2019年08月10日

2019年8月11日 主日礼拝説教「真の安息を得させるために」須賀 工牧師

聖書:マルコによる福音書2章23節〜28節

 今朝、私達に与えられた御言葉は、マルコによる福音書2章23節から28節の御言葉です。23節から24節をお読みします。「ある安息日に、イエスが麦畑を通って行かれると、弟子たちは歩きながら麦の穂を摘み始めた。」
 主イエス・キリストの弟子たちが、麦の穂を摘み始めた。つまり、彼らは、他人の麦畑で穂を摘んで食べた、ということであります。これは、律法によれば許された行為です。申命記23章26節には、次のように記されています。「隣人の麦畑に入るときは、手で穂を摘んでもよいが、その麦畑で鎌を使ってはならない」とあります。
 なぜ、「鎌を使ってはならない」のでしょうか。「鎌を使う」ということは、収穫をすることです。つまり、人の畑の収穫を自分の収穫にすること。これは問題であります。しかし、「手で穂を摘む」ことは許されています。それは、貧しい人、空腹の人を癒すためであります。神様は、このように、イスラエル共同体が、共に生かされることを望んでおられるのではないでしょうか。
 どちらにせよ、弟子達が行った行為は、誤りではない、ということがここから分かります。しかし、それでは、なぜ、弟子達の行為が咎められることになったのでしょうか。24節の御言葉をお読みします。「ファリサイ派の人々がイエスに、『御覧なさい。なぜ、彼らは安息日にしてはならないことをするのか』と言った。」
 ここで問題になったのは、「安息日の違反」なのであります。麦の穂を摘むことが問題ではありません。それを「安息日」に行うことが問題になったのであります。なぜなら、律法に基づく、伝統的な教えによれば、「安息日」に「仕事をすること」「作業をすること」「歩き回ること」が禁じられていたからであります。場合によっては、「石打の刑」に処されることもあったようです。
 ファリサイ派の人々は、「安息日には仕事をしてはいけない」と教えていました。なぜでしょうか。天地創造の時、七日目に、神様が休まれたからであります。そして、聖書もまた、私達人間が、この神様の安息に与り、「いかなる仕事をもしてならない」と教えています。ファリサイ派は、そのことを受けて、「仕事」をしないことこそが、正しい安息日の過ごし方だと教えていたのだろうと思います。
 しかし、「安息日」とは、「仕事をしてはいけない日」なのでしょうか。それが目的なのでしょうか。大事なことは、そのよう表面的な言葉ではなく、本質的な中身なのではないでしょうか。そのことを踏まえた上で、改めて、安息日とは何の日なのか。何の爲に安息日があるのか。そこに注目しなければいけないだろうと思います。
 出エジプト記20章8節から11節をお読みします。「安息日を心に留め、これを聖別せよ。六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである。」
 安息日とは何でしょうか。それは、神様が天地を造り、七日目に休まれたことを覚え、その休みに与るために定められた律法です。しかし、神様は、疲れたから休まれたわけではありません。創世記1章によれば、「神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった」と言われています。神様は、疲れたから休まれたのではありません。神様は、この世界を見渡し、それが良いものであることを喜ばれ、その存在の完成を喜び、安息日を祝福されたのであります。つまり、神様は、この世界と人間の存在を喜んでくださったその日を安息日と定めてくださったのであります。
 そして、神様は、この喜びと祝福を、私達に与えるために、この安息日を備えて下さった。生きるために働き続けた体を癒し、この自分が、神様によって祝福された存在、喜ばれた存在であることを、この私の生活が、神様の祝福のもとにあることを確認するための安息日なのです。
 だから、安息日は、仕事をしてはいけない日ではないのです。それが目的ではないのです。安息日は、自分の仕事の手を止めて、神様の祝福を思い起こし、それを再度、喜び味わう日であり、自分は神様のものとされていること、神様の子どもであることを覚えて心癒される日なのであります。それが、安息日の目的なのであります。 
 このように安息日は、神様が、私達を祝福し、恵みを与えてくださることを覚える日です。そうであるならば、この弟子達が行った行為は、むしろ、安息日の目的に適った行為であると言えるかもしれません。
 そのことを裏付ける御言葉が、25節の御言葉であります。25節から26節の御言葉をお読みします。「イエスは言われた。『ダビデが、自分の供の者たちも、食べ物がなくて空腹だったときに何をしたか、一度も読んだことがないのか。アビアタルが大祭司であったとき、ダビデは神の家に入り、祭司のはかにはだれもたべてはならない供えのパンを食べ、一緒にいた者たちにも与えたではないか。』」
 サムエル記上21章に語られたダビデの物語が引用されています。この時、ダビデは、まだ王様ではありませんでした。サウルが王様です。そのサウルに命をねらわれ、命からがら逃げ回っていた時の話であります。空腹を覚え、神の家−幕屋−に入り、供えのパンを食べた。しかし、その供えのパンを盗んだのではなく、祭司から頂いたものでありましょう。また、パンを供え替える日は、安息日とされていましたから、ダビデは、安息日に、神の家にあるパンを食べたということになります。ファリサイ派の理論から言えば、律法違反に当たります。
 ここで大事なことは何でしょうか。それは、神様は、今、目の前で安息を失っている人を分け隔て無く、養って下さるということであります。神様の恵み、平安、安息が、掟の字面を超えて、それを本当に必要としている人に与えられるということであります。神様は、安息日に何をしてはいけないという縛りよりも、人間に本当の意味で安息を与えることを優先してくださる。
 だから、主イエス・キリストは、仰せになるのであります。「安息日は人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない」と。ファリサイ派の人々の理論で言うならば、それは、人から逆に安息を奪い、人を疲れさせる安息日になっているのであります。主イエス・キリストは、神様は、まず何よりも、人を救い、人を平安へと導き、癒される御方なのだということを、ここで強く強調していくのであります。 
 主イエス・キリストは、最後に次のように言われます。「だから、人の子は安息日の主でもある」と。人の子とは、主イエス・キリストのことであります。主イエス・キリストは、御自身を安息日の主であると仰せになります。主イエス・キリストは、ここで御自身が「安息日」を支配し、定めた神御自身であると言っている。
 つまり、安息日は、この主を見上げ、この主のもとで憩う日なのだということであります。この主は、どのような安息を与えてくださるのでしょうか。それは、罪からの解放、死からの解放でありましょう。私達の穢れを清め、神様のものとして、神様の子どもとして、私達を祝福してくださる。そこに、救い主による真の安息がある。その恵みを味わい、何にも縛られることなく、自由に生きることができる。主イエス・キリストは、そのようにお示しになってくださるのであります。
 ファリサイ派の人々は、とても真面目なのです。安息日は仕事をしていけない。自分たちは、一生懸命に、その掟を守り抜いたのです。どうしたら、安息日を守れるのか。どうしたら正しい安息日を過ごせるのか。真面目に考え、自らを問い続けただろうと思います。しかし、問い続ける内に、目が光っていくのです。心がするどくなっていくのです。そして、周りを見続け、人を裁かずにはいられなくなっていく。完璧を目指し、それを実行しているからこそ、周りの弱さや穢れに思いが支配され、いつしか、裁かずにはいられなくなる。完璧を目指す彼らは、本当に安息できるのでしょうか。本当に喜びをもって、生きることができるのでしょうか。
 キリスト者もまた同じであります。真剣に信仰生活を送りたいと思う。真面目に生きたいと思う。そして、自分は真面目にしようと、自分を問い続けながら、周りに目を光らせてしまうことがないだろうか。そこに、本当の安息があるのでしょうか。疲れ切るだけの生活になっていないだろうか。
 主イエス・キリストは、そういう私達の心を、真の安息へと招くためにこそ、この御言葉を示されたのでしょうか。真実に休んでほしい。罪が赦され、穢れが清められ、今、この時を、自由に生きて良い。神様の御手の中で、神様の子どもとして、喜んで生きよい。主イエス・キリストは、真の安息を得させるために、あなたを安息のこの日、礼拝へと招いてくださったのであります。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 08:53| 日記

2019年08月05日

2019年8月11日 礼拝予告

〇教会学校 休会

〇主日礼拝 10時30分〜
主題:「真の安息を得させるために」須賀 工牧師
聖書:マルコによる福音書2章23節〜28節

※礼拝後、5分の集い、信仰の学び、ダニエル会例会が行われます。

皆様のお越しを心よりお待ち申し上げます。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 07:58| 日記

2019年8月4日 主日礼拝説教「新しい時の始まり」須賀 工牧師

聖書:マルコによる福音書2章18節〜22節

 今朝、私達に与えられた御言葉は、マルコによる福音書2章18節から22節の御言葉であります。18節の御言葉をお読みします。「ヨハネの弟子たちとファリサイ派の人々は、断食していた。そこで、人々はイエスのところに来て言った。『ヨハネの弟子たちとファリサイ派の弟子たちは断食しているのに、なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか。』」
 ここには、「断食」の問答が記されています。そもそも、「断食」とは何でしょうか。「断食」とは、「悔い改め」のことです。
 それでは、「悔い改め」とは何でしょうか。それは、「自分の罪を告白」し、「神様に方向を転換」することであります。言い方を変えて申し上げるならば、古い自分に背を向けて、神様に向かって新しく歩み出すことであります。「悔い改め」は、決して、後ろ向きの行為ではありません。むしろ、前向きの行為、喜びに向かった行為なのであります。
 元々、イスラエルでは、年に一度、断食をしていました。しかし、それでは、十分な悔い改めにはならないということで、年に四回の断食に変わりました。ファリサイ派の人々は、それでも十分ではないということで、週に二回の断食を行いました。
 しかし、ファリサイ派の断食は、悔い改めの断食というよりは、人々に信仰深さを見せるパフォーマンス的な要素もあったようです。そのため、洗礼者ヨハネは、ファリサイ派の断食の在り方を批判し、自身は、日を定めない断食を行いました。
 このように、「断食」とは、考え方は、違うにせよ、信仰者における生活の大切な行為の一つでありました。しかし、ここで大事なことは、「断食」とは、そもそも、「罪の告白」であり、「方向転換」であり、そして、「新しい歩み」である、ということであります。 
 さて、主イエス・キリストは、断食を行ったのでしょうか。聖書には、主イエス・キリストが断食を行っている様子が、幾つか描かれています。本来、罪のない御方が、断食をしたのであります。正に、神の御子は、人間の罪や穢れを背負われたのであります。本来、穢れのない御方であるにも関わらず、人間と等しくなられた。その幸いを深く思うものであります。
 しかし、主イエス・キリストは、その弟子たちに断食を強いることはしませんでした。それはなぜでしょうか。
 19節から20節の御言葉をお読みします。「イエスは言われた。『花婿が一緒にいるのに、婚礼の客は断食できるだろうか。花婿が一緒にいるかぎり、断食はできない。しかし、花婿が奪い取られる時が来る。その日には、彼らは断食をすることになる。』」
 主イエス・キリストは、ここで結婚の譬えを語られます。旧約聖書では、神様を花婿に譬え、イスラエルを花嫁に譬え、両者の関係を夫婦関係に例えることがあります。つまり、ここで、主イエス・キリストは、御自身を「神御自身」として証していることになります。そして、弟子達は、その結婚に招かれた客として、ここにいるのであります。
 今、ここで何が起きているのでしょうか。主イエス・キリストにおいて、神様御自身が喜びをもって、生きておられるということです。神様御自身が、ここで、喜びの交わりに生きてくださり、喜びをもたらしてくださっているということであります。神様は怒りをもって、この世界に臨んでいるのではない。神様は、喜びをもって、ここに生きて働き、交わりに生きていてくださるのであります。私達は、その喜びに招かれた客として頂いているのであります。
 だからこそ、その喜びの中で、「断食」は相応しくない、いや「断食」などできるはずはない、ということであります。今なすべきことは、「断食」ではないのです。喜びを共に味わうこと。主イエス・キリストは、その幸いと喜びをここでお示しになるのであります。
 しかし、主イエス・キリストは、次のように語ります。「しかし、花婿が奪い取られる時が来る。その日には、彼らは断食することになる」と。
 主イエス・キリストが奪い取られる時が来る。それはいつでしょうか。「十字架の時」であります。「十字架に架けられて死んで行く時」であります。
 その時に何が起こるのでしょうか。断食が起こるのであります。罪の告白が起こるのであります。悔い改めが起こるのであります。
 つまり、主イエス・キリストの十字架の死を通して、私達は、本当の意味で、私達の罪の重さを知ることになるのだということであります。主イエス・キリストの十字架の死を通して、私達の汚れた現実を知ることができるのだということであります。あの十字架の死の悲惨さを通して、私達は、私達の罪の悲惨さを知ることができる。まず、そのことを示されていくのであります。
 しかし、私達は、主イエス・キリストの十字架を通して、ただただ罪を知るだけではありません。この私の罪を、あの主イエス・キリストが担っている。そのことも知ることができるのであります。主イエス・キリストの十字架の死を通して、自分の罪を知ることができるのは、そこで、あの主イエス・キリストが、私達の罪を担っていることを知っているからなのであります。
 つまり、十字架のキリストを見上げ、自らの罪の重さを知る人こそ、自分の罪が担われているという喜びを知っている者でもあるということでありましょう。正に、「悔い改め」とは、自分の罪を数え、涙を流すことではありません。この私の罪を背負われるキリストを見つめ、自分の罪を知り、その罪を告白し、そして、赦されている喜びに押し出されながら真の喜びへと新たに足を進めていくことであります。
 悔い改めと喜びは、同じことなのであります。主イエス・キリストは、その大きな恵みを、私達に新たにしてくださるのであります。
 初めにも申し上げましたが、「悔い改め」「断食」とは、「新たに生きること」なのであります。罪が赦されている恵み。その恵みを噛みしめながら、新しく生きることなのです。 だから、主イエス・キリストは、次のように言われるのです。「新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ」と。「新しいぶどう酒」、「新しい喜び」が、もう既に、目の前に備えられているのです。「新しい救い」が、主イエス・キリストを通して、もうここに備えられているのであります。 
 大事なことは、この新しいものを受け入れる器になるかどうか。古い自分を捨てて、方向転換をして、新たに歩み出すことができるか。それが大切なことなのであります。古いものと新しいものを混ぜることはできません。古いもの、過去のものを否定することはしません。それを振り返るなとは言いません。あるいは、古いことが無駄なことであるとも言いません。古いものを忘れてはいけないだろうと思う。
 しかし、キリストのものとされるということは、全く、新たなものとして、新たに生きることを意味しているのであります。古いものが、自分を新たにすることはできない、ということなのであります。古いものと新しいものを混ぜるところには、必ず、ジレンマが生じるのです。古いものが無駄にならないように、それはそれで保存し、新しいものに思いを向け直して行く。それが大事なのであります。
 ファリサイ派の人々は、主イエス・キリストを受け入れることができませんでした。彼らは、新しく生きることを辞めたのであります。古い自分にしがみついたのであります。つまり、どれだけ悔い改めを重ねても、神様に向かって、新たに歩み出すことをしなかった。なぜでしょうか。
 それは、自分のことしか見えていないから。神様が見えていない。神様の救いが見えていない。そこでは、自分の罪の現実も見えていない。だから、赦されていることの喜びも見出すことはできない。それ故に、彼らの断食は、パフォーマンスに成り代わっていくのであります。どんだけ、悔い改めを重ねても、神様に向かって、新たに歩み出さないところに、本当の悔い改めはあるのでしょうか。
 悔い改めとは、神様にむかって「新しく生きる」ということであります。それは、古い自分に背を向けて、神様に向かって新たに歩み出すことであります。
 しかし、その自分を捨てきれないことがある。古いものを絶対化させ、自分たちの積み重ねた知恵や知識やキャリアに縛られてしまうことがある。自分の積み重ねてきたことを正当化したいと思う。そのようなことは、私達のうちでも起こり得るだろうと思います。
 しかし、そのような現実の中で、真の悔い改めが、生まれるはずがありません。そこでは、神様に心を向けていない、自分にしか心が向いていない。神様の方へ転換する気持ちがない。そのような私の姿しかないから。
 主イエス・キリストは、今も、生きて、私達を招いておられます。ここに神が生きている。ここに神様との交わりがある。ここの十字架の死と復活の救いがある。ここに罪の赦しがある。新しいぶどう酒がここにある。主イエス・キリストは、今も、ここで力強く招き続けておられる。古いものに縛られ、主イエス・キリストに背を向け続けるのか。古いものを置いて、救いの招きに応え新たに歩み出すのか。私達は、今、キリストの前で、強く問われていくのであります。
 使徒パウロは、ローマの信徒への手紙で記します。悔い改めもまた、神様の憐れみによって導かれて実現するのだと。私達が、日々、この招きに応えて生きられるように、祈りをもって、導きを願うものでありたいと思います。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 07:56| 日記