2024年02月11日

2024年2月18日 礼拝予告

〇教会学校 9時15分〜
聖書:ヨハネの手紙1、3章11節〜17節
説教:「愛を知りました」

〇主日礼拝 10時30分〜 
聖 書:ルカによる福音書23章1節〜12節、イザヤ書53章1節〜7節
説 教:「沈黙の意味するところ」大坪信章牧師

感染予防対策をした上で、礼拝を献げています。みなさまのお越しを心よりお待ち申し上げます。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 08:59| 日記

2024年02月04日

2024年2月4日 主日礼拝「光が見えるように」大坪信章牧師

ルカによる福音書8章16節〜18節、イザヤ書6章9節〜10節               
説 教 「光が見えるように」

 今日の御言葉は、先週に続き、イエスさまの譬え話です。先週の『種を蒔く人』の譬えも、今日の『ともし火』の譬えも、言っていることは同じです。いずれも、御言葉に向き合う私たちの状態を表しています。『種を蒔く人』の譬えは、蒔かれた御言葉という種を、私たちが、どのような心で受け止めるか、でした。それは4パターンありました。「道端」のような心、「石地」のような心、また「茨」のような心、そして「良い土地」のような心でした。この最後の「良い土地」だけが100倍の実を結んだのは「立派な善い心」それは、神さまに喜ばれる心で「御言葉を聞き、よく守り、忍耐」したからです。御言葉(福音)は、自分が喜ぶためだけに聞くものではありません。なぜなら、その自分は、救われなければならない罪人だからです。その罪深い自分が喜ぶような聞き方をすれば、おそらく、体たらくで自堕落な聞き方しかせず、御言葉から、何の刺激も受けないのです。だから、自分が喜ぶためではなく、神さまに喜ばれる心で御言葉を「よく聞き、よく守り、忍耐」するのです。

 そして、今日の『ともし火』の譬えは、18節に記されているように、御言葉を「どう聞くべきかに注意する」ということがテーマになっています。だから、その御言葉が説教題でも良かったのですが、折角なので、クリスチャンであろうがなかろうが、誰もが求めてやまない言葉「光が見えるように」という御言葉を説教題にしました。もし、光が見えなければ絶望的です。ただ、それは、目が見えていれば、光が見えるという単純な話しではありません。目が見えていながら、光が見えないという絶望的な状態が、実際、私たちの現実の中では、起こっています。イエスさまは言われました。16「ともし火をともして、それを器で覆い隠したり、寝台の下に置いたりする人はいない。入って来る人に光が見えるように、燭台の上に置く」と。ユダヤの家は、小さい家に約50センチ四方の小さい窓が一つしかありませんでした。そのため、昼間でも薄暗かったと言われています。だから、明かりは常に必要とされ「ともし火」が、その薄暗い家の中を照らしました。この「ともし火」は、しょうゆ皿のような小さな器(ともし火皿)の中で灯りました。もともと、その器の縁は、亜麻の繊維で作った燈心を載せるために、器を製作する途上の粘土の段階で、摘まんで溝を作っていたようです。後世には、把手も付けられたようです。そうして、オリーブ油を注いで火を灯した、その「ともし火」を、なぜか「器で覆い隠す」というのです。もし、そんなことをすれば、部屋は暗いまま、というより、器で蓋をするわけですから、酸素が無くなり、火は完全に消えます。だから、イエスさまは、そんな人は「いない」と言われるのです。また、折角「ともし火」を灯したのに、それも、なぜか「寝台の下に置いたりする」というのです。もし、そんなことをすれば、部屋は微妙に明るくても、部屋の中は一向に明るくなりません。というより、寝台の下に置いたら火事になります。家が燃える火の明るさを見て「ああ、ほっとする」と、一体どこの誰が言うでしょうか。だから、イエスさまは、そんな人は「いない」と言われます。これは、もう、話していて、当たり前すぎて笑ってしまいそうなほどです。当然ですが「ともし火」を灯したら、それは「入ってくる人に」つまり、来会者や訪問者に「光が見えるように、燭台の上に置く」のです。その燭台とは、そもそも、その「ともし火」を載せるための台のことです。けれども、この笑ってしまいそうなほどの当たり前の譬え話を、イエスさまは、真剣に話されたのです。実に、この「ともし火」は、この前の譬え話の「種」が御言葉を意味したように、御言葉を意味します。或いは、御言葉が受肉して人となられたイエスさま、いわゆる、その十字架と復活の福音と言えます。そうすると、当然すぎて笑える「ともし火」の譬えは、全然、笑えない話しになるのです。まず「ともし火」を「器で覆い隠す」とありました。そんなことをすれば、部屋は暗いままで、器で蓋をするので酸素が無くなり、火は完全に消えます。つまり、御言葉が完全に消える。イエスさまの十字架と復活の福音が完全に消える、ということが、教会の中では起こり得るのです。「ともし火」が完全に消えれば、教会に来会者が来ても、その人は、光を見ないで帰ることになります。これは、教会にとって悲劇です。この御言葉を器で覆い隠すのは,いったい誰なのでしょうか。それは、聖書の中の人物で言うところの律法学者やファリサイ派の人々の律法主義です。実に、イエスさまを直接、十字架に付けて殺したのは、彼らです。律法主義は、パウロが小アジア州やヨーロッパに教会を建てていった頃にも問題になりました。つまり「ああしなければ救われない。こうしなければ救われない」という律法に基づく信仰です。それは、例えば、苦行や修行のような信仰です。私は、今もそうですが、前任地の秋田でも、運動は日課で、冬は薄着でした。そんな寒い冬の、雪が降るある日の夕方、いつものように薄着でスーパーに行って買い物をしていると、附帯施設の幼稚園を卒園した園児と、その家族に、ばったりと会ったのです。すると、園児の父親が私を見て言いました。「修行ですか?」と。「いえいえ、健康のためにやっています」と言いました。こんなふうに、未だクリスチャンは、世の中の人から、修行や苦行をしている人とか、肉を食べない人と思われている節があります。でも、クリスチャンは、完全に自由です。なぜなら、御言葉が、自分を自由にしてくれたからです。罪からも解放してくれたのです。それなのに、その御言葉に、それは、イエスさまの十字架と復活の福音に、蓋なんかしてしまったら大変なことになります。自分で自分の首を絞めるようなものです。しかし、それは、自分だけの問題ではないのです。なぜなら「光が見えるように」しておかなければ、教会への来会者は、折角、教会に来たのに、依然として暗闇の中を手探り状態で生きていかなければならなくなります。だから、このように「ともし火」は、消してはいけないのです。それは、御言葉を消すこと、福音を消すこと、つまり、福音の窒息状態です。イエスさま無しでも生きていけるというなら、どうして、神の子・救い主であるイエスさまは、私たちの罪の身代わりとなって、十字架に架かって死ぬ必要があったのでしょうか。修行しても苦行しても何をしても、罪だけは、誰も拭えないのです。罪の報酬は死だからです。罪を犯せば死ななければならないのです。この死を、イエスさまは、私たちの身代わりになって十字架に架かって死んでくださったのです。私たちは、このイエスさまの十字架と復活の福音を、ただ信じることによって救われます。だから、どんな仕方でも、福音を覆い隠してはいけません。福音の光は見えるように、燭台の上に載せ、来会者が、それを見て信じ、安心して救われるようにしておくべきです。

 続いて「ともし火」を「寝台の下に置いたりする」とありました。もし、そんなことをすれば、部屋の中は、一向に明るくならないどころか、火事になります。つまり、御言葉が、福音が焼き尽くされる、ということが、教会の中には起こり得るのです。そうすると「ともし火」は、完全に消えて、教会に来会者が来ても、その「ともし火」の光を見ないで帰ることになります。これは、教会にとって悲劇です。寝台の下に置くというのは、いわゆる、隠すということです。それは、自分だけの楽しみにしてしまうということでもあります。そういうクリスチャンが多いのです。いわゆる、信仰を趣味にしてしまうのです。自分だけが楽しむ趣味です。でも、自分だけが楽しもうとすること自体が、そもそも不自然です。なぜなら、趣味は、別に気負わなくても、それそのものに伝道力が備わっているからです。運動をやっていると言えば、じゃあ、自分もやってみようという人がちらほらいます。ピアノを弾けば弾いたで、じゃあ、私も昔、取った杵柄だから、もう一度やってみようという人がいます。また、子どもたちは、すぐに真似してやろうとします。ただ、自分は、キリスト教の伝道者なので、人を運動やピアノに導くのが本意ではない、とは思います。けれども、最初の赴任地では、ある夜、公園で運動していると、知らないおじさんが声をかけてきたのです。それ以降、おじさんは、礼拝にも来るようになりました。これは、趣味を続けながら、本職が実を結んだ数少ないケースでした。そのように、趣味でさえ伝道力が備わっているのですから、御言葉や福音を寝台の下に置いて隠し、自分だけで楽しむようなことをしていてはいけないのです。来会者に、果ては、通りを歩いている人にも「光が見えるように」、「ともし火」は「燭台の上に置く」必要があるのです。なぜなら、自分だけで御言葉を楽しんでいると、御言葉は腐ってくるからです。それは、あくまでも自分だけが楽しむので、同じクリスチャン同士でも、話題の共有(証し)をしなくなるので、神の言葉を腐らせてしまうからです。聖書の旧約、出エジプト記16章19節〜21節には、イスラエルの民が、荒れ野で天からのパンであるマナ(命の御言葉)を、神さまに戴いた時のことが記されています。その中の、ある者は、明日のことを心配して、マナを翌朝まで残しておきました。すると、残しておいたマナは、虫がついて臭くなった。つまり、腐ったのです。そのように、神の言葉を腐らせてしまえば、あとに残るものは人間の言葉です。そして、仕舞いには、そこに人間関係が勃発し、教会が火事になるのです。火事になったらみんな逃げます。ぼやでも逃げます。そんなことになったら、教会には、もう誰もいなくなるのです。だから、クリスチャンは、自分の立場をちゃんと弁えなければなりません。ある書物のタイトルを紹介します。『教会の成長は、クリスチャンが妨げている』です。はっきり言って笑えません。今までクリスチャンは、何をしてきたのかと思うのです。一生懸命、福音を隠してきたのではないでしょうか。福音を腐らせてきたのではないでしょうか。そして、教会を火事にしてきたのではないでしょうか。それは、火災報知機を幾ら点検しても機能しません。こればかりは霊的なことだからです。だから、その書物には、こんな文章が記されているのです。「信徒がキリストに根を下し、キリストに似て成長しないとき、もっとも情けない人格の持主となってしまうのです」と。また「現代の教会、クリスチャンたちの一番大きな問題点は、御言葉に正しく、御言葉に真実でないところにあるという事を忘れてはならないのです」と。更に「十字架のみもとで悔い改めの涙を流す魂以外には、教会を成長させるこやしはないのです」と。

 そこで、イエスさまは言われます。17節「隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、人に知られず、公にならないものはない」と。このように、御言葉は、とりわけ、イエスさまの十字架と復活の福音は、どんなに隠され、秘められたとしても、それは、真実だからこそ、必ず明らかになり公になります。ただ、その明らかになる時が、御言葉の消された窒息状態で、来会者も自分たちも苦しくなる時であるのなら、それは、あまりにも悲しいのです。或いは、御言葉ではなく、人間の言葉の応酬が始まり、教会が霊的に火事になり、それによって真実が明るみになるのなら、それもまた、教会にとって恥です。だから、イエスさまは言われるのです。18節「どう聞くべきかに注意しなさい。持っている人は更に与えられ、持っていない人は持っていると思うものまでも取り上げられる」と。この「どう聞くべきか」について、まず言えることがあります。御言葉は、律法的に聞くのではなく福音的に聞くということです。それは、この前の個所にあった『種を蒔く人』の譬えの中で言われていた「良い土地」に落ちた種のことでもあります。なぜなら「良い土地」は「立派な善い心で御言葉を聞いた」(15節)からです。それは、神さまに喜ばれる心だったからです。そして「どう聞くべきか」について、更に言えることがあります。御言葉は、個人的に聞くのではなく普遍的に聞くということです。もし、御言葉を律法的、個人的に聞いたなら、自分が持っていると思うものまで失う羽目になります。しかし、御言葉を福音的、普遍的に聞く人は、持っているのに更に与えられ、恵みも喜びも感謝も尽きることはありません。そもそも「ともし火」が御言葉であることを思えば、その性質を無視してはいけないのです。「ともし火」は、周りや人々を明るく照らす光だからです。それは、私たち自身が自由に明るく穏やかに生きるということでもあります。「ともし火」は、自分の闇を輝かせる光でありながら、より多くの人々の心の闇を照らす光でもあります。私たちは、この命の光を、決して遮らないようにしましょう。聖書は、テサロニケの信徒への手紙1、5章19節で「霊の火を消してはいけません」と言っています。光を遮るなら、それは、誰のためにも自分のためにも、そして、教会のためにならない、そのことを、肝に銘じたいと思います。だから「ともし火」は、誰もが見えるように燭台の上に置くことに務めましょう。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 10:21| 日記

2024年2月11日 礼拝予告 

〇教会学校 9時15分〜
聖書:ペトロの手紙1、1章3節〜9節
説教:「見たことがないのに愛し」

〇主日礼拝 10時30分〜 
聖 書:ルカによる福音書22章63節〜71節、ヨブ記30章20節〜31節
説 教:「神を裁く十字架の時」大坪信章牧師

感染予防対策をした上で、礼拝を献げています。みなさまのお越しを心よりお待ち申し上げます。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 08:27| 日記