2019年11月10日

2019年11月10日 主日礼拝説教「驚くべき救い」須賀 工牧師

聖書:列王記下5章8節〜14節

 おはようございます。今日は、子ども祝福合同礼拝です。こうして、大人と子どもが共に礼拝できることを嬉しく思います。
 今日の聖書のお話は、「ナアマン」という人のお話です。皆さん、「ナアマンさん」という人を知っているでしょうか。恐らく、ほとんどの人が知らないと思います。
 ナアマンさんは、何人でしょうか?イエス様と同じイスラエル人?イスラエル人だと思う人!!実は、イスラエル人ではありません。ナアマンさんは、「アラム人」です。
 では、アラム人ってどんな人たち??それは、@イスラエルの敵。A神様に見放された人たちです。実は、ナアマンさんは、そんなイスラエルの敵アラム人で、しかも、軍隊の長、将軍だったのです。
 けれど、ナアマンさんには、悩みがありました。それが、病気です。ナアマンさんは、重い病気を患っていたそうです。だから、とても辛い生活を送っていました。
 けれど、そんなナアマンさんにも希望がありました。実は、ナアマンさんの家には、召使いがいました。女の子の召使いです。その女の子は、イスラエルの人です。その女の子は、このように教えてくれました。「イスラエルには、神の人エリシャという人がいます。この人なら、あなたの病気を治せるでしょう。」そのように教えてくれた。ナアマンは、悩んだろうね。敵の国の人に助けてもらうなんて、プライドがゆるさなかったかもしれない。
 だけど、そんなことも言ってられないほど、体が辛かった。だから、少女の言葉を信じて、神様の力を信じて、エリシャのところに行こう。そう考えたんだ。そして、沢山の土産と王様の手紙をもって、イスラエルに入った。
 ナアマンは、最初に、イスラエルの王様に会いに行きました。王様の手紙を届けるためです。その手紙には、何て書いてあったか。「イスラエルの王様へ このナアマンの病気を治してあげてください。アラムの王より」。こう書いてあったんだ。アラムの王様も、神様の力を信じて、エリシャの力を信じて、お願いをしたんだよね。
 これを聞いたイスラエルの王様は何て答えたと思う?「はあ!!何言ってんの?俺神じゃねーし」て言ったんだよ。神様を信じている人とは思えないね。人と敵対する、ということは、こういう悲しい人間を作ってしまうのかもしれません。
 この王様の様子を知ったエリシャは、すぐに、ナアマンを呼びます。そして、エリシャは、召使いの人を使ってこういうのです。「ヨルダン川で体を洗いなさい!」と。
 これを聞いたナアマンは、なんて言ったでしょうか。「おいおい!エリシャが出てこいよ。エリシャに会いきたんやろ!ヨルダン川で洗え?そんなん瀬田川でもええやんか!」そう言ったんだよね。
 けれど、ナアマンの家来たちは、「一度、やってみたらどうか。信じてやってみましょうよ」って、ナアマンを宥めたのです。
 この家来たちのアドバイスを受けて、ナアマンは、ヨルダン川で体を洗った。すると、みるみる内に、体が元気になったのです。
 このお話で、とても大事なことがあります。@神様は、敵も愛される御方。イスラエルの敵であったアラム人のことも、大切な存在として受け止めてくださる。A神様の救いは、人間の思いを越えて実現する。だから、理解することよりも信じることが大切。神様の救いや恵みは、全ての人に、信仰を通して与えられる。ナアマンは、最初は信じた。けれど、途中で間違いをした。けれど、失敗したって大丈夫。人間の弱さよりも、もっと大きな恵みで、神様は、全ての人を包み込んでくださるのです。
 その後のナアマンはどうなったと思う?エリシャと出会い、そして、イスラエルの神様を信じる人になるのです。でも、こういうことを言っています。「私は、神様を信じます。だけど、王様は違う神様を信じています。この王様についていくと、どうしても、他の神様の礼拝にでなければいけません。それが仕事なのです。お許しください。」
 エリシャは、その時、何て言ったと思う?「安心して行きなさい」そういった。私達が、信じている神様は、私達が思っている以上に、豊かで、愛に満ち、赦しに生きてくださる御方なのかもしれません。その神様の豊かさに抱かれつつ、神様を信じて、共に歩みたいと思います。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 08:49| 日記

2019年11月03日

2019年11月10日 礼拝予告

〇教会学校 主日礼拝と合同します。※10時に教会にお越しください。

〇子ども祝福合同礼拝 10時30分〜
主題:「驚くべき救い」須賀 工牧師
聖書:列王記下5章8節〜14節
※礼拝後、子どもたちの祝福を行います。
※礼拝後、五分の集い、信仰の学び、野の花会(婦人会)、ダニエル会(壮年会)が行われます。

皆様のお越しを心よりお待ちもうしあげます。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 09:45| 日記

2019年11月3日 主日礼拝説教「御言葉の光」須賀 工牧師

聖書:マルコによる福音書4章21節〜25節

 今朝、私達に与えられた御言葉は、マルコによる福音書4章21節から25節の御言葉であります。
 クリスチャンは、「終末」を信じています。私達は、「世の終わり」を信じています。「世の終わり」と聞くと、少し、怖いイメージがあるかもしれません。
 しかし、「世の終わり」は、決して怖いものではありません。「世の終わり」は、イエス・キリストの再臨の時であり、神の国が完成する時です。だから、「世の終わり」は、私達にとって絶望ではなく、希望であります。
 それでは、「神の国」とは、どういう国でしょうか。これは、特定の場所ではありません。それは、神様の支配のことです。つまり、「終末」とは、神様の支配が完成する時であります。
 そして、その神様の御支配は、力による支配ではありません。それは、救いの支配であり、赦しの支配であり、愛の支配であります。だからこそ、「世の終わり」は、絶望ではありません。むしろ、期待すべき希望の時であります。私達は、生きる者も死ぬ者も、全て、この完成された愛の支配の中で、永遠に生きることができるのです。だからこそ、「世の終わり」は、絶望ではなく、希望なのであります。
 主イエス・キリストは、この神の国の喜びを伝えるために、この世に来てくださいました。「神の国が近づいている」、「救いの支配が近づいている」、「愛の支配が近づいて来ている」。それこそが、主イエス・キリストの伝道であり、この救いを表すためにこそ、十字架の死を遂げられたのであります。
 このように、主イエス・キリストは、御自身の命を捨ててまでも、私達に神の国の到来、救いの到来を伝えてくださったのであります。
 しかし、現実は、どうでしょうか。この世は、人が支配をしています。この世は、人の罪に支配されています。今の時代も同じです。この世は、闇に満ちている。そのように言えるかもしれません。神様の支配が隠されている。そのように言わざるを得ないかもしれません。あるいは、神様の救いを感じられない時代かもしれません。あるいは、光よりも闇の支配が圧倒的であると言えるかもしれません。
 しかし、主イエス・キリストは、次のように語られました。21節をお読みします。「また、イエスは言われた。『ともし火を持って来るのは、升の下や寝台の下に置くためだろうか。燭台の上に置くためではないか。隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、公にならないものはない。聞く耳のある者は聞きなさい。』」
 神様の支配が見えない現実があります。神様の救いの支配を期待できないような時代かもしれません。しかし、主イエス・キリストは、「神の国は来る」、「神様の救いは、必ず来る」、「神様の支配は、光のように露わにされる」。そのように仰せになるのであります。 私達人間が、神の国を作り上げるのではありません。神の国が、神様の支配が、運ばれる灯火のように、自ら来るのであります。
 つまり、闇の支配は永遠ではないということです。光は、必ず来るのです。私達の痛みや悲しみも永遠ではない。更に言うならば、私達の死すらも永遠ではない。神様の支配は、必ず、訪れを迎えるのであります。神様の救いは、必ず完成するのであります。
 大切なことは、何でしょうか。それは、主イエス・キリストの御言葉に聴き続けるということであります。主イエス・キリストは、既に、十字架の死と復活を通して、神様の愛と赦しを先立って実現してくださいました。この深い愛と赦しは、神の国の先取りであります。このキリストの十字架を見上げて生きていく。この十字架の死と復活の愛と希望を見つめながら生きていく。その御言葉に聞く耳をもって生き続ける。それが、大切なことなのであります。赦されていることを知り、愛されていることを知り、清められていることを知り、死を凌駕していることを知り、その恵みを覚えながら、神様の救いの完成を待ち望む。それが、終末を信じる、私達の生き方なのであります。
 神の国は来ます。神様の支配は、必ず来ます。それまでに、私達は、どう生きるのか。私達は、今、どう生きるのか。それが大切なことなのであります。そのことを踏まえた上で、改めて24節の御言葉をお読みします。「また、彼らに言われた。『何を聞いているかに注意しなさい。あなたがたは自分の量る秤で量り与えられ、更にたくさん与えられる。持っている人は更に与えられ、持っていない人は持っているものまでも取りあげられる。』」 神様の御支配に向けて、私達は、今、どう生きるべきなのでしょうか。それは、まず、「注意して、正しいことを聞く」ということです。
 この言葉には、実は、もう一つ意味があります。それは、「よく見る」という意味です。言葉を聞くだけではないのです。語る御方を良く見る、ということも大事なのであります。 それは、何を聴き、何を見るのでしょうか。主イエス・キリストであります。他の何かを見るのではありません。主イエス・キリストの御言葉に聴き、今も生きるキリストを見つめて生きる。それが大事なのであります。
 この時代には、私達の目や心を奪うものが沢山あります。自分に都合の良い情報は沢山あります。しかし、一番大事なことは、主イエス・キリストを見つめ、主イエス・キリストの御言葉に聴き、主イエス・キリストの正しさに生きる、ということでありましょう。 それでは、このような、生き方を何というのでしょうか。それが「悔い改め」です。主イエス・キリストに向きを方向転換していくこと。主イエス・キリストのいる方へと歩みを変えていくことです。
 それは、自分の道を突き進むことではありません。主イエス・キリストに向かって、日々、歩みを進めていくこと。それが、主イエス・キリストを見つめ、主イエス・キリストに聞く生活なのであります。そして、そこでこそ、私達は、自分が赦されていること、愛されていることを知り、それを深く味わいながら、その愛と赦しの支配が、訪れることを待ち望むのであります。
 主イエス・キリストは、私達のどこか、遠くにいるわけではありません。今、私達の近くに生きています。その御方を心の目で見つめ、心の耳で聞く。そのことを通して、私達は、今、赦され、愛されていることを知ると共に、その愛が、永遠であることを知ることが出来るのであります。
 しかし、人間は、決して、単純ではありません。自分の秤で量ってしまうことがある。つまり、自分が中心になって、自分が基準になって、キリストの御言葉を取り扱ってしまうことがあるかもしれません。どこかで、自分に都合の良い御言葉を求めてしまうことがあるかもしれません。まさに、自分の量る秤を持っているのも私達なのであります。
 しかし、本当はどうでしょうか。主イエス・キリストの救い、主イエス・キリストの御言葉から与えられる恵みは、私達が望んでいるものよりも、はるかに大きく、深いものなのではないでしょうか。だから、自分の秤では収まりきれないのであります。私達の器よりも遙かに重い恵みなのであります。だから、その恵みを取りこぼしてしまうのであります。いや、自分の器や秤を持ち続けることで、本当の恵みを見失ってしまうこともあるかもしれない。そして、全てを失ってしまうことがあるかもしれない。自分の思いに支配されて生きるとは、正に、そのような結果を生むかも知れない。そのことが、ここで強く示されているのであります。
 では、何が大事なのでしょうか。それは、自分の秤を捨てるということです。何も持たないということです。そして、キリストを通して与えられる、救いの恵みを全身で受け止めていくということであります。
 実は、これもまた、悔い改めなのです。悔い改めることは、反省することではありません。涙を流しながら、自分の悪事を数えることではないのです。自分の秤を捨て、神を見上げ、キリストの御言葉を通して、恵みを頂き直すことなのであります。その生き方こそが、終末に向かって生きる、私達の生き方なのであります。
 主イエス・キリストは、今も生きて、あなたに赦しを宣言してくださいます。「あなたのために、十字架に架かった」、「あなたを赦すために、私は、罪を担い、十字架で死に、復活した」、「この恵みに立ち帰ってほしい」、「ただ、この恵みだけを見つめて欲しい」。 主イエス・キリストは、今も、生きて、あなたに語りかけておられます。その御言葉を素直に頂きつつ、赦しの支配、愛の支配が来たることに期待し、祈りをもって、その時を待ち望みたいと思います。
 今の現実は永遠には続かないのです。私達の死も永遠ではありません。しかし、神の国、神の支配こそが、私達に永遠なる喜びを与えてくださいます。その時に至るまで、先だって与えられた赦しの御言葉に聴きながら、恵みの御言葉の光の中を、共に歩みたいと思います。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 09:41| 日記