2020年01月28日

2020年1月26日 主日礼拝説教「安心して行きなさい」須賀 工牧師

聖書:マルコによる福音書5章21節〜43節

 私達にとって、真の救いとは何でしょうか。あるいは、私達にとって、これ以上に何も要らないほどの救いとは何でしょうか。それは、目に見えるものでしょうか。あるいは、それは形あるものでしょうか。健康が与えられることでしょうか。金銭的に恵まれることでしょうか。家族や友達に恵まれることでしょうか。生活を豊かにする仕事を持つことでしょうか。
 もし、そうであるならば、不健康な人、病の人、貧しい人、孤立している人、社会性を失った人は、「救われていない」ということになります。言い方を変えるならば、その人は、「神様から罰を受けている」とも言えます。あるいは、「神様から見捨てられている」という理解もできるかもしれません。あるいは、健康が与えられ、金銭に恵まれ、友達や家族に囲まれ、仕事が保証されるために、神様を信じるとするならば、それは、もう既に御利益宗教であると言っても過言ではありません。人間が、人間の願望を優先させるところに、御利益宗教が生まれます。そして、そこでは、神よりも人の願いが優先され、願望を叶えてくれない神は、無力な神と見なされていくのであります。人間の自己実現や自己満足のために、神様や信仰が利用されることもあるでしょう。それが、キリスト教なのでしょうか。それが教会なのでありましょうか。そのことを改めて問い直しつつ、今朝の御言葉に聴いていきたいと思います。
 今朝、私達に与えられた御言葉は、マルコによる福音書5章21節から43節の御言葉です。前回、ヤイロの娘の話について聴きました。今朝は、主イエス・キリストの服に触れた病の女性の話に聴きたいと思います。
 25節から26節の御言葉をお読みします。「さて、ここに十二年間も出血の止まらない女がいた。多くの医者にかかって、ひどく苦しめられ、全財産を使い果たしても何の役にも立たず、ますます悪くなるだけであった。」
 ここに一人の女性が登場します。この人は、十二年間も出血が止まらない人でありました。しかし、これは、単なる肉体的苦痛というだけではありません。
 ここには大きく三つの苦しみが示されています。一つ目の苦しみは何でしょうか。それは、孤立する苦しみです。レビ記15章によると、出血した女性は、汚れの対象とされていました。彼女が触れるものは汚れてしまう。だから、誰との接触も得られないまま12年間の日々が過ぎていくのです。コミュニティから排除され、家族や友人から引き離され、自分を責めながら、孤立していく。自分が悪いから、自分がこんな体になったから。誰にも見られないところで涙を流しながら、長い闇の時代を生きてきた。生きていくことの苦しみを味わいながら生きてきたのであります。
 二つ目の苦しみは何でしょうか。それは、将来への不安です。病気を治そうと全財産を使い果たしたのであります。回復を望み、全てを捧げてきたのです。自分のもっている全ての力や財産を使い果たしたのであります。けれど、治ることはなかった。いや、むしろ、もっと悪くなった。正に、お金では解決できない・人間の力では解決できない苦しみがある、ということであります。そして、その苦しみが、その先に対する新しい不安を生み出していくのであります。これからどうやって生きたら良いのか。将来に不安を抱かずにはいられないのであります。そのような苦しみが、彼女を襲うのであります。
 自分の人生に豊かさや喜びを取り戻すために、金銭を使う人は多くいるかもしれません。しかし、お金では解決できない痛みや苦しみもあるです。お金では満たされない痛みがあるのです。そして、気がつけは、全てを失っていた。明日から、どうやって生きられるのか。これからどうやって生きたら良いのか。将来に対する不安が彼女を支配するのであります。
 三つ目の苦しみは何でしょうか。それは神様との関係が切れてしまう苦しみであります。先ほども申し上げましたが、彼女は、人々と触れ合うことが禁じられます。それは、つまり、礼拝にも参加ができないことを意味しています。神様との交わりからも断たれてしまうのです。本当は、一番、神様を必要としている人かもしれません。しかし、神様との交わりのある礼拝にすら足を運ぶことが許されていない。神様との関係が断たれててしまう苦しみがここにある。たとえ、肉体が苦しくても、たとえ、社会で孤立していたとしても、神様が共にいてくださる。そう信じられたら、少しは平安を得ていただろうと思います。しかし、今、神様すらも、自分から離れてしまう。その理不尽さの中で、心の内にある計り知れない苦しみから逃れることができないのであります。
 このように、彼女は、ただ肉体的な苦痛を味わっていたわけではありません。孤立し、将来への不安を抱え、神にも見捨てられていく。そのような多重の苦しみを味わっているのであります。逆に言うならば、体は苦痛であったとしても、この心の内にある苦痛が、ちゃんと満たされていたならば、彼女は心が健やかに生きられたのかもしれない。そのようにも言えるのではないでしょうか。
 しかし、そのような悲惨な現実の中で、彼女は、主イエス・キリストを知り、そして近づき、手を伸ばすのであります。27節から28節の御言葉をお読みします。「イエスのことを聞いて、群衆の中に紛れ込み、後ろからイエスの服にふれた。『この方の服にでも触れれば癒していただける』と思ったからである。」
 藁をもすがる思いで、手を伸ばそうとする彼女の切実な思いが示されています。しかし、ここには、やはり、御利益的な信仰理解が描かれていると言えるかもしれません。自分の願望が優先する。信じるというよりも、癒されることを望む。従うというよりも、願望が先行する。そのような信仰がある。苦しい故の行為であります。仕方がないと言えるかもしれません。
 しかし、信仰的な側面から言うならば、その信仰は、決して、完全な信仰とは言い切れないものであります。私達にとって、救いとは何でしょうか。それがここで改めて問われます。それは、癒されることなのでしょうか。形あるもので満たされることなのでしょうか。主イエス・キリストは、その救いだけの救い主なのでしょうか。
 もし、ここで、この女性が癒されただけで、全てが終わっていたとするならば、キリスト教は単なる御利益宗教だったのかもしれません。しかし、ここでこの話は終わらないのであります。30節から32節をお読みします。「イエスは、自分の内から力が出て行ったことに気づいて、群衆の中で振り返り、『わたしの服に触れたのはだれか』と言われた。そこで、弟子たちは言った。『群衆があなたに押し迫っているのがお分かりでしょう。それなのに、『だれがわたしに触れたのか』とおっしゃるのですか。』しかし、イエスは、触れた者を見つけようと、辺りを見回しておられた。」
 もし、主イエス・キリストが、無視して通り過ぎていったのであれば、救い主は、ただ人の願望に応えるだけの道具であったかもしれません。もし、主イエス・キリストが、ここで立ち止まることなく、その人を捜すこともなかったのであるならば、主イエス・キリストは、私達の遠くにいて、私達の願いを叶えるだけの御利益的な信仰対象であっただけかもしれない。
 しかし、主イエス・キリストは、そこで立ち止まり、その人の汚れた手の感触を敏感に感じ取り、そして、その人を捜し、呼びかけてくださる。完璧な信仰をもっていたわけではないのです。自分の願望が先行するような信仰でしかないのです。誤った信仰理解の持ち主です。
 しかし、主イエス・キリストは、その人の手の感触をつぶさに感じ取り、その人のことを知って下さり、その人を捜して下さる。その人のために足を止めてくださる。不信仰であることを咎めるためではありません。その人と出会い、その人を、主にある交わりの中に入れるために、主はその人を呼び続けるのであります。
 ここに救い主が望んでおられる救いがある。それは、その人を神様との交わりへと取り戻すことなのであります。そこに肉体の癒しを越えるほどの、御利益信仰を越えていけるほどの本当の救いの出来事があるのだということを聖書は証しているのです。
 さて、彼女は、主イエス・キリストに触れて、癒されることを通して、恐れたのであります。この「恐れる」という言葉は、神様を畏れるという意味です。主イエス・キリストを通して、そこに神がいることを恐れた。
 そこで、彼女は恐れたのであります。神様を恐れたのであります。体が清くなったのだから、堂々と、神様の前に出れば良いんです。しかし、彼女は、恐れた。なぜでしょうか。肉体が癒されても、拭いきれない自分の弱さと小ささを知ったからであります。自分の汚れや自分の罪深さ、弱さを知ったから。自分の体の問題ではなく、心もまた、弱っていたことを知ったから。自分が不信仰であることを知ったから。だから、神を恐れた。そして、この主イエスの前では、自分の罪を隠すことができないと思った。だから、ありのまま、全てを打ち明けたのであります。
 しかし、これがまた、大切なことなのであります。汚れたままで、主の御前に進み出て良いのであります。取り繕う必要はないのであります。罪や汚れをまとい、ボロボロになりながら、自分をさらけ出しながら、主の御前に進み出て良いのであります。正しい人はいないのです。義人は誰もいないのです。クリスチャンだから、クリスチャンらしく、七三、スーツのような姿で、主の御前に出る必要は無いのです。
 主イエス・キリストが、神との交わりの内へと、招いてくださる。ボロ着をまとって主の御前に出て良い。あなたの弱さを背負って前に出て来て良い。その交わりの中へと招き、その交わりの中でこそ、新しい御言葉が聞こえてくるのであります。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい」と。
 信仰とは何でしょうか。それは勿論、信じること、信頼することです。しかし、彼女は、自分が癒されることだけを願った御利益信仰をもって主に近づいた。彼女の信仰は、その意味で、神を信じるというよりは、自分の願いを先行させた自分中心の不完全な信仰なのであります。
 しかし、信仰とは、更にもう一つ重要な側面があります。それは、信仰に入る、ということであります。信仰に入るとは、どういう意味でしょうか。それは、神様との関係の中に入るということであります。主イエス・キリストとの交わりの中に入れられる、ということであります。それもまた、信仰なのであります。主イエス・キリストは、心が汚れ、罪と不信仰に満ちた、この女性を、ただ肉体的に癒すだけではなく、そのぬぐい去ることのできない汚れたそのままの姿を、主の交わりの中へと入れられた。彼女との親しき交わりに生きて下さった。そこに、あなたの救いがあるのだ。そう宣言して下さっているのであります。
 そして、何よりも彼女に将来の希望を与え、社会へと遣わしていくのであります。将来に対する不安を取り除き、共同体の中へと新たに復帰させていくのであります。
 信仰に入れられ、神様との関係の中に生かされ、救いを得て、新たに歩む。そのところには、安心があります。そして、そこに心の健康があるのです。
 「もうその病気にはかからず」と、主イエス・キリストは言われます。そんなことは誰も保証できません。違う病気になることもあるでしょう。死に至る病に冒されることもあります。信仰を持つということは、病気にならないことではない。でも元気に暮らせるのだと言うのです。安心して暮らして良いのだと言うのです。なぜでしょうか。
 本当の病気は、肉体的な部分ではなく、罪に満ちたこの心の中にある。しかし、今、あなたは、もう既に、キリストの交わりの中に生きている。その病は、もう、キリストによって取り除かれている。キリストのもとに留まって歩みなさい。そう言われている。
 信仰生活とは、元気に生きられる生活なのです。安心して歩める生活なのです。なぜでしょうか。神様との関係が、決して破れることがないからであります。キリストを通して、修復された神様との関係、神様との絆は、決して、誰にも破滅させることはできないからであります。キリスト−神様−との関係は、お互いに手首をつかみ合う関係なのです。私が離しても、キリストは離さない。
 どれだけ、罪にまみれても、どれだけ、弱さや汚れを纏っていても、信仰に入れられ、救いを頂くということは、その確固たる関係と交わりの中に生かされている、ということなのであります。
 その交わりは、人間の罪や死や病よりも強いのであります。なぜなら、私達を交わりへと招く主御自身が、罪と死に勝利されたから。私達は、その勝利の主に招かれ、その主との交わりの中に今を得ているのです。だから、安心して良い。だから、元気に暮らせるのであります。主イエス・キリストは、今も生きて、あなたを招き続けます。その招く声に心の耳を傾けて、ありのままの姿で、主の御前に進み出る者でありたいと思います。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 16:42| 日記

2020年01月18日

2020年1月26日 礼拝予告

〇教会学校 9時15分〜
主題:「義人ヨブの苦難」
聖書:ヨブ記1章9節〜22節
※礼拝後、絵本の読み聞かせの時があります。

〇主日礼拝 10時30分〜
主題:「安心して行きなさい」須賀 工牧師
聖書:マルコによる福音書5章21節〜43節
※礼拝後、五分の集いがあります。

皆様のお越しを心よりお待ち申し上げます。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 15:50| 日記

20201月19日 主日礼拝説教「700リットルのぶどう酒」須賀 舞伝道師

聖書:ヨハネによる福音書2章1節〜12節

 本日、私たちに与えられましたのは、ヨハネによる福音書2:1-12の御言葉です。主イエスが行われた、最初の奇跡、カナの婚礼での奇跡を伝える箇所です。
 私たちは、このヨハネによる福音書を4月から順に読み進めて参りました。月に1度ですから、やっと前回までで1章を読み終えたところであります。2章からはいわゆる、主イエスの「公生涯」が記録されていきます。公生涯とは公の生涯、つまり主イエスが公に行った伝道活動のことです。そう考えますと、1章で伝えられている弟子たちの召命は、主イエスと弟子たちしか知られていない所で、ある意味密かに行われていたことでもありました。そして、主は、彼らにこう言われるのです。「もっと偉大なことをあなたは見ることになる(1:50)」前回の説教では、この「もっと偉大なこと」は、「もっとも偉大なこと」と言っても過言ではないと申し上げました。そのもっとも偉大なこととは、「天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り降りするのを、あなたがたは見ることになる。(1:51)。」ということでした。
 当時のユダヤの人々にとって、これは、ヤコブが夢で見た、天と地をつなぐ梯子の故事を思い起こさせる言葉でした。旧約聖書の創世記28章に出てくる物語です。ここで主は、「私こそが、ヤコブが夢に見た梯子そのものである。」と弟子たちに明かされるのです。それは、主イエスに神様を見る、主イエスがおられるそのところに神様が御臨在される、主イエスを通して神様とは如何なるお方かが分かるようになる、ということを意味します。−神様が主イエスにおいて顕現する−というメッセージは、いわば、キリスト教の中心的な使信(メッセージ)でもあります。そして、この主の約束の言葉のすぐ後に、2章からの主の公生涯が始まり、カナでの婚礼の奇跡が起こってくるわけです。
 本日の御言葉が伝える物語のあらすじはこうです。主イエスと弟子たち、そして主イエスの母が招かれた婚宴の席で、途中、ぶどう酒が切れて無くなってしまいます。主イエスの母が、そのことに気づき「ぶどう酒がなくなりました。」と訴えます。主はその訴えを一旦は遠ざけますが、召使いを呼び大量の水を用意させ、それを上質なぶどう酒に変えるという奇跡を行うのです。
 本日、私たちが一番に心に留めたい御言葉は、11節です。もう一度共にお読みしたいと思います。「イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。」
 「しるし」という言葉が出てきます。これは、奇跡に限らず、主イエスの言葉や業の全てをあらわす特別な言葉です。しるしという言葉が出てくる時、そこでは必ず、しるしを通して、何か大切な事柄が指し示されるのです。では、カナの婚礼の奇跡が指し示すのは一体何でしょうか。それは、「イエスとは誰か。」ということであります。水がぶどう酒に変わるという奇跡が、カナでの婚礼の席で起こった。その奇跡を執り行ったナザレの人、イエスという男は一体何者か。それが、本日の御言葉から聞き取るべきメッセージなのです。
 「イエスとは誰か。」一つは、主イエスは「律法の完成者」であるということです。実は、この物語には、当時のユダヤ教社会に向けられた、メタファー(隠喩)がたくさん詰まっているのです。代表的なのは、ユダヤ人が清めに用いる水が上質なぶどう酒に変わるということです。主が「水をいっぱい入れなさい」と言われるこの水瓶は、元来ユダヤ人が体を洗うための清めの水を入れる水瓶でした。清さを保つ事は、律法でも定められていることでした。つまり、この水瓶の水は、律法を指し示すメタファーなのです。それが、上質なぶどう酒という全く新しいものへと変えられる。主イエスによって古い秩序から新しい秩序へと造り変えられていく。そのような、第二の創造物語が、カナでの最初の奇跡をもって、今正に始められるということが、ここで強く指し示されていくのです。
 そして、「イエスとは誰か」について、もう一つ明らかにされている事柄があります。ここで私たちは、11節の「その栄光」という言葉に目を向けたいと思います。ヨハネによる福音書1:14は、この主イエスの栄光を「父の独り子としての栄光」であると説明します。従って、イエスとは「父の独り子としての栄光」が現れておられるお方である、即ち、−神様が主イエスにおいて顕現する−というキリスト教信仰の中心的メッセージが、ここで伝えられていくのです。
 もしかすると、私たちは、先を急ぎすぎているかもしれません。ここで、改めて問わなければならないことがあります。それは、本日の物語とそのメッセージが、一体私たち石山教会に、またこの礼拝に招かれている全ての方々にどのような意味を持つのかということです。
 私たちは、皆それぞれ大小悩みを抱えています。しかし、眼前の悲しみ、苦しみに対して、キリスト教の福音(よき知らせ)は一体どのような慰めとなるのでしょうか。一方で、今差し当たって大きな試練に直面していない者にとってはどうでしょう。よくキリスト教では、「信じて救われる」と言いますが、「救い」と聞きますと、どうも私たちは試練に合っていたり、苦しみを覚えていたりする状況を思い浮かべてしまいます。しかし、ここに集う全員が必ずしも、試練の真只中にいるわけではありません。そのような方にとっては、そもそも「救い」や「復活の希望」など必要なのでしょうか。
 ここで見落としてはならないことがあります。それは、この物語の舞台が、結婚式の祝いの席であったということです。当時のユダヤ結婚式は、私たちの想像を超える盛大なものでした。日頃は貧しく質素な生活をしている人であっても、結婚式は特別です。ある本によると、その祝宴は2、3日、長い時には1週間続くとありました。皆、何とかお金を工面して祝宴を開くのです。その時ばかりは、花婿は王と呼ばれ、花嫁はお妃と呼ばれたそうです。その間、料理やお酒を絶やすことなく祝宴を続けるわけですから、当然、準備も大変です。しかし、花嫁も花婿もこの日ばかりは、自分たちが主人公、皆が祝宴のために仕えてくれるのは当たり前だ、そのような思いでいたかもしれません。周りも人生一度きりのことだから、特別な時だから、そのようなことはゆるされるだろう。皆が、この幸せを楽しもうと祝宴を開いていたのです。
 本日の物語は、そのような婚宴の只中に、主イエスがおられることを伝えます。結婚式には、その夫婦の日頃の生き方があらわれてくるものです。これから新しい家庭を築いていく2人が、生まれてからこれまでどのように歩んできたか、そしてこれからどのような未来を歩もうとしているのか。結婚式には2人の人生が凝縮されているのです。しかし、人生の幸福な時、喜びの時、人は自分に助けが必要だと思いもしません。主を忘れ、自分が人生の主となって楽しみ尽くすのです。一方で、困った時、悲しい時、苦しい時には、主の助けが必要だと思うのです。ここに人間の現実があります。しかし、主は、カナでの婚宴の時、花婿、花嫁が王と妃になるその宴の時であっても、そこに確かにいてくださる。もしかしたら、その時、主が共にいてくださることに心を向ける人は少ないかもしれません。しかし、確かに主はそこにおられ、人生の喜びを共にしてくださるお方であることが、ここで強く示されていくのです。
 ところが、楽しい宴席の途中に、お酒がなくなるという事態が起こります。本来ならこんな失礼はあってはならない、大失態です。宴も盛り上がり、幸せの絶頂とも言えるその時に、ほころびが生じます。主イエスの母マリアは、いち早くその事態を悟ります。険悪な雰囲気になってしまうかもしれない。もしかしたら、揉め事の火種となるかもしれない。そうとなっては大変。息子よ、何とかしておくれ。そのような思いで「ぶどう酒がなくなりました。(3節)」と訴えるのです。しかし、主は「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。(4節)」と答えます。非常に冷たい言葉にも聞こえます。では、「わたしの時」とは、一体いつなのでしょうか。一般的にこれは、主イエスが死ぬ時を意味します。つまり、十字架の死の時です。それは、栄光の時とも言われます。本来ならばその時に現されるはずの栄光を、主はこのカナの婚礼においても現わしてくださったのです。しかし、主イエスが、母に「何とかしてぶどう酒を」と言われた時は、まだその栄光を現す時ではありませんでした。ですから主は、定められた時はまだであると、母に言われたのです。
 母は、息子に断られて諦めてしまったのかというと、そうではない。召使いを呼んでこう言うのです。「この人(つまり主イエス)が何か言いつけたら、そのとおりにしてください(5節)。」ここに、マリアの凄さがあります。幸せな時間に生じた傷を、主が見過ごすはずがない。必ず何とかしてくださる。主の定めた時が来るまで、心の備えをしておきましょうと言うのです。
 その通り、主イエスは、御心のままに、奇跡を行ってくださいました。しかもそのぶどう酒を味見した結婚式の世話人はこう言います。「あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれました(10節)。」つまり、願い求めたもの以上のものが与えられたのです。客人達は、今までよりも、遥かに上等のぶどう酒によって、主のもてなしを受けたのでした。
 このしるしを通して、主イエスは、神様の独り子としての栄光を現されました。その栄光を弟子たちは見ました。それは、恵みと真理に満ちた栄光でした。その栄光を見ることが、このお方こそ神であると告白するに至らしめる信仰を生んだのです。
 しかし、ここで不思議なことが一つあります。この時点で、主イエスが従えていたであろう弟子達は、1章の記事から推測するに少なくとも5人です。そのまま読むなら、この5人だけが、信じたということになります。しかし、この奇跡を見たのは、当然、弟子たちだけではありませんでした。そこには母マリアもいました。召使いたちも水がぶどう酒に変わったのを目の当たりにしていますし、「このぶどう酒がどこから来たのか、水をくんだ召使いたちは知っていた(9節)。」とさえ書かれています。
 それでは、主の栄光を見て信じた「弟子たち」とは、本当は誰のことなのでしょうか。それを知る手がかりがあります。それは、聖書において、しばしば「神の国」が婚宴に喩えられるということです。神の国に招かれているのは誰でしょう。それは、主イエスこそ神であると信じる全ての者達です。その意味においては、このカナの婚宴とは、皆を招く婚宴であるとも言えます。もう皆さんは、この11節の弟子達とは、5人のことだけではないことがお分かりでしょう。ここに集うこの私たちも、祝宴に招かれている。そして、主の御栄光を見て信じた弟子達に数えられているのです。
 ところで、先週の祈祷会での雑談中に、本日の説教題について少し触れる時間がありました。「700リットルのぶどう酒」という題です。これは、主イエスによってもたらされたぶどう酒の総量です。水がめ1つの容量は、2ないし3メトレテスでると記されています。1メトレテスとは、今で言うとだいたい39リットルになります。80〜120リットル入る水がめ6つに、なみなみ水を入れて、全てぶどう酒になるわけですから、多く見積もって約700リットルのぶどう酒が与えられたのです。その時点で既に、宴が始まって時間も経っていたでしょう。当初用意したぶどう酒が無くなるほど皆酔っ払っていました。そこに、更に700リットルもの大量のぶどう酒が与えられたのです。そのぶどう酒はその後、一体どうなったのか。果たして飲みきることが出来たのだろうか。そんな話を、祈祷会でいたしました。その会話を思い出しつつ説教準備を進める中で、ふとこういう思いが与えられたのです。「ああ、きっとこの大量のぶどう酒は、婚宴に招かれている、全ての弟子たちのためのぶどう酒だったのではないか。この私たちのために、主が用意してくださったぶどう酒なのではないか。」
 私たちの主イエス・キリストは、とっておきのぶどう酒を用意し、私たちを祝宴に招いてくださっているのです。その大きな恵みを心に留め、この一週間も主イエスの招きに応える歩みをなしていきたいと願います。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 15:47| 日記