2025年04月10日

2025年4月20日 礼拝予告

〇教会学校 9時15分〜
聖 書:ヨハネによる福音書21章1節〜14節
説 教:「弟子たちに現れる」

〇主日聖餐礼拝 10時30分〜 
聖 書:マタイによる福音書28章1節〜10節、エレミヤ書38章10節〜13節
説 教:「行く手に立つ主イエス」大坪信章牧師

感染予防対策をした上で、礼拝を献げています。みなさまのお越しを心よりお待ち申し上げます。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 20:33| 日記

2025年04月06日

2025年4月6日 主日聖餐礼拝説教「十字架上の祈り」大坪信章牧師

マタイによる福音書27章45節〜56節、エレミヤ書38章1節〜9節
「十字架上の祈り」

 受難節レント四旬節は来週いっぱい続きますが、ひとまず、この礼拝では、イエスさまの十字架上の祈りと最期の出来事に耳を傾けます。罪のないイエスさまは、ローマ総督ピラトの裁判で死刑宣告を受け、兵士たちから侮辱や暴行を被り十字架に付けられました。その後も十字架を取り巻く人々によって侮辱や罵りを受けました。聖書の4つの福音書は、この十字架の場面を「イエスを十字架に付けた」とだけ記しますが、詳細は、両手両足を十字架に釘付けにされました。今日は、そのイエスさまの『十字架上の祈り』についてのお話です。祈りは1度ではなく3度ささげられました。1度目の祈りは、十字架の柱がゴルゴタの丘の上に聳え立った直後、マルコ福音書によれば午前9時のことでした。ルカ福音書には、その祈りの内容が記されています。23章34節「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」イエスさまは、御自分を侮辱する十字架を取り巻く人々をご覧になり、そのように祈られました。本当に申し訳ないです。もしイエスさまが「父よ、彼らを赦さないでください。自分が何をしているのか知っています」と祈られたら、私たちは、どうなっていたか。しかし、それは全くの幻想でした。事実は、十字架上で血を流すイエスさまが、十字架を取り巻く私たちのために罪の赦しの祈りを献げられました。

 ユダヤの人々は、日に3度の祈りを献げ、1度目が午前9時でした。イエスさまは、十字架上で特別な祈りを献げたのではなく、いつもの祈りの時間に普段から祈っておられた祈りを祈られたのです。それが私たちの罪の赦しを願う祈りでした。でなければ、どうして、そのような祈りが断末魔のイエスさまの口に上ったでしょうか。私たちも、普段から祈りの姿勢や祈りの言葉を整えておくこと、それが、どんな時でも、どんな場合でも、信仰の祈りを祈り続ける秘訣だと分かります。そうして、イエスさまの断末魔は3時間を数えました。45節46節「さて、昼の十二時に、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。『エリ、エリ、レマ、サバクタニ。』これは、『わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか』という意味である。」この12時〜3時までの「全地」の暗闇は、全世界を意味します。先週のお話で、十字架の柱の上に掲げられたイエスさまの罪状書きは、ヘブライ語、ラテン語、ギリシア語で書かれたと言いました。それも全世界を意味しました。というのは、全世界に散っていたユダヤ人たちは、過ぎ越しの祭りを祝うためにエルサレムに巡礼に訪れ、3つの原語で書かれた十字架の罪状書きを見て、それぞれが寄留する国の言語で理解したのです。そして、祭りが終わって、それぞれの国へ戻って行きました。十字架の出来事は、そういう仕方でも全世界に広まったのです。だから、イエスさまの十字架の出来事は、ユダヤの人々だけの問題ではなく、全世界の人々が耳にし、また、信仰によって目にする必要のある出来事なのです。

 こうして「全地」が暗くなった12時の時間帯も、ユダヤ人たちが日に3度の祈りを献げる丁度2度目の祈りの時でした。しかし、その時間帯に聖書が記録したのは、イエスさまの祈りではなく「暗闇」でした。イエスさまも祈れないほどの苦しみの中におられました。もちろん、祈りには言葉にならない祈りもあります。だから、沈黙の祈りが献げられていたと言い代えることはできます。私たちも苦しみのあまり祈りの言葉が出てこないことがあります。それは、暗黒に包まれたような時間です。長いトンネルに入ったようで、中々、時間も進みません。しかし「だから不信仰だ」とか「なぜ、それでも神を信じて祈らないのか」と言われるなら、それは、あまりにも酷です。祈れない苦しみが、誰にも理解されなくても、正午の12時を迎えた十字架上のイエスさまだけは共感してくださいます。だから、それで良いというわけではありません。同じ信仰を抱く私たちは、言葉に表せない祈りや、沈黙の祈りへの共観が必須です。この沈黙の祈りが十字架上の2度目の祈りでした。こうして、全世界を襲った暗闇は、午後3時まで続き「三時ごろ」これは、ユダヤで言うところの日に3度の祈りを献げる3度目の祈りの時に、イエスさまは「大声」で叫ばれました。この全世界に届かんばかりの「大声」これも、十字架や十字架上の祈りが全世界の最優先関心事であることを物語っています。「『エリ、エリ、レマ、サバクタニ。』これは、『わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか』という意味」の言葉でした。これは、詩編22編1節の詩人の祈りそのままでした。これが十字架上の3度目の祈りでした。その日の正午の2回目の祈りは沈黙の祈りでした。それから3時間後、もはや言葉にならない祈りの中で、イエスさまが言葉にされたのは聖書の御言葉に準じた祈りでした。私たちの中にも祈りはありますが、祈りは、このように与えられているものでもあります。自分の中の言葉で祈るには気が引けたり、こんな言葉で祈ったら相応しくないのではないか、クリスチャンらしくないのではないか、など、色んな葛藤もあります。そういう時、詩編の祈りは、私たちの代わりに祈ってくれます。そうしてイエスさまは「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と詩編の祈りを献げられました。この祈りは、イエスさまによって実現しました。イエスさまは、十字架の肉体的、精神的な傷みだけではなく、霊的な痛みまで味わわれました。それが、神さまから見捨てられるほどの痛みと苦悩だったのです。

 十字架を取り巻く人々は、このイエスさまの3度目の祈りを聞いて、それぞれ次のように反応しました。47節「そこに居合わせた人々のうちには、これを聞いて、『この人はエリヤを呼んでいる』と言う者もいた」と。人々の中には「エリ」という神の名と「エリヤ」という預言者の名前が混同した人もいたようです。確かに旧約の偉大な預言者と呼ばれたエリヤは、死を見ずに火の戦車が迎えに来て天に上げられました。だから、そのエリヤを呼んでいると考えたのでしょう。ただ、すべての人々が、そのような反応に終わっていたなら、イエスさまの祈りは、人間の心に共感を呼び覚まさないのかと思ってもしまいます。しかし「『この人はエリヤを呼んでいる』と言う者」“も”いたとあるので、イエスさまの祈りは、人間の心をちゃんと捉えました。イエスさまは、私たちの罪のために、神に見捨てられたと思うほどの苦しい祈りを献げておられるのです。それを、聞き間違いなんかしている場合ではありません。おそらく、48節の「そのうちの一人が、すぐに走り寄り、海綿を取って酸いぶどう酒を含ませ、葦の棒に付けて、イエスに飲ませようとした」「そのうちの一人」とは、マルコ福音書やルカ福音書によれば兵士ですが、この兵士の心は、イエスさまの祈りに捉えられたのでしょう。少しでも断末魔の苦しみが癒えるように麻酔の役割を果たす「酸いぶどう酒」を、「海綿」それは、スポンジのようなものに吸わせてイエスさまの口元に差し出しました。しかし、イエスさまは、痛みを軽減させる、そのぶどう酒は飲まれませんでした。更に、49節「ほかの人々は、『待て、エリヤが彼を救いに来るかどうか、見ていよう』と言った」とあります。しかし、イエスさまは、人々のエリヤが救いに来るという期待を見事に裏切り、50節「再び大声で叫び、息を引き取られた」のです。この「大声」も全世界的な響きを持っていますが、大事なのは、この「再び」が、十字架上の4度目の祈りだということです。ただ、この4度目の祈りは、同じ午後3時の祈りから間髪を入れずに祈られたので、3度目の祈りとして数えます。この「再び」は、直前の祈りの内容のことではありません。ルカ福音書では、23章46節「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」でした。ヨハネ福音書では、19章30節「成し遂げられた」でした。これは、神への信頼の言葉です。人間の罪を贖うという十字架の犠牲の職務(十字架の死)に、全く忠実だった御子イエスさまの言葉です。だから、イエスさまの十字架上の祈りは、十字架の「死に至るまで忠実」で、父なる神を信頼する祈りでした。だから「なぜ」という疑問が最後の言葉ではなかったのです。疑いからは何も生まれません。信頼から新しい出来事は生まれます。信頼から、すべての良きことが始まります。その良きことは、イエスさまの十字架が「成し遂げられた」直ぐあとに起こりました。51節〜53節「そのとき、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け、地震が起こり、岩が裂け、墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる者たちの体が生き返った。そして、イエスの復活の後、墓から出て来て、聖なる都に入り、多くの人々に現れた」のです。神殿の至聖所と聖所を分けていた「垂れ幕」これは、神と人とを分け隔てていた幕でした。いわゆる、人は罪のために神に近づけないという象徴だった垂れ幕が、下からではなく上から下まで裂けたというのが重要です。これは人間業ではなく神業です。また「地震」や「岩が裂け」「墓が開いて眠りについていた多くの聖なる者たちの体が生き返った」のも、すべては人間業ではありません。だから、イエスさまの十字架の出来事も、神がイエスさまを私たちの身代わりとされたのであり、その犠牲によって私たちの罪を贖い、救いの道を開かれた神業を意味するのです。もし、それが事実でなければ、このあとの出来事は、また違った展開になったはずです。しかし、54節「百人隊長や一緒にイエスの見張りをしていた人たちは、地震やいろいろの出来事を見て、非常に恐れ、『本当に、この人は神の子だった』と」言いました。また、55節56節「そこでは、大勢の婦人たちが遠くから見守っていた。この婦人たちは、ガリラヤからイエスに従って来て世話をしていた人々である。その中には、マグダラのマリア、ヤコブとヨセフの母マリア、ゼベダイの子らの母がいた」とあります。彼らは、十字架が神の業であることの証人です。ここに、イエスさまの十字架を否定的ではなく、肯定的に捉えた人々がいます。こうして、私たちの救いの道は、イエスさまの十字架の祈りによって、今も開かれています。そこにある罪の執り成し。言葉にならない沈黙。そして、なぜという疑問を飲み干し、父なる神を信頼し抜いた信仰。これらすべては、私たちのためでした。このイエスさまの十字架の祈りと愛が、今日も私たちを完全な救いへと招いています。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 15:55| 日記

2025年4月13日 礼拝予告

〇教会学校 10時30分〜の礼拝に合流します。
      通常の9時15分〜の礼拝はありません。

〇主日神の家族礼拝 10時30分〜 
聖 書:ヨハネによる福音書19章17節〜27節、歴代誌上18章14節〜17節
説 教:「十字架の主、十字架の王」大坪信章牧師

感染予防対策をした上で、礼拝を献げています。みなさまのお越しを心よりお待ち申し上げます。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 10:05| 日記