2021年06月04日

2021年6月6日 主日礼拝説教「主の復活」須賀 工牧師

聖書:マルコによる福音書16章1節〜8節

 今朝、私達に与えられた御言葉は、マルコによる福音書16章1節から8節の御言葉であります。説教題にもありますように、今朝の御言葉は、「主イエス・キリストの復活」に関する御言葉であります。
 「主イエス・キリストの復活」の出来事は、「墓が空であった」という、驚くべき事実から語られています。墓の中にいた天使は、次のように語りました。「あの方は復活なさって、ここにはおられない」と。「主イエス・キリストは、もはや墓の中にはおられない」。これが、復活を告げる驚くべき御言葉なのであります。
「墓が空であった」。これは何を意味しているのでしょうか。これは、主イエス・キリストにあって、もはや「墓」は、空しくなった。そのことを、まず意味しているのであります。
 少し、言い方を変えて申し上げるならば、主イエス・キリストにあって、「死」が空しくなった、とも言えます。あるいは、主イエス・キリストにあって、「死」というものが、敗北したのだ、とも言えるかもしれません。
 人間の最大の敵は、「死」です。そして、人間は、誰しもが、死に打ち勝つことはできません。私達の人生は、その意味において、敗北して終わるのであります。
 しかし、主イエス・キリストにあって、「死」が、敗北したのであります。主イエス・キリストは、ただ一人、「死」に対して勝利された御方なのであります。ここにこそ、キリスト教における「復活」の意味が、まず表されているのであります。
 そして、主イエス・キリストは、ヨハネによる福音書の中で、次のように、仰せになりました。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」(ヨハネによる福音書11章25節〜26節)と。
 「わたしを信じる」とは、「主イエス・キリストに結ばれる」ということでもあります。私達も又、復活の主、命の主と、出会い、そして結ばれる。ただ、そのことを通して、私達もまた、死に打ち勝ち、永遠に神の子どもとして生きることが、許されている。その幸いが、この復活を通して、強く指し示されているのであります。
 大切なことは、この復活の主と出会う、ということに他なりません。それでは、私達は、どのようにして、復活の主イエス・キリストに出会うのでしょうか。
 今朝の御言葉には、三名の女性たちが、出て参ります。彼女たちは、香料を買い出し、誰よりも早く、主イエス・キリストの墓に向かいました。主イエス・キリストの体に香油を塗り、正に、最後の務め・奉仕をしたいと考えたわけであります。
 しかし、その「墓」の中には、もはや、主イエス・キリストはいない。即ち、「墓」は、キリストとの出会いの場ではない、ということなのであります。
 「墓」は、死んだ人の「遺体・なきがら」を納める場所です。「墓」に納められるということは、その人が、その瞬間から、過去の人になった、あるいは、そこから動かぬ人となった、ということでもあります。
この女性たちもまた、主イエス・キリストを、一人の死んだ人、過去の人、動かぬ人となった、という気持ちで、墓に向かっているのであります。お墓に行けば、主イエス・キリストがいる。お墓にいけば、主イエスとの思い出に浸ることができる。そこにいけば、思い出として、主イエスの姿がよみがえる。そのような思いを抱きながら、墓に向かうのです。
 しかし、現実は、違ったのであります。そこに、主イエス・キリストはおられないのです。主イエス・キリストは、既に、死に勝利され、今も生きて、働いておられるからであります。
主イエス・キリストを、過去の中に探しても、そこに、主イエス・キリストを見出すことはできない。あるいは、私達の思いや考え、私達が見たいと思う場所に、主イエス・キリストを捜しても、そこに主イエス・キリストはいなのであります。「イエス様は、ここにいるはずだ」「イエス様は、あそこにいるはずだ」と、私達が、決めつけている場所に、復活の主は、いらっしゃらないのであります。私達が、イエス様と出会いたい場所、イエス様ならいて当然の場所に、イエス様の存在を縛り付けることは、イエス様を動かぬ人にしてしまう。そのようにも言えるのではないでしょうか。
それでは、復活の主イエス・キリストは、どこにいるのでしょうか。今朝の御言葉によると、次のように記されています。「あなたがたより先にガリラヤにいる」。
 「ガリラヤ」とは、何でしょうか。それは、弟子たちの故郷であり、主イエスの出身地でもあります。更に言うならば、主イエス・キリストが、弟子たちを招き、活動を開始した原点でもあります。
しかし、この御言葉の中で、一番、重要な言葉は、「あなたがたより先に」という言葉であります。「あなたがたより先に」ということは、弟子たちも、いずれは、ガリラヤに帰る、ということが、前提となっているのであります。つまり、主イエス・キリストは、いずれは、弟子たちが、ガリラヤに帰ることを知っている。だから、先回りして、ガリラヤで待っているのだ、ということなのであります。
 そのように、考えるならば、この「ガリラヤ」という言葉にも、更なる重みが出てくるのではないでしょうか。なぜ、弟子たちは、「ガリラヤ」に帰るのでしょうか。
主イエス・キリストの弟子であることを、辞めるために、ガリラヤに帰るのです。彼らは、主イエス・キリストを裏切り、見捨て、逃げ出しました。主の弟子として、失敗をし、過ちを犯し、挫折した。あんなにも愛していたはずの主を見捨てた。そのような罪悪感を抱えながら、行き詰まりを感じながら、故郷ガリラヤに帰えっていくのであります。
 その意味で、この「ガリラヤ」は、今の弟子たちにとって、彼らの罪のゆえに、挫折のゆえに、行きついた末路なのであります。
 しかし、その罪と闇、挫折と失敗の中に、主イエス・キリストが、先に、待っていてくださる。この罪の闇の只中にこそ、復活の主との新しい出会いがあるのです。自分の弱さを知り、自分の無力さをしり、自分の罪による罪悪感を知り、うなだれて帰る、その道の中に、復活の主との出会いの場が、備えられているのであります。
 私達が、見たい、出会いたい、という場所には、復活の主はいらっしゃらなかった。私達が、目を背けたくなるような、罪の闇の現実の只中にこそ、復活の主との新しい出会いが、既に、先立って備えられているのであります。ここに、主イエス・キリストの復活における大きな恵みがあり、私達に対する、深い慰めがあるのではないでしょうか。
 墓の中にいた天使。この天使は、最後に、「弟子たちとペテロに告げなさい」と言われました。ここで、ペテロの名だけが、特別に記されています。なぜでしょうか。
この言葉には、続きがあります。「あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる」と。
 既に、主イエス・キリストは、御自身の「死と復活」を予告していました。弟子たちは、とりわけ、ペトロは、その主に対して、「たとえ、死ぬようなことがあっても、私は躓かない」と決意表明したのです。そのペテロに対して、主イエス・キリストは、「あなたは、三度、わたしを知らない、と言うだろう」。このように、彼の罪を予告したのであります。
 ペトロは、主イエス・キリストの言われた通りに、三度にわたり、徹底的に、主イエス・キリストとの関係を否定しました。キリストとの関係を、自らの口で、断ち切ってしまったのであります。
しかし、主イエス・キリストは、ペトロとの関係を、断ち切ることはなかった。ペトロの挫折や罪、弱さを、誰よりもよく知ってくださり、その挫折の只中で、ペトロと、新たに出会うことを、あの救いの約束を果たすことを、その御心に留めていてくださるのであります。
 復活の出来事は、ただただ、キリストが、死に勝利されただけではありません。そのことを通して、罪や挫折の中にある者が、キリストと新たに出会い、罪が赦され、新しく、主と共に生きる喜びへと生き直していく。その幸いの出来事でもあるのです。
 主イエス・キリストは、過去の偉人ではありません。過去の偉人と呼ばれる人々には、素晴らしい墓が建てられました。
 しかし、主イエス・キリストに墓はありません。なぜなら、今も生きているから。そして、私達の罪や挫折や失敗の闇の中にこそ、主イエス・キリストは、先立っていてくださり、私達を待っていてくださる。
そして、復活の主は、私達の罪を赦し、主のものへと、再び招き続けてくださる。更に、私達は、その主の御手の中で、主に結ばれることによって、神様の目に義とされ、聖とされ、永遠に生きるものへと招かれている。
 私達キリスト者にとって、この復活の主こそが、真の希望であり、拠り所でもあります。そして、今、キリスト者ではない人にとっては、正に、主の招きの御言葉でもあるのです。 
復活の主イエス・キリストは、今日も、また、生きて仰せになります。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか」と。主は、今も生きて、私達を、この幸いへと招き、信じる者へと導いておられるのです。この恵みを、共に味わう者でありたいと思います。

〇祈り
天の神様、新しい御言葉の恵みに、心より感謝を申し上げます。私達の罪のために、命を捨てられた、御子の救いの恵みに深く感謝を申し上げます。御子は、三日目に、よみがえられました。このよみがえられた主は、私達の罪の現実の只中に立っていてくださり、私達を、主のものへと招き続けてくださいます。その幸いに深く感謝を申し上げると共に、改めて、あなたの前で罪あることを、心から懺悔申し上げます。どうか、主よ、私達の内に、復活の主にある、真の恵みと幸いとを、いつも、指し示し続けてくださり、希望をもって、日々を歩む者へと、私達を導いてください。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 09:11| 日記

2021年05月30日

ゆるゆるクリスチャントーク!クリスチャン料理家バツ1牧師

ハレルヤ!!主の御名を賛美します。

「ゆるゆるクリスチャントーク!クリスチャン料理家バツ1牧師」を配信します。

https://open.spotify.com/episode/2QzDBGlARROiQWi2xwDPVW?si=94d94e9e44784fad

お時間がある時にでも、お聞きいただければ幸いです(*- -)(*_ _)ペコリ
posted by 日本基督教団 石山教会 at 21:22| 日記

2021年5月30日 主日礼拝説教「神から誉れを受けるには」(音声)須賀 舞伝道師

ハレルヤ!!主の御名を賛美します!!

本日の礼拝説教を音声バージョンで配信します↓

https://open.spotify.com/episode/1MT44CiTYLMdFlX0BFwJ2a?si=59dd6c26dced41d1


近々、「ゆるゆるクリスチャントーク」も配信を予定しています!!!

posted by 日本基督教団 石山教会 at 13:56| 日記