2019年10月20日

2019年10月20日 主日礼拝説教「神の国の秘密を打ち明ける」須賀 工牧師

聖書:マルコによる福音書4章10節〜12節

 今朝、私達に与えられた御言葉は、マルコによる福音書4章10節から12節の御言葉であります。聖書の小見出しには、「たとえを用いて話す理由」と記されています。
 主イエス・キリストは、多くの譬え話を語られました。それは何の為なのでしょうか。一般的に、「譬え話」とは、難しい事柄を分かり易くするためのものです。しかし、主イエス・キリストの譬え話はどうでしょうか。
 12節をお読みします。「それは、『彼らが見るには見るが、認めず、聞くには聞くが、理解できず、こうして、立ち帰って赦されることがない』ようになるためである」。
 このように記されています。つまり、主イエス・キリストが、譬え話を語ることによって、必ずしも、人が納得するわけではない、ということであります。その意味で、申し上げるならば、主イエス・キリストの譬え話は、一般的な譬え話とは違う目的で語られていることになるのであります。
 そもそも、主イエス・キリストは、譬え話を通して、何を語られたのでしょうか。11節をお読みします。「そこで、イエスは言われた。『あなたがたには神の国の秘密が打ち明けられているが、外の人々には、すべてがたとえで示される」。
 このように記されています。つまり、主イエス・キリストは、「神の国の秘密を打ち明ける」ために、御言葉を語られたのであります。それでは、神の国とは何でしょうか。
 それは、どこか遠くの国の話ではありません。神の国とは、「神様の御支配」のことであります。神様が支配しておられる現実のことです。どこかの場所の話ではありません。神様が支配をしているという出来事のことです。目に見える国の話ではなく、目には見えない出来事の話です。
 だから大切なことは何でしょうか。神の国は、理解したり、納得したりするものではないということなのです。そうではなくて、目には見えない、説明できない神様の御支配を認め、信じる、ということが大切なのであります。納得したから信じるのではありません。理解できたから認めるのでもありません。今、ここに神様の支配がある。それを信じるか否か。それが大切なのであります。
 つまり、主イエス・キリストの御言葉に聴き、神様の御支配を信じる時、はじめて「譬え話」のメッセージが分かるようになるのであります。逆に言うならば、どれだけ、聖書を読み、御言葉に聴いていても、神様の御支配を受け入れないところでは、本当の意味で、キリストの御言葉の意味は分からないままなのであります。
 このように、主イエス・キリストの譬え話は、神の国の説明ではなく、神の国を信じるか否か。その信仰の決断を迫るための御言葉となっているのであります。
 では、神様の御支配を信じる信仰が、どのようにして与えられるのでしょうか。改めて11節の御言葉をお読みします。「そこで、イエスは言われた。『あなたがたには神の国の秘密が打ち明けられているが、外の人々には、すべてがたとえで示される』」。
 ここには二通りの人間が出てきます。一つは、「あなたがた」です。そして、もう一つは、「外の人々」です。この違いは、何でしょうか。それは、主イエス・キリストのもとに留まっているか、主イエス・キリストのもとから去って行くか、ということです。
 主イエス・キリストは、全ての人に御言葉を与えられます。しかし、聞く私達の側が分かれてしまうのです。御言葉に聴いて留まるのか。御言葉に聴いて去るのか。この二つに分かれてしまうのであります。
 主イエス・キリストの御言葉に聴いても、「今日はいい話を聞かせていただきました」といって去る人もいるかもしれません。あるいは、「よく分からない話だ」といって去る人もいるだろうと思います。自分の都合に合わせてキリストの御言葉を評価し、判断し、良いとか、悪いとか言う人もいるのであります。
 そういう人々にとって、神様の国、神様の御支配は、謎のままなのです。更に言うならば、神様の救いの支配など到底分かるはずはないのであります。なぜでしょうか。その人間の心の中には、神の支配を受け止める余裕がないほどに、自分の支配が生きているからであります。
 大切なことは何でしょうか。それは、主イエス・キリストの御言葉に聴き、そこに留まるということなのであります。理解出来た、納得出来た、ということが大事ではないのです。御言葉に聞いて、そこに留まり続ける。そのところで、神の支配が見えてくる。神様の救いが見えてくるのであります。
 これは、更に大切なことを表しています。主イエス・キリストの御言葉に聴き、そこに留まることが、神の国を知る道だとするならば、キリスト御自身こそが、神の支配そのものなのだということになるのです。キリストと共に生き、キリストと結ばれて生きる時、もう既に、私達は、神様の御支配の中に入れられているのだ、ということなのであります。 その意味で、私達は、もう既に、キリストを通して、神の御支配の中に入れられている。私達を支配するものは、神だけなのであります。罪も汚れも、死も苦しみも、私達を支配することはない。何者をも、神の愛から私達を引き離すことはないのであります。御言葉に聴き、キリストのもとに留まる、その所で、私達は、もう既に、神様の国、神様の支配を知り、その只中に入れられているのであります。
 それでは、神様の御支配とは、どのような支配なのでしょうか。改めて12節をお読みします。「それは、『彼らが見るには見るが、認めず、聞くには聞くが、理解できず、こうして、立ち帰って赦されることがない』ようになるためである」。
 神様の御支配とは何でしょうか。神様の国とは、どういう国なのでしょうか。それは、「赦しの支配」「赦しの国」なのであります。主イエス・キリストを通して実現した神の国とは、神様の赦しに満ちた国なのであります。主イエス・キリストを通して実現した神の支配とは、神様の赦しに溢れた支配なのであります。キリストの御言葉に聴き、キリストの元に留まる時、そこで、私達は、神様の赦しを知ることができる。神様に赦されている恵みの支配の中に生きることができるのであります。
 主イエス・キリストは、私達の罪を背負い、十字架に架かり、復活されました。そのことによって、私達の罪が赦され、永遠の命が約束されています。そのキリストの御言葉に聴き、キリストの元に留まり、キリストと結ばれていく時、私達は、神様の赦しに支配されて生きることができるのであります。いや、それだけではありません。神様に赦される恵みを「永遠」に味わうことができるのであります。
 主イエス・キリストは何のために譬え話を語るのでしょうか。あるいは、主イエス・キリストは、何のために御言葉を語られるのでしょうか。それは、ここに生きるあなたが、キリストのもとに留まり、キリストを通して、神様の赦しの支配の中に生きるためなのであります。赦されていることを知ってもらうためなのであります。今も、主イエス・キリストは、生きて、御言葉を語られます。ただ、御言葉を聞いて終わるのではなく、キリストのもとに留まり、それによって、赦されている恵みを深く味わいつつ、信仰の道へと至ることができるように祈りを合わせたいものであります。そして、既に、神の国の支配にある者も、改めて、御言葉に聴き、赦されていることの幸いを深く味わいつつ、キリストを見上げて、感謝と喜びとをもって、新たに歩み出したいと思います。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 07:43| 日記

2019年10月15日

2019年10月20日 礼拝予告

〇教会学校 9時15分〜
主題:「ソロモンの知恵」
聖書:列王記上3章4節〜14節
※礼拝後、楽しく手話を学びます。

〇主日礼拝 10時30分〜 
主題:「神の国の秘密を打ち明ける」須賀 工牧師
聖書:マルコによる福音書4章10節〜12節
※礼拝後、五分の集い、信仰の学びがあります。

皆様のお越しを心よりお待ち申し上げます。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 08:46| 日記

2019年10月13日 主日礼拝説教「無視への刑罰」山北宣久牧師

聖書:ルカによる福音書16章19節〜31節

 ルカ福音書だけに記されているこの聖書の箇所は、日本基督教団の本日の聖書日課である。この譬え話は三幕ものから成る。〈第一幕〉19節〜21節金持ちと貧しい人の情景。〈第二幕〉舞台が一転して死後の世界が22節〜26節に描かれる。〈第三幕〉この世とかの世、彼岸と此岸をつなぐものが27節以降に描きつつ終幕としている。
 ここで金持ちと貧しい者とは同じ場所にいながら全く接点が見られない。しかし唯一共通していることがある。それは「死」。この死という厳粛な事実、そして神の前に立たされる日が必ず来るということが、人生の問題として浮かび上がる。
 この金持ちは何を間違えたのか。それは唯一のラザロに対して何の関心も示さなかった一事である。全く無視したことが刑罰を身に招いた。愛の反対語は無視、無関心!人は何をしたかで審かれるのみならず、何もしなかったということが審きの対象となることを弁えておかねばならない。なす罪と共に為さざる罪というものがあるのだ。
 ここで金持ちとラザロの間に様々な対称コントラストが見られる。それは金持ちの饒舌とラザロの沈黙である。この金持ちの多弁の中でも一つ心に触れるものがある。それは27節。自分の救いは諦めた。せめて兄弟たちは救って欲しいと申し出た事である。しかし、神の言を聞かぬ者は、奇跡を前にしても信じない、と厳しい拒絶に見舞われる。「溺れる者はワラをもつかむ」のも人間だが「喉元すぎれば熱さを忘れる」のも人間だ。
 ここで金持には名がついてないのに対し、貧しい者には「ラザロ」という固有名詞がついている。これは異例のことだ。ラザロという名前が一つのメッセージだ。エレアザルというヘブル語の短縮形がラザロである。そしてこのエレアザルは7名聖書中に出てくるが、イエスの系図の中にも登場する〈マタイ1章15節〉エレアザル、これは「神は助け給う」という意味だが、この証人としてラザロは登場する。
 そして惨め極まりない貧者ラザロより憐れな人がいる。それが主イエス・キリストである。人に仕え切った報いとしてあなどられ、捨てられ、十字架にて殺された主イエス。しかし、神憶え給う。神は十字架の主を助け、人間の初穂として復活させた。見るがよい、見るがよい、貧しきラザロの中にいるキリストを!
 世界と人間を憶え、助け、死から永遠のいのちへと導かれる主イエスの父なる神にあって無視を超え、関心を世界と人間に向けているのが私達だ。かくして、神の愛にあって、人が生きる人生、人を生かす人生へと歩み、いかされ、死から永遠のいのちへの道を共々辿り行こうではないか。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 08:43| 日記