2020年03月02日

3月の集会中止のお知らせ

3月中の聖書に親しみ祈る会は、新型コロナウイルスの影響を受けて休会とさせていただきます。

また、礼拝後の行事も共に休会とさせていたきます。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 15:50| 日記

2020年3月8日 礼拝予告

〇教会学校 9時15分〜
主題:ヨナ@
聖書:ヨナ書2章1節〜11節
※3月の礼拝後の行事は休止します。

〇主日礼拝 10時30分〜
主題:「主にある平安」須賀 工牧師
聖書:マルコによる福音書6章45節〜52節
※3月の礼拝後の行事は休止します。

礼拝は、通常通りに行います。皆様のお越しを心よりお待ち申し上げます。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 15:46| 日記

2020年3月1日 主日礼拝説教「五千人の給食」須賀 工牧師

聖書:マルコによる福音書6章30節〜44節

 今朝、私達に与えられた御言葉は、マルコによる福音書6章30節から44節の御言葉であります。
 30節から32節まで、改めてお読みします。「さて、使徒たちはイエスのところに集まって来て、自分たちが行ったことや教えたことを残らず報告した。イエスは、『さあ、あなたがただけで人里離れた所へ行って、しばらく休むがよい』と言われた。出入りする人が多くて、食事をする暇もなかったからである。そこで、一同は舟に乗って、自分たちだけで人里離れた所へ行った」。
 ここで「使徒たち」という言葉が使われています。これは「遣わされたもの」という意味です。そして、ここでは、十二人の弟子たちを指しています。主イエス・キリストによって、遣わされた弟子たちのことであります。
 この弟子たちが、伝道の務めから帰ってきました。そして、聖書によれば、「自分たちの行ったことや教えたことを残らず報告した」のだと記されています。
 ここで大事なことは、弟子たちが「自分たちの行ったこと」や「自分たちの教えたこと」を、「残らず報告した」ということです。即ち、「自分の力でしたこと」「自分の言葉で教えたことを報告した」ということであります。
 更に、ここでは、敢えて「残らず報告した」と記されています。恐らく、伝道の成果や実り、あるいは、驚きや感動が、そこにあったのかもしれません。「自分は、これだけのことをやりました。だから、こんな成果が実りました」「自分は、これだけのことを教えました。だから、こんなに良い結果が生まれました」。
 恐らく、弟子たちは、このように、「自分の行ったことや教えたこと」だけではなくて、その良い結果や実りを、余すところなく、報告したのだろうと思います。実際に、6章13節を見ますと、弟子たちの働きが十分になされていたことが報告されているのであります。
 このような弟子たちに対して、主イエス・キリストは、「しばらく休みなさい」と仰せになりました。その理由は、「食事をする暇もなかったから」だと言われています。それでは、主イエス・キリストは、まず、彼らの肉体の疲れを癒すようにと命じられたのでしょうか。
 実は、それは違うのであります。主イエス・キリストは、まず、「人里離れた所へ行って、しばらく休みなさい」と仰せになりました。マルコによる福音書において、「人里離れた所」とは、「特別な意味」を持っています。それは、「祈りの場所」のことです。
 つまり、主イエス・キリストは、何よりもまず、祈りを捧げ、その所で、あなたの心の飢え乾きを満たしなさいと、仰せになっているのであります。
 ご飯を食べて、ゆっくり体を休めることが、一番ではないのです。まず何よりも大切なことは、心の中に糧を頂くこと、霊的な恵みを頂くこと。そこにこそ、あなたがたにとっての真の平安があるのだ、ということであります。何よりもまず、祈りを通して、神様との交わりへと入れられ、そこで心の疲れや心の飢え乾きを満たしなさい。それが、あなたがたにとって、一番の平安なのだ、ということを、ここで教えているのであります。
 しかし、ここではもう一つ大切なことがあります。それは何でしょうか。決して難しいことではありません。それは、祈りを通して、神様に立ち帰りなさい、悔い改めなさいということなのであります。
 弟子たちにとって、この伝道の務めは、この奉仕の働きは、「自分が行ったこと」「自分が教えたこと」「自分が出した成果」「自分が出した結果」なのであります。つまり、今、弟子たちは、自分たちの力や働きに酔いしているのであります。
 その弟子たちに対して、まずは祈って欲しい。祈りを通して、神様に立ち帰って欲しいと願うのであります。本当に、そこで、御業を成し遂げ、御言葉を語り続けたのは、誰であったのか。あなたがたの働きの背後には、何が働き、何が実りをもたらしているのか。主イエス・キリストは、祈りへと導くことを通して、弟子たちを、神様の下へと連れ戻そうとしているのであります。
 しかし、そこで一つの問題が生まれます。即ち、この祈りの時が妨げられてしまうのです。祈らなければいけない大切な時間が、人々によって奪われてしまうのであります。
 しかし、聖書は、この弟子たちの出来事と五千人の給食の出来事を、同じ文脈の中に位置づけているのであります。つまり、この二つの話は、全く別の話をしているのではなく、一つの大切なメッセージとして語られていることになるのであります。そのことを踏まえた上で、このパンと魚の奇跡物語を読まなければいけないのであります。
 33節から36節の御言葉をお読みします。「ところが、多くの人々は彼らが出かけて行くのを見て、それと気づき、すべての町からそこへ一斉に駆けつけ、彼らより先に着いた。イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた。そのうち、時もだいぶたったので、弟子たちがイエスのそばに来て言った。『ここは人里離れた所で、時間もだいぶたちました。人々を解散させてください。そうすれば、自分で周りの里や村へ、何か食べる物を買いに行くでしょう』」。
 多くの人々が、主イエス・キリストを、切実に求めます。彼らが、具体的に、何を求めていたのかはここでは分かりません。
 しかし、主イエス・キリストは、彼らが、何を必要としているのか。あるいは、彼らに何が必要なのかは知っているのであります。
 それは「飼い主」です。旧約聖書では、「飼い主」とは、「神様」のことであります。ここにいる人々が、具体的に、何を求めているかは分かりません。しかし、主イエス・キリストは、彼らには、依るべき神様がいない。そのことを知っているのであります。支えとなる神様がない。そのことを見抜いているのであります。主イエス・キリストは、そこにこそ、一人一人の本当の苦しみや痛みがあることを見抜かれるのであります。体が痛いとか、経済的に貧しいとか、そういう苦しみもあります。しかし、主イエス・キリストは、そのような具体的な痛みの背後にある、神様を見失ってしまうことの苦しみの方に目を向けられるのであります。
 そして、神様を見失っていくことの苦しみを、御自身の苦しみとして受け止めてくださるのであります。肉体の痛みとか経済的な貧しさとか、そのような苦しみではなくて、神様が見出せない苦しみ、神様に見放されていく苦しみを、主御自身の苦しみとして、受け止めてくださる。言い方を変えるならば、目に見えない所にある、正に、霊的な飢えと渇きを、御自身の飢え乾きとして受け止め、憐れんでくださる。
 そして、そこで御言葉をもって、彼らを癒し、心の中にある飢えと渇きを満たしてくださるのであります。
 大事なことは、主イエス・キリスト御自身が、人間の救いのために、何を優先しているのか、ということであります。
 先ほども申し上げましたが、主イエス・キリストは、祈りを優先するのであります。本当の癒しとは、本当の平安とは、目に見えるものが満たされることではない。神様と共に生きられること、神様との交わりの中に生かされている、ということであります。そこに本当の癒しと解放と救いがある。目に見えるものが満たされることではなく、神様と共に生きられること、神様との交わりの中に入れられていること。ここに本当の憩いがある。その恵みと幸いとを、主イエス・キリストは、ここで、多くの人々に御言葉を語ることによって実現してくださっている。そして、弟子たちには、その恵みを繰り返し、指し示してくださっているのであります。
 この主イエス・キリストの御姿に対して、弟子たちは、どうでしょうか。彼らは、地上的な、人間的な、あるいは肉的な部分を心配するのです。「長い時間が経ってしまった」、「彼らは空腹になるかもしれない」、「解散させて、食事に行かせてあげて欲しい」。群衆が「空腹だ」とは、一言も言っていないのであります。彼らが、勝手に、群衆を空腹にしてはいけないのだと心配しているのであります。弟子たちは、あくまでも目に見える部分を心配するのです。肉的な部分を心配するのです。
 なぜでしょうか。人から誉められることを望んでいるからであります。人間の要望に応えることで、人に喜ばれるから。自分が行うこと、自分が人にしてあげたことで、確かな成果を得られるからであります。彼らはまだ、自分たちの成果に酔いしれているのであります。
 その弟子たちに対して、主イエス・キリストは、何を仰せになったのでしょうか。37節をお読みします。「これに対してイエスは、『あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい』とお答えになった。弟子たちは、『わたしたちが二百デナリオンものパンを買って来て、みんなに食べさせるのですか』と言った」。
 主イエス・キリストは、「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」と仰せになった。それに対して、弟子たちはどう感じたでしょうか。自分たちにはできないと感じたのであります。自分たちには、十分なお金がないと感じたのであります。無理だと感じたのであります。
 そもそも、なぜ、主イエス・キリストは、「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」と仰せになられたのでしょうか。主イエス・キリストもまた、彼らには出来ないことを分かっていただろうと思います。五千人、いや、女性や子どもも入れれば、もっと沢山の人々を満たすことなど、彼らには出来ない。そのことを、主御自身が分かっていただろうと思うのです。それでも、なぜ、そう言ったのだろうか。
 それは、何よりも先ず、彼らが彼らの無力さを知るためであります。「自分は、これだけのことを行なった」、「自分はこれだけのことを教えた」、「自分がこれだけやったから、こんな成果が生まれた」。弟子たちは、自分たちの力に酔いしれています。自分の行いを誇っています。人からの評価を優先します。
 しかし、本当に、それが正しいのか。本当に、あなたが成果を生んだのか。本当に、あなたの働きだったのか。今のあなた方自身を見て欲しい。今のあなたがたの現実を見直して欲しい。何も出来ないではないか。無力ではないか。そのことを気づかせるために、主イエス・キリストは、この御言葉を語られるのであります。
 しかし、それはただ、弟子たちの心を挫くためではありません。その後、主イエス・キリストは、続けて、こう仰せになるのです。38節から44節をお読みまします。「イエスは言われた。『パンは幾つあるのか。見て来なさい。』弟子たちは確かめて来て、言った。『五つあります。それに魚が二匹です。』そこで、イエスは弟子たちに、皆を組に分けて、青草の上に座らせるようにお命じになった。人々は、百人、五十人ずつまとまって腰を下ろした。イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて、弟子たちに渡しては配らせ、二匹の魚も皆に分配された。すべての人が食べて満腹した。そして、パンの屑と魚の残りを集めると、十二の籠にいっぱいになった。パンを食べた人は男が五千人であった」。
 主イエス・キリストは、弟子たちにこう仰せになのです。「あなたがたの持っているものを持って来なさい」と。大事なことは、「出来ない」で終わらないことです。「十分にない」「不足している」で終わらないことです。自分が今、持っているものを、何よりもまず、主の御前に持って来る、ということなのであります。
 弟子たちが持っていたものは何でしょうか。五つのパンと二匹の魚です。言い方が悪いかも知れませんが、人の目から見るならば、何の解決にもならないものです。人の目から見るならば、何も役に立たない、意味をなさない、不足したものであります。
 私達が、主の御業のために出来ることは、同じことかもしれません。それは、人の目からみれば不足に満ち、意味をなさないものなのかもしれません。
 しかし、大切なことは、今、あなたが持っている全てを、主の前に持って来る、ということなのであります。自分が何かを行うのではないのです。自分には何もないのです。自分には取るに足りないものしかないのです。しかし、主イエス・キリストが、それを祝福してくださる。それを用いてくださる。主がそこで働いてくださる。だからこそ、何かが起こるのであります。弟子たちの持ち物は、取るに足りない物でありました。しかし、主が祝福し、主が用いてくださる、そのところで、人間の思いを越えた、有り余るほどの恵みが実現するのであります。
 そして、そこで、弟子たちは、明確に知ることができます。「自分は何もしてなかった」と。でも、全ては「神様がしてくださったのだ」と。
 足りない、出来ない、自分の力で出来る範囲のことをすれば良い。そう考える必要ないのであります。まずは、自分たちが持っているものを、主に用いて頂くのだ、という信仰が大切なのであります。それが、どれだけ取るに足らないものであったとしても、それが、人の目には無理だと思われるものであったとしても、あなたが捧げるその心や賜物を主が祝福し、主が用い、主が働いてくださる。私達ではなく、主がそれをしてくださる。その時、私達は、そこで、私達の思いを越えるほどの真の奇跡を見るものとされるのであります。
 大事なことは、自分の行いに目を向けることではなく、神様がしてくださることに期待を抱くことなのであります。取るに足りない、この私をも、この私のもっている賜物を祝福し、主は用いてくださる。その幸いを改めて深く思い起こしつつ、祈りに生きる日々を歩み出したいと思います。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 15:42| 日記