2020年03月29日

新型コロナウイルスの影響を受けて

新型コロナウイルスの影響を受けて、以下の変更があります。※4月末まで

1.礼拝での讃美歌、主の祈り、交読詩編、使徒信条、聖餐式の実施を自粛します。

2.礼拝後の行事は、緊急性の高いもの以外は実施をしません。実施する場合は、短時間で行います。

3.日曜日以外の平日の諸集会について全てを自粛します。

 以上ですが、感染予防については、消毒、マスク着用などを推奨します。また、礼拝中の換気を行うこともありますが、寒い方は、コート等を着用したまま礼拝を捧げていただいても構いません。
 大きな変化があれば、その都度、ホームページ、連絡網等で周知します。5月以降の礼拝等の持ち方については、その時の状況に応じて再度報告をします。
 また、少しでもお身体に不安を感じる方、体調がすぐれない方、あるいは学区内、近所で感染者が出た場合なども、無理をせずに、ご自宅で祈りをもってお過ごし下さい。主の平安と御守りを心よりお祈り申し上げます。

石山教会
須賀 工
posted by 日本基督教団 石山教会 at 09:22| 日記

2020年4月5日 礼拝予告

〇教会学校 9時15分〜 4月中は休会です。

〇主日礼拝 10時30分〜
聖書:マルコによる福音書7章1節〜13節
主題:「神の言葉を無にする人」須賀 工牧師

皆様のお越しを心よりお待ち申し上げます。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 09:10| 日記

2020年3月29日 主日礼拝説教「身代わりの死」須賀 工牧師

聖書:マタイによる福音書27章15節〜26節

 教会の絵を描いて下さい。そう言われたら、みんなは、どんな絵を描くでしょうか。ちょっと頭の中で、教会の絵を描いてみてください。三角のお屋根で、お屋根は緑色してるでしょうか。あとは、大きな扉があって、あと何があるでしょうか。十字架はないですか?十字架を取ってしまうと、緑のお屋根のただの家にしか見えないかもしれません。
 そうなんです。教会の絵を描いて下さいと言うと、必ず十字架がついてくる。十字架なくして、教会の絵が完成しないとも言って良いかもしれません。教会にとって、十字架って、それぐらい大切なものなのです。
 そもそも、十字架とは何でしょうか。これは、人を殺す道具です。悪い人を殺す道具。裁判にかけられて、罪人になった人を殺すための道具です。
 教会は、そのような恐ろしい道具を大事に思っているです。なぜでしょうか。それは、イエス様が、あの十字架に架けられたからです。イエス様は、何か悪いことをしたでしょうか。何もしていません。イエス様は、何も悪いことをしていないのに、十字架に架けられてしまったのです。それでは、イエス様の死の意味とは何でしょうか。今朝の聖書のお話は、そのことを教えてくれます。
 例えば、今朝のお話には、バラバ・イエス、という人出てきます。実は、バラバ・イエスという人が、何者なのかはよく分からないらしいです。「強盗」という人もいますし、「暴力で国を何とかしたい人」という人もいます。どちらにせよ、バラバは、罪を働いたことで、十字架に架けられる予定だったようです。
 しかし、この日は、祭の日でした。祭の日は、一人の罪人が赦される日でもあったようです。そういう日を「贖罪日」と呼んでいます。「贖罪日」という言葉を少し覚えておいてください。
 ポンテオ・ピラトという人は、「イエスとバラバどっちを赦しましょうか?」と民衆に聞きます。民衆は、口を揃えて「バラバ」を赦し、「イエスを十字架にかけろ」と言った。本来、十字架に架けられるべきバラバが赦されて、十字架に架けられるべきではないイエス様が、十字架に架けられることになるのです。言うならば、イエス様は、バラバの身代わりとして十字架に架けられたことになります。
 実は、ここにイエス様の十字架の死の意味がある。イエス様が十字架に架けられる、ということは、正に、身代わりの意味がある。私達もまた、神様に対して罪を犯すことがあります。神様の悲しまれることをしてしまうことがあります。本来ならば、罪人と呼ばれて、十字架に架けられるべきは人間の方かもしれません。
 しかし、そこで十字架の道を歩んでいくのは、私達ではなく、イエス様なのです。私達も又、バラバと同じように、罪から解放されて、生かされる存在なのであります。その意味で、この十字架は、ただの道具ではありません。それは、私達の罪を表すと共に、私達の救いを表している。だから、大切なのです。
 先ほど、「贖罪日」という言葉を使いました。この贖罪日には、2匹の山羊が選ばれます。1匹の山羊は、神様のものとして守られます。もう1匹の山羊は、人間の罪を背負い、荒れ野に捨てられます。これが、昔から守られてきた、贖罪日の儀式らしいです。捨てられた山羊は、荒れ野に行く道すがら、人々の罵倒を浴びながら荒れ野に捨てられるらしいです。なんとも残酷な風景です。
 しかし、ここにもイエス様の姿があります。本来、捨てられるべき罪人が、神様のものとされ、神様の子どもであるはずのイエス様が、見捨てられていく。罵倒されていく。ここにも、イエス様の姿がある。そして、そこに罪赦されている私達の姿もあるのです。
 私達人間は、完璧な存在ではありません。間違いを犯します。神様と人を傷つけます。失敗をします。神様を忘れてしまいます。神様に生かされていることよりも、自分の思いや生き方を優先します。都合のよいときは、神様を信じ、都合の悪いときは、神様を責めることもあります。自分の悪いところを隠して、自分を誇ることもします。神様を熱心に信じているようで、実は、自分が中心になってしまうこともあります。私達の弱さを数えるならば、それは計り知れないものです。
 しかし、神様は、そのような私達にも、価値を生み出して下さいます。それでも、あなたは、私の宝物なのだと。そして、私達を何度でも、神様のものへと招き直してくださいます。
 イエス様は、その私達の罪を背負って、弱さを担って、十字架で死んで行かれます。しかし、それによって、私達は、再び、神様のものとされるのです。ここに、神様の愛があります。ここに、人間の罪を遙かに越えるほどの計り知れない大きな愛があります。十字架は、私達の罪を明らかにするだけではなく、イエス様の身代わりを明らかにし、私達に対する神様の計り知れない愛を明らかにするのです。
 十字架で死んで行かれたイエス様は、その三日後に復活をします。罪と死に勝利するのです。そのイエス様は、今も、私達と共に生きて、この十字架の意味を明らかにし続けてくださいます。そして、私達に罪の赦しを宣言し続けてくださる。どうか、イエス様の死の意味を、それぞれに受け止めて、イエス様ありがとう。神様ありがとう。その気持ちをいつも持ち続けて、神様の子どもとして、元気に歩み出していきたいと思います。
 新年度が始まります。今も、不安の中にある方々も多いでありましょう。しかし、大切なイエス様を惜しみなく、死に渡すほどに、私達のことを大切に思って下さる御方が、私達と共にいてくださいます。この恵み中、希望をもって共に歩み出したいと思います。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 09:07| 日記