2019年04月14日

2019年4月14日 主日礼拝説教「主イエスの洗礼」須賀 工牧師

聖書:マルコによる福音書1章2節〜11節

 今朝、私達に与えられた御言葉は、マルコによる福音書1章2節から11節の御言葉であります。
 私達は、この与えられた御言葉を通して、一体何を知ることが出来るのでしょうか。それは、「主イエス・キリストとは、一体、どのような存在であるか」ということです。主イエス・キリストとは、一体どのような存在であったのか。そのことに改めて思いを向け直しながら、今朝の御言葉に聴いていきたいと思います。
 マルコによる福音書は、預言者イザヤの引用から始まります。正確に申し上げるならば、出エジプト記、マラキ書、そしてイザヤ書の引用から始まります。つまり、旧約聖書の引用から、この福音書が始まるのです。これは何を意味しているのでしょうか。
 これは、主イエス・キリストの到来が、神様の計画であったということです。あるいは、主イエス・キリストの存在が、神様の約束であったということであります。
 イスラエルの歴史を振り返ると、そこには人間の罪の歴史を見ることが出来ます。旧約聖書を読むと分かりますように、そこには人類の罪の現実が、生々しく描かれています。その意味で申し上げるならば、イスラエルの歴史は、一言で言うならば、罪に罪を重ね続けた歴史です。そして、何よりも、その罪の故に、神を見失った歴史とも言えるかもしれません。
 しかし、神は、そのイスラエルを見捨てることはありません。救い主の到来を預言し、そして、主イエス・キリストを通して実現してくださるのであります。イスラエルを滅ぼすことではなく、イスラエルからはじまり、全ての世界を救い出すことを御心に留めていてくださるのであります。
 その救いの約束として、救い主の到来が約束されるのです。救い主の到来は、人間の造り出した幻想や理想ではありません。救い主の到来は、人間の罪を知りながらも、人間を見捨てることはないと決めた、神様の御意志と約束の形のある実現なのであります。そのような意味で、主イエス・キリストとは、約束された救いの実現者なのだと言えるのかもしれません。
 さて、救い主の到来の前に、洗礼者ヨハネが現れます。これもまた、預言の一つと考えて良いでありましょう。それでは、洗礼者ヨハネは、何をしたのでしょうか。
 それは、「洗礼活動」です。聖書によれば、「ユダヤの全地方とエルサレムの住民」即ち、「ユダヤ人のほとんど」が、罪を告白し、ヨハネから洗礼を受けたのだと記されています。これは、とても不思議なことです。本来、洗礼は、異邦人がユダヤ人になるための儀式です。ユダヤ人は洗礼を受ける必要はなかったのであります。言い方を変えるならば、罪を告白する必要もなかった。
 しかし、救い主の到来を知った。救い主が来ることを知った。そのところで、何が起きたのでしょうか。 罪の告白が生まれた。自分の罪を知るということが起きた。つまり、救い主の存在を知るということは、自分たちの罪が明らかにされることでもあったということなのであります。主イエス・キリストを知る。真の救い主を知る。そのところで、人間の心の中で何が起こるのか。罪を知り、罪を告白する人間が起こされていくのであります。その意味で、救い主とは、人間の罪を明らかにしていく存在。そのようにも言えるかもしれません。
 しかし、救い主は、人間に罪を知らしめるだけなのでしょうか。洗礼者ヨハネは、「水」で洗礼を授けます。しかし、主イエス・キリストは、「聖霊によって洗礼を授ける」のだと言われています。
 「洗礼」とは何でしょうか。それは、罪を清め、罪を赦し、神のものとなることです。つまり、洗礼とは、その人を罪から解放し、神と一つに結びつけることでもあります。
 主イエス・キリストは、この救いの御業を、聖霊、即ち、神様の力をもって実現するのだと語るのであります。つまり、主イエス・キリスト御自身が、神の力をもって、あなたがたを罪から解放し、神のものとしてくださる。それが、救い主の姿なのだと言うのです。私達の救いのために、神の力をもって、私達と関わってくださる。私達のうちに働いてくださる。それが、主イエス・キリストなのだということが、ここから強く指し示されているのです。私達が努力をするのではなく、主イエス・キリストが、あなたの内にやどり、神の力をもって、あなたを神の民へと造り替えてくださる。その幸いが、ここから強く指し示されているのであります。
 洗礼者ヨハネは、真の救い主の偉大さを語ります。「かがんでその方の履物のひもを解く値うちもない」と記しています。つまり、救い主を前にして、自分は奴隷以下なのだと言うのです。しかし、実際は、どうであったでしょうか。主イエス・キリストは、そのヨハネから洗礼を受けるのであります。
 洗礼者ヨハネの洗礼は、どういう意味があったのでしょうか。聖書によれば「罪の赦しを得させるための悔い改めの洗礼」です。つまり、罪人が受けるべき洗礼です。汚れに満ちた人間が受けるべき洗礼です。
 しかし、主イエス・キリストは、罪のないお方でありながら、ヨハネから洗礼を受けた。それは、何を意味しているのでしょうか。
 それは、主イエス・キリストが、罪の中に生きてくださるということです。罪を背負って生きられるということです。罪のないお方でありながら、罪の闇の中に生きてくださる。その闇の中で、光となってくださる。それが、主イエス・キリストというお方なのです。 威厳や権威を持ちながら、罪に生きる人間の只中にきくださる。何のためでしょうか。罪から解放するために。罪から救い上げるために。そのために、キリストは、罪の闇の只中にこそ、生きていてくださる。それが、私達の救い主なのであり、主イエスの洗礼から示されるメッセージなのであります。
 少し整理をします。主イエス・キリストとは、どういう存在であるか。それは、救いの成就者であり、私達の罪を明らかにし、そして、罪から救うために、罪の中に来てくださる方。これが、私達の救い主の姿であります。
 しかし、この当時、この主イエス・キリストの姿を正しく理解する人はいなかっただろうと思います。ヨハネもまた、疑問を感じていたことが、後の聖書の物語から見えてきます。つまり、誰も、主イエス・キリストを、この時、正しく見ることが出来ていない。それが、ここから示される一つのことでもあるのです。それでは、この大きな幸いは、どこで、どのような仕方で、私達に示されていくのでしょうか。そのことを踏まえた上で、もう一度、御言葉に聴いて頂けたらと思います。
 主イエス・キリストが、洗礼を受けられた時、不思議なことが起こります。「天が裂けて聖霊が降る」。そして、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が聞こえる。実は、これは、主イエスしか見えていない、聞こえていない出来事なのであります。その場にいるヨハネすら、この状況を知らないということなのであります。つまり、主イエス以外の他の人間には、ここで何が起きているのかは、分からないのです。それを言い換えるならば、ここにいる誰もが、主イエスの本当の姿に気づいていない。そういうことになるのであります。ここにいる誰もが、この主イエスが、真の救い主であることは、この時は、まだ分かっていない状態なのです。しかし、これがはっきりと分かる時がくるのです。
 「天が裂けて、霊がくだる」。これは何を意味しているのでしょうか。天と地が一つになり、神が、この地上で働くということを意味している。つまり、主イエス・キリストを通して、神は遠い存在ではなく、私達の生きるこの地上に生きて働かれるのだ。それを意味しているのです。しかし、この出来事は、誰の目にも留まらなかったのであります。
 実は、これと同じような出来事が、もう一度起こるのです。それはどこで起こるのか。主イエス・キリストが十字架に架けられた時に起きる。何が起きたか。神殿の垂れ幕が、上から下まで真っ二つに裂けるという事が起こる。神殿の垂れ幕は、神と人とを区別するためにありました。
 しかし、それが、キリストの死をもって、裂けた。神は、キリストの十字架の死をもって、この地上と一つになろうとした。言い方を変えるならば、キリストの十字架の死をもって、神は、私達と和解しようとした。それが、キリストの死をもって実現したのだということなのです。私達は、キリストの十字架の死を通して、そこで始めて、神が、この地上に生きてくださり、私達と和解しようとしてくださる。その幸いを知ることができるのであります。この時には分からなかった。しかし、キリストの十字架を前にした時、神が、この私達と和解し、一つになろうとしていることを知ることができるのであります。
 主イエスが、洗礼を受けられた時、声がします。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声がする。この声も、主イエス・キリストしか聞こえていない。誰も聞こえない。
 しかし、この声が聞こえて来る時がある。それはいつか。主イエス・キリストの十字架の死の時です。キリストの十字架の死を見つめ、一人の異邦人が言います。「本当に神の子であった」と。キリストの十字架をみつめ、そこで始めて、ここに神の救いがあることを知ることができる。それが、この箇所から強く強調されているのであります。
 救い主とは、どういう存在であるか。それは、神様の救いの約束であり、私達に罪を示す存在であり、私達を罪から解放する方であり、私達を救うために、罪の只中に生きてくださる方です。そして、神と人とを繋ぎ、神様の救いを成就する方でもあります。
 しかし、この一つ一つの救い主の姿は、誰も、最初から分からなかった。キリストを知らなかった。でも、それがはっきりと見えるところがある。それが、十字架の前なのだということです。十字架の前に立ち、十字架のキリストを見つめる時、そこで、この私のために、このあなたのために、救いを貫く神の御業を見ることができる。私達の救いを貫かれる神の意志と約束を見ることが出来る。私達の罪の現実を知ることができる。そして、そこから解放する救い主を知ることができる。全ては、あの十字架の前でこそ、私達は、神の救いの働きを見ることができる。
 私達が、本当に神様の救いを知り、自らの罪を知り、そして、罪から解き放たれていることを知るところは、どこか。それが、あの十字架の前なのです。
この受難節の時、私達は、改めて、この十字架の前に立ち、キリストの死を共に、見つめ直すものでありたいと思います。そして、その十字架の前で、自らの罪を知ると共に、その罪を背負うキリストを知り、神が救いが生きて働いていることを、改めて心に留めていくものでありたいと思います。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 08:31| 日記

2019年04月07日

2019年4月14日 礼拝予告

〇教会学校 9時15分〜
聖書:ルカによる福音書23章44節〜49節
主題:「主イエスの十字架の死」
※礼拝後、絵本の読み聞かせがあります。
※保護者の方々も、是非、共にお越しください。

〇主日礼拝 10時30分〜
聖書:マルコによる福音書1章2節〜11節
主題:「主イエスの洗礼」須賀 工 牧師

皆様のお越しを心よりお待ち申し上げます。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 08:16| 日記

2019年4月7日 主日礼拝説教「あとから来る救い主」須賀 工牧師

聖書:マルコによる福音書1章1節

 今朝、私達に与えられた御言葉は、マルコによる福音書1章1節の御言葉です。改めてお読みします。「神の子イエス・キリストの福音の初め。」
 マルコによる福音書1章1節は、本文ではありません。これは、マルコによる福音書全体の標題です。即ち、マルコによる福音書は、全体を通して、「福音」というものの「はじまり」を記していることになります。「福音」は何から始まるのか。どこから始まるのか。それを記すことが、マルコによる福音書全体の目的の一つなのであります。
 では、マルコによる福音書は、全体で何を具体的に記しているのでしょうか。主イエス・キリストの御業、御言葉、教え、そして、十字架の死と復活であります。要約すると、主イエス・キリストについて、全体で記していることになります。つまり、主イエス・キリストこそが、「福音の始まり」なのであります。
 それでは、「福音」という言葉は、何を意味しているのでしょうか。「福」という言葉には、「良い」という意味があります。「音」という言葉には、「音信」という意味があります。つまり、「福音」とは、「良い音信」あるいは「良い知らせ」という意味があるのです。マルコによる福音書は、私達人間にとって「良い知らせ」があるのだと伝えている。そして、その「良い知らせ」が、主イエス・キリストから始まるのだと記しているのです。
 それでは、「良い知らせ」とは何でしょうか。イザヤ書40章3節の御言葉をお読みします。「呼びかける声がある。主のために、荒れ野に道を備え/わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ。」
 何の為に、「広い道を通す」のでしょうか。神様が来て、そこを歩まれるためです。実は、これが「福音」であり、「良い知らせ」なのです。
 「良い知らせ」とは何でしょうか。それは、「神様が来てくださる」ということです。神様は、どこか遠くにいるのではない。私達の近くに来てくださり、私達と共に生きてくださる。これが聖書の示す「良い知らせ」「福音」なのであります。
 主イエス・キリストによって始まる「福音」も同じです。神の子イエス・キリストが、この世に来てくださったということ。それは、神様が、私達のもとに来てくださったのだということでもあるのです。荒れ野のような時代、現実、社会の中で、神様は私達を見捨てるのではなく、キリストを通して、私達の近くに来てくださる。これが、「福音」なのであります。
 それでは、神様は「何のために来る」のでしょうか。それは、「世界を取り戻す」ためです。人によって支配され、罪や堕落に満ちた世界を、もう一度、神様の手の中へと取り戻すために、この世界に来られるのです。この世界も、この私達も、もう一度、神様のものとなるために、神様は、この世界に来られるのであります。
 イザヤ書40章10節には、次のような言葉があります。「見よ、主なる神。彼は力を帯びて来られ/御腕をもって統治される。見よ、主のかち得られたものは御もとに従い/主の働きの実りは御前を進む。」
 神様は、何のために、この世界に来るのでしょうか。この世界を支配するために来られる。この世界を神様のものとするために、この世界に生きる私達を神様のものとするために、この世界に来てくださる。いや、キリストを通して、既に来てくださった。ここに「福音」があるのです。「良い知らせ」があるのです。
 神様のものとなるということ。それは、神様以外に縛るものは何もないのだということを知ることです。人間は色々なものに縛られています。一番強力な縛りは、死であります。人間は、死に縛られている。
 しかし、神様のものとされるとき、死にも縛られず、神様の恵みの中を自由に生きられるのであります。
 「良い知らせ」とは、神様がくること。そして、神様のものとされること。それは、死を越えて、永遠に神様の手の中に生きられるということです。つまり、この「良い知らせ」は、私達に永遠の命と希望を知らせるものでもあるのです。
 神様が造られた世界、そして私達の命は、罪の故に、神様から離れてしまっていた。それをもう一度、神様のものとするために、神様は、キリストを通して来てくださるのです。私達の命や世界をもう一度、神様のものとするためです。
 そのためには、何が必要でしょうか。罪の問題を解決する必要があるのです。では、罪は、どのようにして解決することができるのでしょうか。罰することでしょうか。それは違います。人を死刑にしても、被害者の心が癒されることはありません。加害者を憎む心が消えるわけではありません。
 だから、罰することによっては、罪を解決することはできません。罪を解決するために必要な事。それは、罪を赦すことしかない。神様は、罰するのではなく、罪の赦しを御心に留めていてくださるのであります。
 では、どのようにして、罪を赦されたのか。それが、十字架の出来事になるのであります。私達の罪を全て、キリストに背負わせ、十字架に架けてくださった。そのキリストの犠牲によって、私達の罪は赦されている。この世界を、私達を、神様のものとするために、御子イエス・キリストを与えてくださった。惜しみなく、十字架に架けてくださった。そのことによって、私達を赦し、再び、神様のものとしてくださる。神様が、キリストを通して、この世界に来てくださるのは、このためなのであります。ここに「良い知らせ」の中身があるのです。
 「はじまり」があるものには、必ず終わりがあります。しかし、福音は違います。マルコによる福音書の最後には、福音は朽ちないのだと書いてあります。今も、神は生きておられるのです。今も、私達の内に、働いておられる。そして、御子イエス・キリストの十字架の死を指し示し、あなたは、わたしのものなのだと語り続けてくださる。神様は、この朽ちることのない福音を通して、今も、朽ちることのない、喜びと希望を与えてくださる。その幸いを深く思いつつ、この受難節の時を改めて歩み出すものでありたいと思います。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 08:13| 日記