2022年09月17日

2022年9月25日 礼拝予告

〇教会学校 9時15分〜
聖書:ルツ記1章11節〜19節a
説教:「ルツの民と神」

〇主日礼拝 10時30分〜
聖書:ヨハネによる福音書7章53節〜8章11節
説教:「ゆるされる」須賀舞副牧師

感染予防対策をした上で、礼拝をささげています。皆様のお越しを心よりお待ち申し上げます。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 08:58| 日記

2022年9月18日 主日礼拝説教「恐れず語る」須賀工牧師

聖書:使徒言行録18章1節〜11節、ヨシュア記1章1節〜9節

 今朝、私達に与えられた御言葉は、使徒言行録18章1節から11節の御言葉です。改めて、1節から4節の御言葉を、お読みします。「その後、パウロはアテネを去ってコリントへ行った。ここで、ポントス州出身のアキラというユダヤ人とその妻プリスキラに出会った。クラウディウス帝が全ユダヤ人をローマから退去させるようにと命令したので、最近イタリアから来たのである。パウロはこの二人を訪ね、職業が同じであったので、彼らの家に住み込んで、一緒に仕事をした。その職業はテント造りであった。パウロは安息日ごとに会堂で論じ、ユダヤ人やギリシア人の説得に努めていた」。
 アテネを後にしたパウロは、続いて、コリントに到着しました。聖書によると、パウロは、ここで、アキラとプリスキラに出会ったと言われています。
 アキラとプリスキラは、クラウディウス帝によるユダヤ人退去命令(50年頃)によって、住む場所を失いました。そして、コリントに移住をしていたようです。また、聖書によると、彼らは、パウロと同様に、テント造りを職業としていました。
 元々、パウロは、ファリサイ派の律法学者でありました。但し、当時の律法学者は、律法の専門知識の他に、職業技術を身に着けること。そのことが習わしでもありました。パウロもまた、その習わしに従って、テント造りの技術を身に着けていたのではないか。そのように考えられます。
 いずれにせよ、居場所を失ったクリスチャン夫妻と孤立無援のクリスチャン伝道者が、出会うことが出来たわけであります。いやそれだけではありません。この後、アキラとプリスキラは、パウロの協力者、同労者となります。正に、伝道の担い手とされていくことになるのです。実際に、パウロの手紙には、この二人の名前が、よく出てくるのです。
 このように、私達が、伝道を続けていく時、思いもよらぬ、出会いが、神様によって与えられるのだ、ということ。このような仕方で、神様は、伝道するものを支えてくださるのだ、ということ。そのことの幸いが、ここで、まず指し示されていると言えるのです。
 聖書によると、パウロは、住み込みで、テント造りに励みながら、安息日には、会堂で、伝道をしていたようです。要するに、平日は、生活費を稼ぎ、安息日には、御言葉を語る。そのような生活を送っていたようであります。
 しかし、5節から、事情が変ったようです。改めて、5節の御言葉をお読みします。「シラスとテモテがマケドニア州からやって来ると、パウロは御言葉を語ることに専念し、ユダヤ人に対してメシアはイエスであると力強く証しした」。
 聖書によると、シラスとテモテが、マケドニア州からやって来ると、パウロは、御言葉を語ることに専念した。そのように言われています。つまり、パウロは、生活のために働くことを止めて、伝道に専念した、ということでありましょう。
 コリントの信徒への手紙二11章9節には、次のような言葉があります。「あなたがたのもとで生活に不自由したとき、だれにも負担をかけませんでした。マケドニア州から来た兄弟たちが、わたしの必要を満たしてくれたからです」。
 ここで、言われている「マケドニア州から来た兄弟たち」というのが、「シラスとテモテ」であると考えられます。彼らが、パウロに、必要なものを満たしてくれた。それ故に、伝道に専念できた。そのことが、ここから分かるのであります。
 但し、この話は、これで終わりません。フィリピの信徒への手紙4章15節には、次のような言葉があります。「フィリピの人たち、あなたがたも知っているとおり、わたしが福音の宣教の初めにマケドニア州を出たとき、もののやり取りでわたしの働きに参加した教会はあなたがたのほかに一つもありませんでした」。
要するに、フィリピの教会が、パウロの伝道のために、献金を集め、それをシラスとテモテに託し、届けてくれたのだ、ということなのであります。この献金を受け取ったパウロが、伝道に専念することができたわけです。生活のために働くのではなく、フルタイムで、伝道のために、献身することができたのであります。
 これは言い換えるならば、献金を集め、それをパウロに届ける。そのことを通して、フィリピの教会もまた、パウロの伝道に参加をしたのだ、と言えるのではないでしょうか。パウロの伝道は、パウロ個人の業ではありません。思いを一つにできる同労者と出会い、教会による温かい支援に支えられながら、続けることができたのであります。
 それは、この町に、断固として御言葉を宣べ伝え続けていかねばならない。何よりも、そのような主の御心があったからではないでしょうか。そのために、必要なものや人を、主が備えてくださった。そのように言えるのです。
 そして、何とかして、主の救いに応えたい。そのような、沢山のキリスト者による熱い使命感。そのようなものもあったからではないかと思うのです。ただ単に、伝道者のために、お金を支援してあげたい。そういう思いだけではなくて、伝道が推進してほしい。この町にも、御言葉が根付いてほしい。自分たちも伝道に加わりたい。そのような熱い伝道意識が、教会を突き動かしていくのであります。
 パウロは、必要とあれば、自分の生活費を、自分で稼ぎながら伝道をする、そういう気構えのようなものももっています。しかし、彼はまた、そのようなあり方に、固執することはありません。協力が得られ、伝道に専念できるならば、喜んでその協力を受け入れていく。そういう自由なスタイルの伝道者でありました。
 しかし、ここにもまた、どのような状況にあっても、正に、折を得ても得なくても、御言葉を宣べ伝えたい。そのようなパウロの強い使命感が、込められているのではないかと言えるのであります。
伝道者とは、こうでなければいけない。伝道は、こうしなければいけない。教会は、こうあるべきだ。そのような、独自の価値観から解放され、どんなスタイルでも、御言葉を伝えなければいけない。そのような伝道に対する使命感が、パウロを縛るのではなく、むしろ、自由にしたのではないか。そのように思うのであります。
 このように、パウロの強い使命感だけではなく、同労者の強い思い、教会の熱い思い、神様の強い御心が、ここで伝道を更に推進させていくことになるのであります。
 但し、ここで、忘れてはいけないことがあります。それは、人間の強い使命感には、必ず、限界がある、ということであります。人の強い思いだけで、伝道はできないのだ、ということであります。そのことについては、また後で、お話をしたいと思います。
 そのことを踏まえた上で、6節から8節の御言葉をお読みいたします。「しかし、彼らが反抗し、口汚くののしったので、パウロは服の塵を振り払って言った。『あなたたちの血は、あなたたちの頭に降りかかれ。わたしには責任がない。今後、わたしは異邦人の方へ行く。』パウロはそこを去り、神をあがめるティティオ・ユストという人の家に移った。彼の家は会堂の隣にあった。会堂長のクリスポは、一家をあげて主を信じるようになった。また、コリントの多くの人々も、パウロの言葉を聞いて信じ、洗礼を受けた」。
 聖書によると、パウロは、ユダヤ人に対して、力強く、主イエスが救い主であると、証ししました。主イエスこそが、約束された救い主に他ならない。そのことを力強く伝えたのであります。
 しかし、力強く伝道をすればするほど、それに対する反発もまた、強く表れたようです。そこで、パウロは、とても厳しい言葉を吐いて、会堂を後にしました。簡単に言えば、「たとえ、あなたがたが滅んでも、私の責任ではない」。これが、パウロの吐いた最後の言葉です。 
 しかし、このように、厳しい言葉を吐きながら出て行ったパウロの行先は、こともあろうに、会堂の隣に住んでいた「ユスト」の家だったわけです。そして、そこで、伝道を続けたわけです。その結果、皮肉なことに、会堂の責任者クリスポまでもが、一家を上げて洗礼を受けたのであります。
 パウロは、今までも、必ず、ユダヤ人に向かって、御言葉を語り続けてきました。それは、ユダヤ人が、神様の救いの歴史を担った民であったからです。そして、その救いの歴史は、主イエス・キリストの救いに至る歴史であります。その意味で、ユダヤ人もまた、その救いの流れの中に、先立って、招かれた大切な人々なのです。この厳しい言葉も、そして、あえて隣で、伝道を続けたのも、それもまた、パウロのユダヤ人に対する、救いの可能性を信じてのことだったのであります。そして、クリスポが救われたことは、その可能性が、間違いではない。そのことの一番の証しではないかと思うのです。
 ユダヤ人は、異邦人の手を借りて、主イエス・キリストを十字架に架けました。しかし、そのユダヤ人すらも、主は赦してくださる。今、自分もクリスポもまた、信仰によって救われている。律法からは得られなかった、真の喜び得ることが出来ている。あなたがたも、この神様の憐れみや救いを味わってほしい。その    
パウロの強い思いが、ここによく表されているのではないかと思います。
 さて、このように、コリントでの伝道は、ユダヤ人による反対を受けながらも、神様の支え、諸教会や同労者の支えの中で、順調に、いやむしろ、力強く推進されていったように見えます。
しかし、実際は、どうだったのでしょうか。9節から10節の御言葉をお読みします。「ある夜のこと、主は幻の中でパウロにこう言われた。『恐れるな。語り続けよ。黙っているな。わたしがあなたと共にいる。だから、あなたを襲って危害を加える者はない。この町には、わたしの民が大勢いるからだ。』パウロは一年六カ月の間ここにとどまって、人々に神の言葉を教えた」。
 神様は、ここでパウロに対して「恐れるな。語り続けよ。黙っているな」と呼びかけました。逆に言うならば、パウロは、この時、「恐れていた」「語れなくなっていた」ということが分かるのであります。
コリントの信徒への手紙一2章3節の御言葉をお読みします。「そちらに行ったとき、わたしは衰弱していて、恐れに取りつかれ、ひどく不安でした」。
 コリントで伝道を始めた時、パウロは、不安だったのであります。恐れていたのであります。語ることが出来なかったのであります。これが、パウロの見えざる現実だったのであります。
 表面的には、力強く語っているように見えるかもしれない。しかし、心の中では、不安しかなかった。パウロは、ここで、人間の使命感が、いかにもろく、弱いものであったか。その現実を知ったのではないでしょうか。どれだけ強い使命感があっても、それは有限でしかない。限界がある。その現実を知り、挫折をしたのではないかと思うのであります。その弱さを、隠しながら、力強く、伝道をしたのではないかと思うのです
 そのパウロに対して、「恐れるな。語り続けよ。黙っているな」と、神様は、語りかけてくださいました。つまり、神様は、このパウロの内面にある弱さ、痛み、苦しみを、つぶさに知っていて下さったのだ、ということなのであります。弱さを隠し、不安や恐れを、強い使命感で隠しながら、伝道を続けてきた。しかし、神様は、自分の弱さを知っておられる。神様は、自分の挫折をしていてくださる。
 その上で、私は、あなたを見捨てない。いや、むしろ、私が共にいる。だから、大丈夫だ。そのように、励ましを与えてくださるのであります。
 伝道は、パウロ個人の使命感では行えないのです。同労者が必要であり、教会の助けが必要であり、そして、何よりも、神様が共にいる。その恵みの確かさが必要なのであります。
 神様は、ここで、このように言われます。「この町には、わたしの民が大勢いる」と。つまり、このコリントには、神様が選び、召される人が、大勢いるのだ、ということです。
 パウロの伝道は、パウロが、力強く語る。そのことだけで行われているのではないのです。パウロが、語るよりも前に、神様が、御自分の民を選び、召しておられるのであります。それ故に、パウロの伝道は、この神様の選びと召しの御業への奉仕に過ぎないのであります。つまり、伝道の主体は、あくまでも、神様御自身なのであります。
 伝道には、常に恐れが、伴います。私達の家庭に、社会に、国に伝道をする時、そこに恐れが生じるのであります。正しく伝えられるか。これを伝えたら嫌われるのではないか。馬鹿にされるのではないか。明確な実りが、得られないのではないか。そのような恐れや痛みや不安が伴うのであります。
 しかし、大切なことは、私達が、何かをする前に、既に、主が選び、召しておられるのだ、ということを知ることであります。何よりも、私達が、その主の選びによって、先立って捕らえられたのであります。私達が、神様を選んだのではないのです。神様が、誰よりも先に、あなたを選び、神の民として召してくださった。
 そして、今、私達は、その神様の御業に仕え、その恵みと憐れみの御業を、もう一度、見出すために、語り続けるのであります。伝道を続けるのであります。
 伝道が、「不振」と言われる時代であります。「カルト」という言葉が、再度、流行した今、伝道が、益々、難しくなると言えるかもしれません。これからは、一番近い社会でもある、家庭への伝道、信仰継承も難しい時代になるかもしれません。
 しかし、恐れなくて良いのです。語り続けていいのであります。私達ではなく、神様が、先立って働いてくださる。かつて、あなたを、憐れみによって選んだように、今、あなたの目の前の人にも、主が先立って働きかけている。そして、かつて、私達の内におきた、救いの奇跡を、私達に、何度でも見せて下さる。そのことを覚え、主に信頼を置いて、伝道することを止めるのではなく、むしろ、ますます力強く、主イエスは救い主であると、力強く証しし続ける。そのような群れでありたいと思います。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 08:50| 日記

2022年09月13日

2022年9月11日 主日礼拝説教音声「生きた神」須賀工牧師

聖書:使徒言行録17章16節〜34節、イザヤ書46章5節〜13節
説教:「生きた神」須賀工牧師

@Spotify
https://open.spotify.com/episode/7vrSf9R83WAUygkCvfnWoM?si=6d34863f6f5b4b6b

AYouTube
https://youtu.be/gY9e5urJ81U

皆様の上に、神様の祝福が豊かにありますように、心よりお祈り申し上げます。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 10:53| 日記