2020年08月02日

2020年8月2日 主日礼拝説教「わたしたちの味方」須賀 工牧師

聖書:マルコによる福音書9章38節〜41節

 今朝、私達に与えられた御言葉は、マルコによる福音書9章38節から41節の御言葉であります。38節の御言葉をお読みします。「ヨハネがイエスに言った。『先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちに従わないので、やめさせようとしました。』」
 「ヨハネ」という弟子が、出てきます。ヨハネには、あだ名が、ありました。それは、「ボアネルゲス」というあだ名です。これは、「雷の子」という意味であります。
 「雷の子」というあだ名には、二つの意味があります。一つは、「熱心な人」「真剣な人」という意味です。もう一つは、「怒りっぽい人」「怒りの人」という意味です。
 恐らく、ヨハネは、熱心な弟子であったのだろうと思います。その一方で、熱心さ故の、「厳しい人」であり、真剣さ故の「怒りっぽく気性の荒い人」だったのかもしれません。 さて、このヨハネが、次のように言っています。「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者をみましたが、わたしたちに従わないので、やめさせようとしました」と。
 ここで、ヨハネが、問題にしていることに、注意しなければいけません。ここで問題になっていることは、「主イエス・キリストの名を利用して、悪霊を追い出している人がいる」ということではありません。
 ここで問題になっていることは、「私達に従わない」ということなのです。つまり、ヨハネは、ただ単純に、悪霊を追い出している人を否定しているわけではないのです。主イエス・キリストの名を利用しているにもかかわらず、「自分たちに従わない」。だから、その働きを辞めさせようとしたのであります。
 主イエス・キリストの名を、利用されたことによる、具体的な損失や被害が、生じていたわけではありません。迷惑を被っているわけではありません。ただ、仲間ではない。ただ仲間にはならない。それが、悪霊追放を辞めさせようとした理由なのです。
 そもそも、「名を使う」とは、どういう意味でしょうか。これは、「主イエス・キリストの権威や力を用いる」という意味です。つまり、ヨハネは、主イエス・キリストの権威を用いる特権は、その弟子だけに与えられたものなのだ、と考えていたことになるわけです。この世の価値観から言えば、その通りであると言えるかもしれません。私は、このような社会的常識を否定するつもりはありません
 しかし、より深く、ヨハネの心を覗いて見るとどうでしょうか。ヨハネの心の中にある思いとは、主イエス・キリストに従っている、その自分が、「正しい」のだ、ということであります。あるいは、その自分が「特別」なのだ、という思いなのであります。そのような思いに、心が支配されていたのではないでしょうか。だから、ヨハネは、自分とは、違う存在、自分の仲間になれない人間に、一線を引き、彼らを受け入れることが出来なかった、ということになるのです。
 この問題は、ヨハネが、忠実に、熱心に、真剣に、主イエス・キリストの弟子として、仕えてきたからこそ、起こり得る問題なのであります。
 ヨハネは、とても、熱心な弟子です。ヨハネは、とても真剣に、主に仕えた弟子です。しかし、その一生懸命な彼の情熱が、彼を「怒りの人」に変え、自分の正しさに固執する人に変え、彼の心を狭くし、敵を作り出す人にしてしまった。熱心である故に、他人を見つめる目が、厳しく、狭くしてしまった。自分の意見に同意できない人を批判し、排除し、本来、敵意のない人を、敵と見なしてしまった。熱心さ故の、落とし穴が、ここにあるのです。そのことを、私達は、聖書を通して、改めて教えられているのであります。
 このヨハネの問題は、私達自身にも関係があります。主イエス・キリストに結ばれている、この自分が正しい、特別だと思うことがあるかもしれません。正しい教えを知っている、この自分が正しいと思ってしまうことがあります。
 私達は、本来、何も正しくはありません。特別な存在でもありません。主イエス・キリストが、唯一、正しい御方であり、神様だけが、唯一特別な存在です。私達は、その主に結ばれることによって、初めて、神様の目に正しく、特別な存在へと導かれているのであります。だから、厳密に言うならば、私達は、何も正しくない。何も特別ではないのです。主イエス・キリストだけが、神様だけが、真に正しく、特別なのです。私達は、その存在に連ねて頂いているだけなのであります。
 しかし、いつの間にか、正しい御方に結ばれている、この自分が正しくなってしまう。自分が特別になってしまう。そして、自分の正しさに支配されて生きる時、本来、味方となれたはずの存在を、敵に回してしまう。本来ならば、対話が出来るはずの人々と関係を断ち切ってしまう。これは、全てのキリスト者が、いつでも、陥ることのある、大きな問題なのであります。
 もし、「この私は、ヨハネのような過ちを犯すことはない」「ヨハネと私は、違うのだ」と考える人がいるならば、なお要注意です。なぜなら、ヨハネもまた、「私と彼らは違うのだ」と線引きをしていたからです。つまり、「この私は、このヨハネとは違うのだ」と考えることを通して、実は、ヨハネと同じ事をしてしまっているということになってしまうのであります。
 ここで大事なことは、この私も、あのヨハネも、同じ過ちを犯し得るのだ、ということを、素直に認めることなのです。何が言いたいのでしょうか。要するに、お互いに違うことを受け止めていきながら、同じ部分を見つけ出す、ということなのです。立場は違います。意見は違います。歩んでいる道も違います。しかし、ここは同じだ、という部分が、一つでも見つかる時、その人が、自分の味方に変わるのであります。今朝の御言葉で、大切なことは、この部分なのです。
 ヨハネに対して、主イエス・キリストは、次のように語っています。39節から41節の御言葉をお読みします。「イエスは言われた。『やめさせてはならない。わたしの名を使って奇跡を行い、そのすぐ後で、わたしの悪口は言えまい。わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである。はっきり言っておく。キリストの弟子だという理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける。」
 主イエス・キリストは、ここで、何を言おうとしているのでしょうか。それは、敵を作り出す生き方よりも、味方を見出す生き方を学びなさい、ということなのです。
 立場は、違うかもしれません。意見も違うかもしれません。歩んでいる道も違うかもしれません。しかし、彼らは、悪口はいわない。逆らうこともない。むしろ、自分たちを認めてくれている。自分たちを理解してくれる。同じ部分もある。そのことを、素直に喜ぶ。その人を味方として受け止める。それで良いのだ、ということなのであります。
 そして、ここには、もう一つ、深い慰めも示されていないでしょうか。主の弟子であるということは、必ずしも、この世に愛されることではありません。憎まれることがあります。理解されないこともあります。批判を受けることもあります。
 しかし、そのような悲惨な現実の中にあっても、私達を、受け止め、理解し、認め、支えてくれる存在が、神様によって、私達の近くに、備えられている、ということでもあるのです。立場に違いがあっても、あなたの味方となれる存在が、与えられている、ということなのであります。大切なことは、その人を味方として見つめる目や心が、この私自身にあるかどうかなのです。
 その存在は、もしかすると、たった一杯の水しかくれないかもしれない。あるいは、教会に車で送ってくれるだけの存在かもしれない。教会へと快く送り出してくれるだけかもしれない。
 しかし、たとえ、教会には来なくても、信仰をもたなくても、様々な仕方で、私達の信仰生活を受け止めてくれる存在が、私達の近くには備えられている。
 だからこそ、自分の仲間にならないことを悲観的に受け止める必要はないのです。むしろ、喜びをもって、感謝をもって、そのような人々を味方として喜んで受け止めていく。そのような豊かな心を、持つ。そのことが、まず大切なのであります。
 そして、何よりも、神様御自身が、主イエス・キリスト御自身が、そのような存在をも、その一人一人をも、報いてくださり、救い、導くことを望んでいて下さるのであります。その存在もまた、神様の救いの光の中へと招かれているのであります。
 立場は違います。意見が違います。道が違います。しかし、違うところを見つけて、敵に回したり、一線を引いたりすることよりも、違いを受け止めた上で、同じ部分、共有できるところを、共に見出し、共に喜ぶ。そのような歩みが、出来るならば、正に、幸いなことなのであります。
 そして、ここで何よりも、忘れてはいけないことがあります。それは、何よりも先ず、主イエス・キリスト御自身が、私達の味方でいてくださる、ということです。
 もし、主イエス・キリストが、ヨハネのように、厳しく、狭い見方をされる方であるとするならば、自分と違う存在を敵と見なす御方であるとするならば、自分に従えない人を排除する存在であるとするならば、私達は、こうして、主の弟子として、新たに生きることはなかったでありましょう。自分中心で、心が弱く、神様の御心から離れて生きるような私達ですら、神様は、御子を通して、その敵意を滅ぼし、和解をしてくださり、私達の味方でいてくださったのであります。何よりも、私達自身が、神様の味方とされていることを喜びたいのです。そして、その深い喜びの中でこそ、他者と共に生き、他者の救いを願う。そのような心が、育まれていくのかもしれません。
 自分の信仰や生き方に、賛同してほしいから、その人の救いを願うのは、本当に、その人の救いを願っていることにはなりません。それは、結局は、自分の正しさへと人を引き寄せようとしているだけに過ぎないのです。
 この自分自身が、主の憐れみによって、神様の味方とされている。神様が味方でいてくださっている。その深い喜びがあってこそ、本当の意味で、他者と共に生きることができる。そして、その他者もまた、神様の救いの光へと招かれていることを知ることができる。その人の救いを、そこで本当に、祈り願う心が、育てられる。私達の味方になって下さる、主の憐れみに支えられながら、それぞれの場へと、改めて遣わされて行くものでありたいと思います。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 09:12| 日記

2020年07月26日

2020年8月2日 礼拝予告

〇教会学校 8月23日まで休会です。

〇主日礼拝 10時30分〜
説教:「わたしたちの味方」須賀 工牧師
聖書:マルコによる福音書9章38節〜41節

感染予防対策を徹底して、礼拝を行っています。皆様のお越しを心よりお待ち申し上げます。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 08:53| 日記

2020年7月26日 主日礼拝説教「聖なる主イエスの声」須賀 舞伝道師

聖書:ヨハネによる福音書3章31節〜36節

 本日、私たちに与えらえた御言葉は、ヨハネによる福音書3:31-36であります。単刀直入に申し上げますと、今日の御言葉は非常に難解で、分かりづらい箇所でありましょう。31-36節は鍵括弧でくくられています。ですから、これは誰かの語った言葉であります。しかし、前後の文脈を見ても、それが誰か、はっきりとは分かりません。それもまた一つ、本日の御言葉が難しい理由でありましょう。
 実は、私たちが読みました新共同訳聖書の前の翻訳版である、口語訳聖書は、本日の箇所を洗礼者ヨハネの言葉として翻訳しています。それは、口語訳聖書を読むと明らかです。3:27にある「ヨハネは答えて言った。」に続く鍵括弧が30節では終わらず、36節まで続いているからです。仮に、これを一つのヨハネの言葉として読むならば、31節の「上から来られる方」と「地から出る者」という対比は、主イエスとヨハネについて言っていることになります。当然「上から来られる方」が主イエスで、「地から出る者」とはヨハネです。
 これまで、洗礼者ヨハネは自分を、主イエスが現れる前に遣わされてその道備えをする者であると語り、また、花婿である主イエスの介添え人であると語ってきました。ヨハネは、自分と主イエスの間には、大きな違いがあることを繰り返し強調して語ってきたのです。それが本日の御言葉では「天」と「地」という決定的な言葉をもって言い表されていくのです。
 「カエルの子はカエル」ということわざがあります。その意味を辞書でひきますと「子の性質や能力は親に似るものだというたとえ。」とありました。あまり良い意味では使わないことわざかもしれませんが、これを読み解くヒントとしてみるなら、少し御言葉の意味が見えてくるように思います。31節には「から」という言葉が出てきます。「天から来られる」「地から出る」の「から」です。それは、「天」や「地」から出てくるということが、存在の本質を規定することを意味しています。天を神、地を人間と置き換えて「カエルの子はカエル」のように読んでみると分かりやすいかもしれません。神の子の本質は神であり、人間の子の本質は人間です。またこれは言い換えるなら、「カエルの子はカエル」であって「カエルの子が金魚」にはならないということです。つまり、「天」と「地」の間には決定的な違いがあり、決して交わることはないということが、ここでは強く示されているのです。
 また、32節を読みますと、本日の御言葉が語るのは、本質のことだけではないことがわかります。そこには「見たこと」「聞いたこと」という言葉が出てきます。つまり、天から来た方と地から出る者の間には、内面的な本質だけでなく、外面的な行いや言葉などにも決定的な違いがあるということがここでは語られていくのです。
 ヨハネは「自分は地から出た者であり、地に属している者として語っている」と言います。そこには、地に属する者の言葉は、どんな言葉で語り尽くそうとも、最終的には人間の言葉に過ぎないのだ、という強いメッセージが含まれています。一方で、主イエスは、天から来られた方であり、すべてのものの上におられる方として語っておられるのです。従って、32節の「この方は、見たこと、聞いたことを証しされる」とは、主イエスご自身が、天において見聞きしたことを、決して交わることのないこの地にやってこられて、地にあって天の事柄をお語りになってくださったということを意味しているのです。
 ところで、本日の御言葉の35節を読みますと、「御父は御子を愛して」とあります。父なる神様は独り子である主イエスを心から愛しておられる。そして、その帰結として神様は、全てをイエス様に委ねられました。続く36節には「御子を信じる人は永遠の命を得ているが御子に従わない者は、命にあずかることがないばかりか、神の怒りがその上にとどまる」とあります。これは、終わりの時の、「御子に従わない者」に対する裁き言葉です。排他的できつい言葉のようにも聞こえます。しかし、そもそもこの「御子に従わない者」とは、この御子による救いを信じない者であります。信じないということは、御子の十字架の救いを否定し、それを受け入れないということです。神様による救いの恵みは既に私たちの目の前に示されています。しかし、人はそれを否定し、その恵みに与ろうとしないのです。つまり、ここで私たちは、信じるか信じないかは、永遠の命に与るか、神の怒りの内に滅びるかは、人間側の問題であるということに気づかされるのです。
 また、加えて申し上げるなら、永遠の命に至る救いにあずかるには、「御子を信じることだけで」よいのです。私たちが清く正しい人間になるとか、善い行いを積むことによってではなくて、私たちのために十字架にかかって死んで下さり、復活して下さった御子イエス・キリストを信じるだけで、永遠の命の約束が与えられるのです。
 神様は、今ここで私たちに主体的な信仰の決断を求めておられます。「さあ、あなたも信じなさい」とすすめておられるのです。私たち人間は、神様を私の主とせず、崇めようとせず、従おうともせず、むしろ神様に敵対するような罪人です。もし、神様がお怒りになって、「もうお前たちのことなど知らん」とおっしゃったら、神様の怒りによって私たちは滅びるしかないのです。しかし、神様はそのような私たちをなお愛して下さり、救いたいと強く願っておられるのです。そして、神様は、その愛する独り子を私たちの救いのためにこの世に遣わして下さり、私たちの救いのための御業を「全て」、御子イエスに委ねられたのです。
 主イエス・キリストは、私たちと同じ人間として、私たちと同じようにこの世を生きて下さいました。そして私たちの罪を全て引き受け、背負って、十字架の上で痛みと苦しみを全て味わい尽くしてくださって死なれた。十字架の死は、本来ならば私たちが受けるべき死でした。神様の怒りによる滅びを、御子イエス・キリストが身代わりとなって引き受けて下さったということです。御子の十字架を通して私たちは罪赦され、神様の怒りによる滅びから救われるのです。
 そして神様はさらに、十字架にかかって死んだ御子主イエスを、三日目に復活させて下さいました。主イエスの御復活は、神様が死の力に勝利し、主イエスをもはや死ぬことのない、永遠の命を生きる者にして下さったという救いの出来事です。そのことを通して私たちは、肉体の死によって滅ぼされない永遠の命を神様が与えて下さるという希望に生きることができるのです。
 神様は御子イエス・キリストの十字架の死と復活によって、私たちが罪を赦されて神の子とされるための、そして御子と一緒に永遠の命を得るための道を開いてくださいました。私たちは御子イエス・キリストを信じることによってこそ、その道を歩むことができます。これこそが、主イエスが私たちに証された福音の御言葉であるのです。
 しかし、32節後半では「だれもその証しを受け入れない」と語られています。とある注解書には、主が天において見聞きした証しとは「天からのこととして地上のことを超越する事柄、地上の人々が一度たりとも考えたことがない全く異質な事柄である」という説明がありました。事実、神様の独り子であるイエス・キリストが世に来られ、神様の業を行い、神様の言葉を語られても、それはあまりに決定的に異なる事柄である故に、人々はイエス様による神様の証し言葉の意味がわからなかった、理解しようとすらしなかった。
 しかし本日の箇所は、その証しをだれも受け入れない、と語る一方で、いささか矛盾するようなことも語っているのです。それは、主イエスの証しを受け入れる者についてです。思わず「だれもいない」と言ってしまうほど、主イエスの証しを聞いても受け入れない人ばかりであった。しかし、そのような現実の中でも、確かにここに主イエスを受け入れ信じる者がいる!ヨハネは、人の力によってではなく、決定的な神様ご自身のお働きよって信じる人たちが生み出されていく様を、じっと見つめているのです。今ここに、人間の言葉ではなく、神ご自身が主イエスを通してお語りになる神の言葉によって、救いにあずかる人が興されている!そう喜んでいるのです。
 33節「その証しを受け入れる者は、神が真実であることを確認したことになる。」「証しを受け入れる者」とは、直前の主イエスの言葉を借りて説明するならば、「光の方に来る」者(3:21)であり、本日の箇所の最後に出てくるように「子を信じる者(3:36)」のことであります。33節では、そのような人々は、「神が真実であることを確認した」と言うのです。これはどのような意味でしょう。
 「確認する」という言葉は、少し特殊な言葉です。ギリシャ語の元々の言葉を調べてみますと「封印する」という言葉でありました。それは、印を押すという行為によって、何かを確認する、ある事柄を証明する、これだと保証するという意味です。日本は印鑑文化の国でもあります。役所で印鑑登録された印は貴重品でありますし、重要な書類を書く時、その書いた内容を保証する、その内容が間違いありませんと証明するために多くの場合自分のハンコを押します。また、荷物が届いたりすると、受領しましたと証明するために認印を押したりもします。主イエスの証しを受け入れ、主を信じる人は、神様が真実であるという事柄を認め確認し、それが揺るぎない事柄であると証明しましたよ、とハンコを押した人々であるのです。
 冒頭で、本日の箇所は口語訳聖書によると洗礼者ヨハネの言葉であると申し上げました。そこから、主イエスとヨハネの対比としてこの箇所の解き明かしをしてまいりました。しかし、実はこの箇所は違う読み方もできるのです。新しく出た「聖書協会共同訳」は、新共同訳と同じように30節の終りに括弧閉じを置いていますが、31節の冒頭には括弧がありません。聖書の原文を読みますと、実は原文にも括弧はありません。つまりこの箇所は、ヨハネの言葉ではなくて、この福音書を書いた人の言葉であるとも解釈できるのです。それはイコール、ヨハネによる福音書が書かれ、この福音書が読まれた教会の信仰でもあります。本日の箇所の全体は教会の言葉として読むことができるし、むしろそのように読まれるべきでもあるのです。また、それは私たち石山教会に与えられた御言葉でもあります。私たち石山教会の信仰とは何であるかを言い表す言葉としてここを読む時、そこには何が見えて来るのでしょうか。
 「地から出る者は地に属し、地に属する者として語る(3:31)。」それは私たちの石山教会のことです。私たちは地上を生きており、人間の言葉を語っています。しかし、私たち教会は、主イエスの証しを受け入れ信じる群れであります。主の救いの恵みと永遠の命の希望に喜ぶ群れであります。そして私たち石山教会には、私たちが受けたものを他の人にも証ししていく使命があります。それは、「御子に従わない者は、命にあずかることがないばかりか、神の怒りがその上にとどまる(3:36)」という歩みをしている世の人々に、「神はその独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである(3:16)」という福音を証しするという使命です。
 ただし、私たちは地に属する者ですから、限られた人間の言葉で証しするしかないのです。ですから、時には「だれもその証しを受け入れない(3:32)」という現実に直面することもあるかもしれません。仮に、人の言葉で神様を証しし切れたと自負するようなことがあるなら、それは自分たち自身の証しであって神様の証しとは外れてしまっているかもしれません。しかし、自分たちの無力さを認め、世の栄光や誉にすがることをやめて、自分たちの衰えを喜ぶ時、何一つ持たないで御前に進み出る私たちに神様はご自身の霊である聖霊を、限りなく与えて下さるのです。その聖霊によって私たちは、主イエスが証ししてくださった神様の愛をこの世に証ししていくことができるのです。その時に、霊なる主イエスの言葉を受け入れ、神の愛を確認して御子を信じる人が興されていくのです。
 今、私たちは、御言葉を通して聖霊を受け新たにされました。この一週間、主が私たちをそれぞれの場所に派遣してくださり、主の御栄光を証しするために用いて下さることを、信じて、祈り求めていきたいと願います。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 08:52| 日記