2020年03月15日

2020年3月15日 主日礼拝説教「人の願いと主の思い」須賀 工牧師

聖書:マルコによる福音書6章53節〜56節

 今朝、私達に与えられた御言葉は、マルコによる福音書6章53節から56節の御言葉であります。
 53節の御言葉をお読みします。「こうして、一行は湖を渡り、ゲネサレトという土地に着いて舟をつないだ」。
 マルコによる福音書6章45節を見ますと、元々、主イエス・キリストと弟子たちは、違う目的地に向かっていたようであります。彼らは、元々は、ベトサイダという土地に向かっていたようです。
 しかし、先週の御言葉にもありましたように、思わぬ嵐が起きたのであります。逆風に悩まされてしまったのであります。そこで、進路が変わってしまったのであります。そして、ゲネサレトに行き着いた、ということになるのであります。
 つまり、本来、行くべき所ではない所に来てしまったということになるのであります。言うならば、計画とは違う方向に向かってしまった。あるいは、遠回りをすることになってしまった。更に言うならば、無駄なことが起きてしまった。そのようなことが、ここで、起きたのであります。
 しかし、果たして、その見方は、正しい見方なのでありましょうか。即ち、主イエス・キリストと共に歩む人生において、無駄なものなどありえるのでしょうか。一見、人の目には無駄に見えるものが、主によって、意味のあるメッセージに変えられていく、ということもあるのではないでしょうか。そのことが、ここからまず指し示されているのではないかと言えるのであります。
 そして、もし、そうであるならば、この短い聖書の御言葉の中にも、あるいは、主イエス・キリストが、一言も発していないような御言葉の中にも、私達の聴くべき、尊い福音がある、ということでもあると言えるのです。
 それでは、そもそも、「ゲネサレト」という土地は、どのような土地なのでしょうか。恐らく、「ゲネサレト」という地名は、あまり知られた土地ではないないだろうと思います。
 しかし、当時の「ゲネサレト」は、人口の多い土地であったとも言われています。地理的に言えば、ガリラヤ湖の北西部に位置し、農産物を豊かに産出した土地であったようです。そして、そのことによって、経済が発展し、人口が著しく増加した土地でもあったと言われています。
 しかし、多くの人で賑わっている反面で、多くの問題もありました。例えば、ゲネサレトには、「異邦人の居住地域」があり、多様な宗教的思想が流行したようです。即ち、信仰的には、非常に堕落していた土地であったとも言われています。あるいは、海外文化や思想が定着したために、この世的、世俗的な土地であったとも言われているのです。
 主イエス・キリストの弟子たちは、このような土地の近辺に住んでいたはずですので、そのような家庭環境の人々を、弟子にすること自体が、ユダヤ社会においては本来はありえないことだったとも言えるかもしれません。
 どちらにせよ、この土地に生きる人間は、神様との関係が破滅していたと考えられていたようであります。言い方を変えるならば、神様の救いを受けるに値しない土地。そのような土地であったとも言えるでしょう。
 しかし、正に、そのようなところにこそ、救い主が来て下さったのであります。そこに定着してくださったのであります。正に、福音が届かないところにも福音が届けられる。人間の罪の闇が深いところにおいてさえ、救い主による救いの光が差し込んでいくのであります。そのような大きな恵みを改めて、ここで味わうことができるのであります。
 このようにして「ゲネサレト」という土地に、主イエス・キリスト御自身が来て下さり、舟を下りて歩んで下さることを通して、救い主の救いが、大きな憐れみに満ちた救いであることを改めて味わい知ることができるのであります。どれだけ罪の闇の中にあったとしても、罪の現実に支配されていたとしても、その只中にも、救い主は歩んで下さる。罪から解放してくださる。光へと導いてくださる。ここに深い恵みを味わうものとされているのであります。
 それでは、そのような救いは、どれほどまでに恵み深いのでしょうか。そのことを考えながら、次の残りの箇所を読んでみたいと思います。「一行が舟から上がると、すぐに人々はイエスと知って、その地方をくまなく走り回り、どこでもイエスがおられると聞けば、そこへ病人を床に乗せて運び始めた。村でも町でも里でも、イエスが入って行かれると、病人を広場に置き、せめてその服のすそにでも触れさせてほしいと願った。触れた者は皆いやされた」。
 「ゲネサレト」の人々は、主イエス・キリストを強く求めています。それは裏を返せば、主イエス・キリストを信じ、主イエス・キリストに希望を抱いている、ということでもあります。そして、その人々の篤い信仰や希望は、彼らの行動にもよく表されていると言えるかもしれません。
 彼らは、主イエス・キリストの存在を知り、その情報を共有し合い、どこでも、主がおられる所には、足を運ぶのであります。そして、彼らは「せめて服にでも触れたい」と願うのであります。そうすれば、救いが得られるのだ、と真剣に信じるのであります。この所に、彼らの熱心な信じる心があると言えるでありましょう。そのある種の信仰のようなものは、否定されてはいけないだろうと思います。
 しかし、正に、そこにこそ、人間の陥る、大きな落とし穴があります。即ち、彼らは、本当に正しく、主イエス・キリストを知っていると言えるのでしょうか。彼らは、本当に正しい目で、主イエス・キリストを見ているのでしょうか。それが、ここで強く問われているのであります。
 例えば、54節には、「イエスだと知って」という言葉が使われています。この「知る」という言葉は、「知識」として「知る」という意味です。つまり、外面的な部分だけを「知る」というニュアンスが込められています。要するに、ゲネサレトの人々は、主イエス・キリストの外面的な部分は知っている。しかし、内面的なことは何も分かっていない、ということが強調されているのであります。
 彼らは、主イエス・キリストの噂は知っているのです。主イエス・キリストの働きも知っているのです。房に触れたら癒された女性のことも知っていたかもしれません。彼らは、主イエス・キリストのことを良く知っている。主イエス・キリストが、沢山の病人を癒してきたことも知っているのです。
 しかし、本当の主イエス・キリストの姿は知らないのであります。目に見える外面的な知識や噂をもって、主イエス・キリストを信じているだけなのであります。
 そして、そのような群衆の現実は、正に、彼らの行いにも表されていると思います。彼らは、とても熱心に信じているのです。主イエス・キリストに希望を置いているのです。主イエス・キリストでなら救えると本気で信じているのです。もう、この御方しかないのだと信じているのです。
 しかし、彼らが望んでいる救いとは、何であったか。目に見える部分だけの救いなのです。なぜなら、主イエス・キリストの目に見える活動だけを見てきたからであります。それは、見方を変えるならば、御利益を目的とした信仰であります。ただただ、自分の願いだけを中心に考え、それが満たされることがだけを求めているに過ぎないのであります。そこに正しい信仰があると言えるのでしょうか。そこで、主イエス・キリストという御方を正しく見ていると言えるのでしょうか。
 ここで大事なことは、どれだけ篤い信仰があったとしても、その信仰の中においても、人間は、罪を犯している、ということなのであります。どれだけ熱心な信仰であったとしても、その信仰の中で、それでも人は罪の中にいる、ということなのであります。正しい人は誰もいないのであります。
 しかし、ここでもう一つ大事なことは、それでも、主イエス・キリストは、そのような人間と向き合い、救いの御業を成し遂げてくださった、ということなのであります。本来ならば、救いを得るには相応しくない人々と、ちゃんと向き合い、救いの御業を成し遂げてくださる。そこに、憐れみがあるのです。神様の深い愛があるのです。
 実は、この憐れみこそが、人間にとって一番必要な救いなのです。病気が癒されることが本当の救いではないのです。見当違いの信仰を持ち、人間中心で有り続けていながらも、それでも、主イエス・キリストが、一人一人と向き合い、神様の救いの御手の中に入れて下さる。これが、癒しを越える、本当の奇跡なのであります。
 主イエス・キリストの救いとは、目に見える体の回復にあるのではなくて、何も分かっていない人間であったとしても、憐れみによって痛みから解放される。その憐れみの中に、キリストの救いの本質があるのです。
 病気を癒すということもまた、素晴らしい出来事であります。しかし、救いから離れた人間が、憐れみと愛とによって神様の救いの御業に生かされる。そのところにこそ、本当の奇跡があると言えるのです。
 私達も又、同じであります。決して正しい人間ではありません。全くの見当違いをすることもあります。しかし、そのような私達もまた、キリストを通して、神様の救いの御業に生かされているのです。私達もまた、今、キリストを通して、新しい命に生かされています。そして、そこにこそ、病気を癒す以上の本当の奇跡がある。その幸いを深く心に留めつつ、新しい日々を歩み出したいと思います。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 11:58| 日記

2020年03月07日

2020年3月15日 礼拝予告

〇教会学校 9時15分〜
聖書:ヨナ書4章1節〜11節
主題:「ニネベの悔い改め」

〇主日礼拝 10時30分〜
聖書:マルコによる福音書6章53節〜56節
主題:「人の願いと主の思い」須賀 工牧師

皆様のお越しを心よりお待ち申し上げます。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 09:43| 日記

2020年3月8日 主日礼拝説教「主にある平安」須賀 工牧師

聖書:マルコによる福音書6章45節〜52節

 今朝、私達に与えられた御言葉は、マルコによる福音書6章45節から52節の御言葉であります。
 今朝の御言葉には、「舟」という言葉が出て来ます。この「舟」という言葉が大切です。なぜなら、昔から「舟」とは、「教会」を意味していたからであります。教会によっては、舟をモチーフにした礼拝堂も多くあるそうです。ここでも、そのことを踏まえた上で、今朝の御言葉に聴いていきたいと思います。
 45節から46節の御言葉をお読みします。「それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸のベトサイダへ先に行かせ、その間に御自分は群衆を解散させられた。群衆と別れてから、祈るために山へ行かれた。」
 ここで大事なポイントは、主イエス・キリストが、「強いて」、弟子たちを舟に乗せられた、ということであります。そして、主イエス・キリスト御自身は、舟には乗らないで「一人で祈られた」ということであります。この二つが、大事なポイントであります。
 それでは、「強いる」とは、何を意味しているのでしょうか。それは、自分の意志ではなく、主イエス・キリストの意志で舟に乗せられた、ということであります。
 このことを教会に当てはめたらどうでしょうか。私達は、強いられて教会に来ているのでしょうか。いや、自分の決断で、教会に来ています。私達は、強いられて信仰を持っているのでしょうか。いや、自分の決断で、信仰をもっています。
 しかし、それだけが全てではありません。主イエス・キリストが、この私を教会に連れて来てくれた。主イエス・キリストが、この私に信仰を与えて下さった。この視点も大切なのであります。自分で選んでいるようで、実は、主によって選び出されていた。自分の決断であるようで、実は、主イエス・キリストの御心によって、今、わたしは教会に導かれている。信仰を頂いている。自分が教会を受け入れるよりも前に、主イエス・キリストが、あなたをかけがえのないものとして受け止めてくださっている。その幸いが、ここでまず表されているのであります。
 そして、教会は、主イエス・キリストの祈りによって支えられています。私達は、今、主イエス・キリストを目で見ることはできません。しかし、主イエス・キリストは、私達を忘れていない。主イエス・キリスト御自身が祈りをもって、教会の歩みを支え、祝福し、守っていて下さる。主イエス・キリスト御自身が、祈りをもって、私達を覚え、見守っていてくださるのであります。
 教会の歩みとは、私達の祈りの力によってのみ進むのではないのです。私達のために、祈りを通して、守って下さる、主の御力によって、歩むことができるのであります。
 しかし、教会だからといって、苦難がないとは限りません。信仰を持っているからといって、順風満帆であるとは限らないのであります。逆風に悩まされる時があるのです。苦しみや痛みを味わう時もあるのです。荒波に飲まれることもあれば、心が闇に包まれることもあるのであります。
 その時、私達は、こう思うのです。主イエスは、本当にいるのか。なぜ、主イエスは、私を舟に乗せたのか。主イエスは、私達を見捨てたのではないか。主は、守ってくださらないのか。苦難の中で、逆風の中で、そのような気持ちが生まれてしまうこともあるのです。
 しかし、果たして、それは正しいことなのでしょうか。47節から49節をお読みします。「夕方になると、舟は湖の真ん中に出ていたが、イエスだけは陸地におられた。ところが、逆風のために弟子たちが漕ぎ悩んでいるのを見て、夜が明けるころ、湖の上を歩いて弟子たちのところに行き、そばを通り過ぎようとされた。」
 主イエス・キリストは、「逆風のために弟子たちが漕ぎ悩んでいるのを見た」のだと言われています。考えてみればおかしなことであります。即ち、夜、湖の真ん中で、漕ぎ悩んでる弟子など、本来は見えるはずはないのです。
 しかし、主イエス・キリストは、「見えた」のだと記しているのです。つまり、主イエス・キリストは、私達の痛み、苦しみ、悩みに、ちゃんと目を向けておられるということなのであります。ちゃんと見つめていてくださる。見守っていてくださる。見捨てるのではなく、むしろ、その痛みや悩みを知っていてくださり、私達をしっかりと見つめてくださるのであります。
 そして、私達を一人にしておくのではなく、私達のそばを歩んでくださる。湖という隔たりを越えて、私達のそばを歩んでくださる。いや、私達を越えて、先頭にたって歩み続けてくださる。それが、主イエス・キリストなのであります。
 しかし、人間というものは、苦しみの中にあって、そこに神様がいてくださること、そこにイエス様がいてくださることに、中々、気づかないものなのかもしれません。イエス様が、本当は、すぐ、そこにいてくださるのに。苦しみや悲しみや不安に支配されるところでは、主イエスを見つめる目が閉じてしまうのであります。
 そのような私達に対して、主イエス・キリストは、何をしてくださるのでしょうか。49節から51節をお読みします。「弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、幽霊だと思い、大声で叫んだ。皆はイエスを見ておびえたんである。しかし、イエスはすぐ彼らと話し始めて、『安心しなさい。わたしだ。恐れることはない』と言われた。イエスが舟に乗り込まれると、風は静まり、弟子達は心の中で非常に驚いた。パンの出来事を理解せず、心が鈍くなっていたからである。」
 恐れと悩みに支配されているところでは、そこに、主イエスがいてくださることに気づけない。しかし、そのような、弟子たちに対して、主イエスは、「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と仰せになるのです。
 「わたしだ」という言葉は、「わたしはある」という意味です。これは、神様が御自身を表現する時の言葉であります。ここに神様がいるよ。だから安心して良い。恐れなくて良い。そう語りかけてくださる。つまり、神様御自身の御言葉をもって、私達を支え、励ましてくださるのであります。
 そして、それだけではありません。私達の内側に入って来てくださる。その時、逆風は収まるのであります。教会というのは、逆風と戦う存在ではないのです。信仰者とは、悩みや逆風と戦う人ではないのです。主イエスが、支えてくださり、戦ってくださり、おさめてくださる。その主イエスに結ばれて、主イエスに寄りかかりながら生きられる。そこに信仰者の、あるいは教会の慰めがあるのだろうと言えるのであります。
 苦難の中で、主イエス・キリストは、そこにいないということはないのです。私達のために祈りを捧げ、湖という隔たりを越えて、私達の傍を歩み、私達に向かって御言葉を語り、逆風という妨げを打ち壊してくださる。
 私達は、弱いかもしれません。私達は何も分かっていないかもしれません。逆風に打ち勝つほどの力はないかもしれません。
 しかし、主は、そのような私達を深く憐れみ、見つめ、知ってくださり、私達に必要な救いを与えてくださるのであります。大事なことは、逆風に打ち勝つための力を得ることではなく、そこに生きて、共に歩んでくださる主に寄りかかりながら生きる、ということなのであります。この幸いを覚えつつ、新しい1週間を歩み出したいと思います。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 09:40| 日記