」と言われた時は、まだその栄光を現す時ではありませんでした。ですから主は、定められた時はまだであると、母に言われたのです。
 母は、息子に断られて諦めてしまったのかというと、そうではない。召使いを呼んでこう言うのです。「この人(つまり主イエス)が何か言いつけたら、そのとおりにしてください(5節)。」ここに、マリアの凄さがあります。幸せな時間に生じた傷を、主が見過ごすはずがない。必ず何とかしてくださる。主の定めた時が来るまで、心の備えをしておきましょうと言うのです。
 その通り、主イエスは、御心のままに、奇跡を行ってくださいました。しかもそのぶどう酒を味見した結婚式の世話人はこう言います。「あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれました(10節)。」つまり、願い求めたもの以上のものが与えられたのです。客人達は、今までよりも、遥かに上等のぶどう酒によって、主のもてなしを受けたのでした。
 このしるしを通して、主イエスは、神様の独り子としての栄光を現されました。その栄光を弟子たちは見ました。それは、恵みと真理に満ちた栄光でした。その栄光を見ることが、このお方こそ神であると告白するに至らしめる信仰を生んだのです。
 しかし、ここで不思議なことが一つあります。この時点で、主イエスが従えていたであろう弟子達は、1章の記事から推測するに少なくとも5人です。そのまま読むなら、この5人だけが、信じたということになります。しかし、この奇跡を見たのは、当然、弟子たちだけではありませんでした。そこには母マリアもいました。召使いたちも水がぶどう酒に変わったのを目の当たりにしていますし、「このぶどう酒がどこから来たのか、水をくんだ召使いたちは知っていた(9節)。」とさえ書かれています。
 それでは、主の栄光を見て信じた「弟子たち」とは、本当は誰のことなのでしょうか。それを知る手がかりがあります。それは、聖書において、しばしば「神の国」が婚宴に喩えられるということです。神の国に招かれているのは誰でしょう。それは、主イエスこそ神であると信じる全ての者達です。その意味においては、このカナの婚宴とは、皆を招く婚宴であるとも言えます。もう皆さんは、この11節の弟子達とは、5人のことだけではないことがお分かりでしょう。ここに集うこの私たちも、祝宴に招かれている。そして、主の御栄光を見て信じた弟子達に数えられているのです。
 ところで、先週の祈祷会での雑談中に、本日の説教題について少し触れる時間がありました。「700リットルのぶどう酒」という題です。これは、主イエスによってもたらされたぶどう酒の総量です。水がめ1つの容量は、2ないし3メトレテスでると記されています。1メトレテスとは、今で言うとだいたい39リットルになります。80〜120リットル入る水がめ6つに、なみなみ水を入れて、全てぶどう酒になるわけですから、多く見積もって約700リットルのぶどう酒が与えられたのです。その時点で既に、宴が始まって時間も経っていたでしょう。当初用意したぶどう酒が無くなるほど皆酔っ払っていました。そこに、更に700リットルもの大量のぶどう酒が与えられたのです。そのぶどう酒はその後、一体どうなったのか。果たして飲みきることが出来たのだろうか。そんな話を、祈祷会でいたしました。その会話を思い出しつつ説教準備を進める中で、ふとこういう思いが与えられたのです。「ああ、きっとこの大量のぶどう酒は、婚宴に招かれている、全ての弟子たちのためのぶどう酒だったのではないか。この私たちのために、主が用意してくださったぶどう酒なのではないか。」
 私たちの主イエス・キリストは、とっておきのぶどう酒を用意し、私たちを祝宴に招いてくださっているのです。その大きな恵みを心に留め、この一週間も主イエスの招きに応える歩みをなしていきたいと願います。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 15:47| 日記

2020年01月14日

2020年1月19日 礼拝予告

〇教会学校 9時15分〜
主題:「律法の再確認」
聖書:ネヘミヤ記8章1節〜12節
※礼拝後、手話を楽しく学ぶ時間があります。

〇主日礼拝 10時30分〜
主題:「700リットルのぶどう酒」須賀 舞伝道師
聖書:ヨハネによる福音書2章1節〜12節
※礼拝後、五分の集いがあります。

皆様のお越しを心よりお待ち申し上げます。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 09:56| 日記