フィリピの信徒への手紙4章2節〜7節、詩編94篇19節
説 教 「思いわずらうな」
今日は、子ども祝福合同礼拝です。今年から、礼拝後の祝福の祈りの時は、子どもたちの頭の上に手を置いて祈ります。これは、子どもたちの心と体に、そして、これからの人生に、神さまの祝福や愛が溢れることを願う儀式です。頭の上に手を置くのは、イエスさまが、子どもたちの上に手を置いてお祈りされたからです。皆さんの頭の上に、普段、誰かが手を置いたりしますか? 親戚の叔父さんに会えば「大きくなったな」と言われて、頭を撫でられるかもしれません。小さかった頃は「かわいいね」って、色んな人に頭を撫でられたと思います。それも全部、今日の祝福式の祝福と似ています。それは、その子のことを大切に思っているのです。皆さんも、赤ちゃんの頭を撫でたことがあるのではないでしょうか。それは、とっても素適なことです。
でも、テレビでは、人の頭の上に手を置くのではなく、人の頭を叩く人がいます。それは、とってもおかしいです。頭は叩くものではなく守るものです。地震の時、テーブルの下に隠れて、出てきたらヘルメットを被るのは、頭を守るためです。頭は、とっても大事なのです。頭がダメージを受けたら、元気でも体が動かなくなることもあります。だから、戦うスポーツでも、頭の後頭部は叩かないのがルールです。叩いたら、減点か反則負けです。だから、友だちとふざけ合っていても、頭は叩いてはいけません。自分がされたら嫌ですね。自分がされたら嫌なことは人にしない。これは、晴嵐小学校のお便りにも書いてありました。でも、聖書には、もっと凄いことが、それは「人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい」って書いてあります。
ところで、今日の聖書のお話しには、叩いてはいないと思いますが、対立や言い合いをする人が出てきます。簡単に言えば口喧嘩です。もしかしたら、朝、口喧嘩してきた人がいるかもしれません。今日のお話の中で口喧嘩をしていたのは「エボディア」と「シンティケ」という2人の婦人です。2人は、ヨーロッパで最初に建てられたフィリピ教会のクリスチャンなのに、口喧嘩をしていたのです。でも、お互いに考えていることが違えば、誰でも分かり合えなくなることはあります。口喧嘩の次は、叩き合いになるかもしれません。今、世界で戦争が起こっていて、みんな「戦争反対」って言いますが、口喧嘩や叩き合うのも立派な戦争です。だから、それが分かっている人は、その代わりに、もう口も聞かなくなります。
それで、教会を建てたパウロは、口喧嘩をしている2人を、それぞれ傍に呼んで、宥めてお願いしたのです。頼むから「主において同じ思いを抱きなさい」って。パウロは「イエスさまの心を持ちなさい」と言ったのです。イエスさまの心というのは、自分のことしか考えない心ではなくて、相手の気持になって考えられる心です。それを、思いやりと言います。思いやりが無い人は、自分の気持ちを全部、相手に要求します。普通は、それで相手が嫌だと思っていることが分かったら、それ以上、自分の気持ちを押し付けたりはしません。それでも、自分の要求を押し通そうとする時、喧嘩になります。その時に、少しでも相手の気持ちを考えられたら、喧嘩には、ならないのです。だから、思いやりがある人は、相手に要求することがあっても、相手の気持ちを考えて、自分の要求を抑えられる人なのです。そうして、思いやりがあれば、お互いに考えていることが違っても、少しずつ歩み寄ることもできるのです。
イエスさまは、思いやりの塊の方でした。自分のことは全く考えませんでした。イエスさまは、父なる神さまのことと、私たち人間のことを考えてくださいました。イエスさまは、神さまと人間の、その、どちらの気持ちも、よく理解してくれたのです。だから、パウロは、口喧嘩をしていた「エボディア」と「シンティケ」の2人だけではなく、教会の他の人にもお願いしました。3節「真実の協力者よ、あなたにもお願いします。この二人の婦人を支えてあげてください。二人は、命の書に名を記されているクレメンスや他の協力者たちと力を合わせて、福音のためにわたしと共に戦ってくれたのです」と。パウロは「俺たちは、みんな仲間だから、2人の間に入って2人から話しを聴いて2人が仲直りできるようにしてくれ」って言っているみたいです。
先週、幼稚園では、子どもたちの絵画展が2日間ありました。子どもたちが描いた絵は、1つとして同じものはありませんでした。同じお題のものを書いても、どこかが、何かが違います。象さんの絵を描いても色々です。それは、みんな考えていることが違うからです。そしたら、子どもたちは、毎日、喧嘩ばかりしているのでしょうか。子どもたちは、仲良く楽しく遊んでいます。それは、先生たちが、子どもたちを支えているからです。だから、子どもたちは、自分のことだけではなく、他のお友達の気持ちも考えられる子どもに成長していきます。それなのに、大人が喧嘩していたら、子どもたちに笑われてしまいますね。笑わないかな、でも、とても心配します。
だから、パウロは言うのです。4節5節 「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。あなたがたの広い心がすべての人に知られるようになさい。主はすぐ近くにおられます」と。「喜び」というのは、自分が満足して喜ぶことではありません。「主において」なので、イエスさまのように喜ぶのです。それは、自分ではなく、相手を喜ばせることです。人に何かをしてあげたら自分も嬉しくなります。でも、自分の要求を相手に押し付けても、相手は喜ばないし自分も嬉しくありません。更にパウロは「イエスさまが、もうすぐ戻って来る」と言います。みなさんは、イエスさまが戻って来た時に、喧嘩をしている姿を見てもらいたいですか。それとも、みんなで助け合って、喜び合っている姿を見てもらいたいですか。それが、パウロの言う「広い心」寛容です。寛容は、相手の気持ちを考えられる心、自分の気持ちと違う人の気持ちを認められる心のことです。それが、イエスさまの心です。
だから、パウロは言っています。6節7節「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう」と。教会の中で、誰かが喧嘩を始めると、喧嘩をしていると、思いわずらってしまいます。心配してしまいます。これから、教会は、どうなるのだろうって。周りの人は、みんな嫌な気持ちや暗い気持ちになって、みんなの心が苦しくなります。もう教会は終わりだって思います。喧嘩をしている人たちは、みんな憎み合って死んでしまう。周りの人たちも、みんな、悲しい思いをして死んでしまう。もうめちゃめちゃだって思います。
でも、パウロは「思いわずらうな」心配するなって言うのです。神さまに、仲間がいることを感謝して、お祈りしようって言うのです。そうすれば、みんなの心と考えが、この世界の平和のために来てくれたイエスさまの心と考えに変わっていくよって言うのです。イエスさまの心は、相手の気持ちになって考えられる心、思いやりです。イエスさまは、その思いやりによって、私たちが罪にまみれて、暗い気持ちになって生きていくことが無いように、死んでいくことが無いように、私たちの罪の身代わりになって十字架に架かって死んだのです。人を愛するっていうのは、自分の気持ちを押し通すことではなくて、相手の気持ちに寄り添うことなのです。そのためには、自分の気持ちを抑えることも大事です。だから、聖書には「霊の結ぶ実は、愛であり」という言葉がありますが、その最後の実は「自制」です。自制とは、自分の気持ちを抑えることです。それも愛なのです。
別に、教会が大聖堂ではなくても良いのです。少しくらい不便なことがあっても良いのです。便利を求めたら切りがありません。それは律法です。「何々しなければならない」となるからみんな苦しくなります。そうではなくて、お互いに安心して、平和な気持ちで日曜日の朝を共に過ごせるだけで良いでしょ。聖書のお話しを聞いて、礼拝が終われば「元気だった? この前の日曜日、休んでいたけど、体の具合が悪かった? また、来週、元気で会おうね」って。それだけで良いでしょ。今年のクリスマスは、コーヒーブレイクの時間が戻ってきます。そこでは、お茶菓子を手に、そんな会話ができれば嬉しいです。そしたら「教会に来て良かったな」って思えます。「ああ、クリスマスだな」って思えます。
でも、若い頃は反抗期もあり「こうしろああしろ、何で俺が言ってんのにせえへんねん。あいつは生意気や。ふざけやがって」とか、そういう気持ちにもなるでしょう。でも、大人になって、それをやったら大人気ないです。自分のことしか考えられない。それが罪です。だから、私も18歳のクリスマスに「神さま、赦してください」って洗礼を受けて神学校に行ったのです。その日、牧師は、私の頭に手を置き「父と子と聖霊とのみ名によって、バプテスマ(洗礼)を授ける。アーメン」って祈ってくれました。牧師になった時も、先輩や仲間が私の頭に手を置き祈ってくれました。その時、イエスさまの愛や仲間の愛が、心と体に染み渡りました。それも祝福でした。
今日、子どもたちの上に、また、大人の人たちの上にも、イエスさまの十字架の愛が豊かに注がれています。だから、自分のことばかり考えないで、相手の気持ちになって考えられるイエスさまの心を、自分の心の中に持って、生きていきましょう。
2023年11月12日
2023年11月12日 主日礼拝説教「思いわずらうな」大坪信章牧師
posted by 日本基督教団 石山教会 at 08:06| 日記
2023年11月09日
2023年11月19日 礼拝予告
〇教会学校 9時15分〜
聖書:コロサイの信徒への手紙3章12節〜17節
説教:「愛はすべてを完成させるきず」
〇主日礼拝 10時30分〜
聖 書:ルカによる福音書7章1節〜10節、申命記32章45節〜47節
説 教:「主イエスの命令」大坪信章牧師
感染予防対策をした上で、礼拝を献げています。みなさまのお越しを心よりお待ち申し上げます。
聖書:コロサイの信徒への手紙3章12節〜17節
説教:「愛はすべてを完成させるきず」
〇主日礼拝 10時30分〜
聖 書:ルカによる福音書7章1節〜10節、申命記32章45節〜47節
説 教:「主イエスの命令」大坪信章牧師
感染予防対策をした上で、礼拝を献げています。みなさまのお越しを心よりお待ち申し上げます。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 16:22| 日記
2023年11月05日
2023年11月5日 主日礼拝説教「心からあふれ出ること」大坪信章牧師
ルカによる福音書6章43節〜49節、箴言4章20節〜27節
説 教 「心からあふれ出ること」
今日で、6章が終わりますが、6章半ばから始まったイエスさまの『平地の説教』も終わります。振り返れば、その教えは『逆転の発想』(逆転の真理)でした。おそらく、その当時、その教えを聞いた人々は、度肝を抜かれたことでしょう。それは、私たちにも言えることです。イエスさまは、20節で「貧しい人々は、幸いである、神の国はあなたがたのものである」と言われましたが、人は、それこそが不幸だと考えます。しかし、イエスさまは、24節で「富んでいるあなたがたは、不幸である、あなたがたはもう慰めを受けている」と言われましたが、人は、富み栄えることこそ、幸せの絶頂だと考えます。また、イエスさまは、27節で「敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい」と言われましたが、敵対者には、憎しみの感情が湧くものです。そして、38節では「与えなさい。そうすれば、あなたがたにも与えられる」と言われましたが、与えれば、自分は明らかに損失を被るのです。だから、その御言葉を信じ、その御言葉に聞き従って生きるというのは、とても勇気のいることです。
イエスさまは、この一連の説教を終えるに当たって、2つの譬えを話されました。それが『実を結ぶ木の譬え』と『家と土台の譬え』です。これらの譬えは、イエスさまの『平地の説教』の終わりの教えなので、単なる個の教えというだけではなく、イエスさまの全説教の結論にもなっています。現に、この2つの譬えは、マタイ福音書の『山上の説教』のほうでも、最後を締め括る教え、いわゆる、結論になっています。だから、この2つの譬えには、これまでの教え以上に、メッセージ性が強く表れていると言えます。それは、共通のメッセージ性です。ただ、この2つの譬えは、表現としては、それぞれ全く別物です。『実を結ぶ木の譬え』は、農場や農地を譬えの下地にしています。そして、45節で「人の口は、心からあふれ出ることを語るのである」とあるように、言葉に重きが置かれています。しかし『家と土台の譬え』のほうは、町や村を譬えの下地にしています。そして、46節で「わたしを『主よ、主よ』と呼びながら、なぜわたしの言うことを行わないのか」とあるように、行ないに重きが置かれています。このように、2つの譬えは、それぞれ表現の仕方に違いがありますが、強く表れているメッセージ性だけは、それぞれが同じ目的を果たしています。
それでは、この2つの譬えのメッセージ性について、見ていきたいと思います。『実を結ぶ木の譬え』は、44節の「木は、それぞれ、その結ぶ実によって分かる」という内容です。つまり、結果の如何が最大の焦点だということです。それで、43節では「悪い実を結ぶ良い木はなく、また、良い実を結ぶ悪い木はない」と言われています。だから、それが、どんなに良い木に見えても、その木が悪い実を結べば、その木は悪い木です。逆に、どんなに悪い木に見えても、その木が良い実を結べば、その木は良い木です。良くも悪くも、その結果が物を言うのです。要するに、何事も結果次第なのです。このことについては『家と土台の譬え』のほうも同じです。その内容を『実を結ぶ木の譬え』と比較検討するため、44節の御言葉のように纏めると次のようになります。「家は、それぞれ、その建て方によって分かる。」つまり、この譬えも、結果の如何が最大の焦点だということです。だから、49節で、どんなに立派な家が建っているように見えても、洪水になって川の水が家に押し寄せた時、家が倒れれば、その家には問題があったのです。その結果が物語るのです。そして、その結果は、火を見るよりも明らかなのです。
そうして、この2つの譬えは、一方が言葉に重きを置き、もう一方は行ないに重きを置きながら、それぞれが同じ目的としての結果に向かっています。だから、この2つの譬えは、ルカとマタイ双方の福音書で、どちらか一方が欠けたりせず、まるで、表裏一体の教えのようです。というより、一方の譬えは、言葉、もう一方の譬えは、行ないを扱っているので、そういう意味でも、2つの譬えは、切り離して考えることはできないとも言えます。これは、イエスさまが、律法の専門家から「律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか」と尋ねられた時に言われた言葉に似ています。その時、イエスさまは「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である」と言われました。また「第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている」(マタイ福音書22章35節〜40節)と言われました。このように、愛が、一面的ではなく表裏一体の教えであるのと同じように、生き方も、決して一面的ではないのです。それは、表裏一体の教え、つまり、言葉と行ないです。言葉だけが立派だとか、行動だけが立派だというのは、生き方においては成立しないのです。言葉が立派なら、その人は行動も立派です。また、行動が立派なら、その人は言葉も立派です。だから、言葉が上品なのに、行動に品が無いということや、行動が上品なのに、言葉に品が無いということは、有り得ないのです。
だから、イエスさまの仰る通りです。43節44節「悪い実を結ぶ良い木はなく、また、良い実を結ぶ悪い木はない。木は、それぞれ、その結ぶ実によって分かる。茨からいちじくは採れないし、野ばらからぶどうは集められない」のです。ただ、イエスさまが、ここで、わざわざ挙げた木の具体例は「茨」と「野ばら」で、両方とも悪い木です。つまり、これが、私たちの罪の現実の姿なのです。しかし、イエスさまが、ここで重視されるのは「茨」や「野ばら」ではなく、むしろ「いちじくは採れないし」「ぶどうは集められない」という悲しみです。要するに、イエスさまは、私たちが「良い木」となり「良い実」を結び、「良い実」を採って集めたいと思っておられるのです。そこで、イエスさまは、この『実を結ぶ木の譬え』が言わんとすることを、更に詳しく説明するため、今度は『心の倉から良いものを出す、善い人の譬え』について話されました。45節「善い人は良いものを入れた心の倉から良いものを出し、悪い人は悪いものを入れた倉から悪いものを出す」と。この「善い人」というのは「良いもの」を心の倉の中に蓄える人です。その「良いもの」とは、イエスさまが、これまで話してこられた説教であり、教えであり御業です。或いは、聖書の旧約で、神が成された驚くべき御業の数々や、また、その出来事や救いの歴史でもあります。
今この季節、丁度10月下旬から、動物たちは、冬眠するために、食糧を蓄えて準備しています。同じように、私たちも「良いもの」である御言葉や神の御業を心の倉に蓄えて、冬の時代に備えておく必要があります。こうして、45節「人の口は、心からあふれ出ることを語る」という御言葉が実現し、私たちは、自らの口で、良い知らせである福音を語るのです。心に秘めてあること、心に満ちあふれているものが、人の口を吐いて出てくるからです。だから、尚更、その心の中は「良いもの」で、あふれさせる必要があります。その御言葉や御業は、ただ知っているというのではなく、信じているということが大事です。ローマの信徒への手紙10章10節には「実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われる」とあるからです。人は、心からあふれ出る、その自分が信じる言葉を語ることによって救われるのです。
だから「良い木」になって「良い実」を結びたい人、つまり「善い人」として「良いものを入れた心の倉から良いものを出し」「心からあふれ出ること」を語りたい人は、神を呼び求めます。なぜなら「良いもの」は、自分の中には存在せず、この世の中を見渡しても無いからです。讃美歌21の386番にもあるように『良いものみな、神から来る』からです。詩編104篇21節も「若獅子は餌食を求めてほえ、神に食べ物を求める」と表現されています。イエスさまは、求める者には、神が聖霊を与えてくださるとも言われます。それは、求める者に必ず与えられる神の言葉、御言葉です。
しかし、イエスさまは言われます。46節「わたしを『主よ、主よ』と呼びながら、なぜわたしの言うことを行わないのか」と。イエスさまは、私たちを愛し、罪と滅びの世界から救い出してくださる救い主です。だから、私たちの叫びを聞き、その願いに応えてくださる主、慈しみ深く、憐み深い方です。しかし、私たちは、その言葉を聞くだけで終わらせて、その御言葉が紡ぎ出す、神の救いの物語を始めようとも、生きようともしないのです。だから、イエスさまは言われます。47節以下「わたしのもとに来て、わたしの言葉を聞き、それを行う人が皆、どんな人に似ているかを示そう。それは、地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を置いて家を建てた人に似ている。洪水になって川の水がその家に押し寄せたが、しっかり建ててあったので、揺り動かすことができなかった。しかし、聞いても行わない者は、土台なしで地面に家を建てた人に似ている。川の水が押し寄せると、家はたちまち倒れ、その壊れ方がひどかった」と。昔、高校生の時、柔道の授業中、畳が敷かれた広間の真正面には、額が掲げられていました。そこには、次の言葉が記されていました。「言われる前にやる者、上の上、言われてやる者、中の中、言われてもやらない者、下の下」イエスさまは、私たちが、御言葉の教えや説教を聞いても、聞くだけで終わることを悲しまれます。私たちに与えられた最も良いものは福音です。それは、この暗くなりつつある時代に光を輝かせ、救いがどこにあるのかを指し示し、その救いの御名を誉め讃えさせてくれます。福音は、私たちの身代わりとなり、十字架に架かって死なれたイエスさまの十字架の出来事です。また、その死から3日目に復活され、私たちに新しい命の希望を与えた復活の出来事です。私たちは「心からあふれ出ることを語る」のです。この信仰と希望と愛の御言葉を語り、この御言葉を行なって生きる人になりましょう。
説 教 「心からあふれ出ること」
今日で、6章が終わりますが、6章半ばから始まったイエスさまの『平地の説教』も終わります。振り返れば、その教えは『逆転の発想』(逆転の真理)でした。おそらく、その当時、その教えを聞いた人々は、度肝を抜かれたことでしょう。それは、私たちにも言えることです。イエスさまは、20節で「貧しい人々は、幸いである、神の国はあなたがたのものである」と言われましたが、人は、それこそが不幸だと考えます。しかし、イエスさまは、24節で「富んでいるあなたがたは、不幸である、あなたがたはもう慰めを受けている」と言われましたが、人は、富み栄えることこそ、幸せの絶頂だと考えます。また、イエスさまは、27節で「敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい」と言われましたが、敵対者には、憎しみの感情が湧くものです。そして、38節では「与えなさい。そうすれば、あなたがたにも与えられる」と言われましたが、与えれば、自分は明らかに損失を被るのです。だから、その御言葉を信じ、その御言葉に聞き従って生きるというのは、とても勇気のいることです。
イエスさまは、この一連の説教を終えるに当たって、2つの譬えを話されました。それが『実を結ぶ木の譬え』と『家と土台の譬え』です。これらの譬えは、イエスさまの『平地の説教』の終わりの教えなので、単なる個の教えというだけではなく、イエスさまの全説教の結論にもなっています。現に、この2つの譬えは、マタイ福音書の『山上の説教』のほうでも、最後を締め括る教え、いわゆる、結論になっています。だから、この2つの譬えには、これまでの教え以上に、メッセージ性が強く表れていると言えます。それは、共通のメッセージ性です。ただ、この2つの譬えは、表現としては、それぞれ全く別物です。『実を結ぶ木の譬え』は、農場や農地を譬えの下地にしています。そして、45節で「人の口は、心からあふれ出ることを語るのである」とあるように、言葉に重きが置かれています。しかし『家と土台の譬え』のほうは、町や村を譬えの下地にしています。そして、46節で「わたしを『主よ、主よ』と呼びながら、なぜわたしの言うことを行わないのか」とあるように、行ないに重きが置かれています。このように、2つの譬えは、それぞれ表現の仕方に違いがありますが、強く表れているメッセージ性だけは、それぞれが同じ目的を果たしています。
それでは、この2つの譬えのメッセージ性について、見ていきたいと思います。『実を結ぶ木の譬え』は、44節の「木は、それぞれ、その結ぶ実によって分かる」という内容です。つまり、結果の如何が最大の焦点だということです。それで、43節では「悪い実を結ぶ良い木はなく、また、良い実を結ぶ悪い木はない」と言われています。だから、それが、どんなに良い木に見えても、その木が悪い実を結べば、その木は悪い木です。逆に、どんなに悪い木に見えても、その木が良い実を結べば、その木は良い木です。良くも悪くも、その結果が物を言うのです。要するに、何事も結果次第なのです。このことについては『家と土台の譬え』のほうも同じです。その内容を『実を結ぶ木の譬え』と比較検討するため、44節の御言葉のように纏めると次のようになります。「家は、それぞれ、その建て方によって分かる。」つまり、この譬えも、結果の如何が最大の焦点だということです。だから、49節で、どんなに立派な家が建っているように見えても、洪水になって川の水が家に押し寄せた時、家が倒れれば、その家には問題があったのです。その結果が物語るのです。そして、その結果は、火を見るよりも明らかなのです。
そうして、この2つの譬えは、一方が言葉に重きを置き、もう一方は行ないに重きを置きながら、それぞれが同じ目的としての結果に向かっています。だから、この2つの譬えは、ルカとマタイ双方の福音書で、どちらか一方が欠けたりせず、まるで、表裏一体の教えのようです。というより、一方の譬えは、言葉、もう一方の譬えは、行ないを扱っているので、そういう意味でも、2つの譬えは、切り離して考えることはできないとも言えます。これは、イエスさまが、律法の専門家から「律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか」と尋ねられた時に言われた言葉に似ています。その時、イエスさまは「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である」と言われました。また「第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている」(マタイ福音書22章35節〜40節)と言われました。このように、愛が、一面的ではなく表裏一体の教えであるのと同じように、生き方も、決して一面的ではないのです。それは、表裏一体の教え、つまり、言葉と行ないです。言葉だけが立派だとか、行動だけが立派だというのは、生き方においては成立しないのです。言葉が立派なら、その人は行動も立派です。また、行動が立派なら、その人は言葉も立派です。だから、言葉が上品なのに、行動に品が無いということや、行動が上品なのに、言葉に品が無いということは、有り得ないのです。
だから、イエスさまの仰る通りです。43節44節「悪い実を結ぶ良い木はなく、また、良い実を結ぶ悪い木はない。木は、それぞれ、その結ぶ実によって分かる。茨からいちじくは採れないし、野ばらからぶどうは集められない」のです。ただ、イエスさまが、ここで、わざわざ挙げた木の具体例は「茨」と「野ばら」で、両方とも悪い木です。つまり、これが、私たちの罪の現実の姿なのです。しかし、イエスさまが、ここで重視されるのは「茨」や「野ばら」ではなく、むしろ「いちじくは採れないし」「ぶどうは集められない」という悲しみです。要するに、イエスさまは、私たちが「良い木」となり「良い実」を結び、「良い実」を採って集めたいと思っておられるのです。そこで、イエスさまは、この『実を結ぶ木の譬え』が言わんとすることを、更に詳しく説明するため、今度は『心の倉から良いものを出す、善い人の譬え』について話されました。45節「善い人は良いものを入れた心の倉から良いものを出し、悪い人は悪いものを入れた倉から悪いものを出す」と。この「善い人」というのは「良いもの」を心の倉の中に蓄える人です。その「良いもの」とは、イエスさまが、これまで話してこられた説教であり、教えであり御業です。或いは、聖書の旧約で、神が成された驚くべき御業の数々や、また、その出来事や救いの歴史でもあります。
今この季節、丁度10月下旬から、動物たちは、冬眠するために、食糧を蓄えて準備しています。同じように、私たちも「良いもの」である御言葉や神の御業を心の倉に蓄えて、冬の時代に備えておく必要があります。こうして、45節「人の口は、心からあふれ出ることを語る」という御言葉が実現し、私たちは、自らの口で、良い知らせである福音を語るのです。心に秘めてあること、心に満ちあふれているものが、人の口を吐いて出てくるからです。だから、尚更、その心の中は「良いもの」で、あふれさせる必要があります。その御言葉や御業は、ただ知っているというのではなく、信じているということが大事です。ローマの信徒への手紙10章10節には「実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われる」とあるからです。人は、心からあふれ出る、その自分が信じる言葉を語ることによって救われるのです。
だから「良い木」になって「良い実」を結びたい人、つまり「善い人」として「良いものを入れた心の倉から良いものを出し」「心からあふれ出ること」を語りたい人は、神を呼び求めます。なぜなら「良いもの」は、自分の中には存在せず、この世の中を見渡しても無いからです。讃美歌21の386番にもあるように『良いものみな、神から来る』からです。詩編104篇21節も「若獅子は餌食を求めてほえ、神に食べ物を求める」と表現されています。イエスさまは、求める者には、神が聖霊を与えてくださるとも言われます。それは、求める者に必ず与えられる神の言葉、御言葉です。
しかし、イエスさまは言われます。46節「わたしを『主よ、主よ』と呼びながら、なぜわたしの言うことを行わないのか」と。イエスさまは、私たちを愛し、罪と滅びの世界から救い出してくださる救い主です。だから、私たちの叫びを聞き、その願いに応えてくださる主、慈しみ深く、憐み深い方です。しかし、私たちは、その言葉を聞くだけで終わらせて、その御言葉が紡ぎ出す、神の救いの物語を始めようとも、生きようともしないのです。だから、イエスさまは言われます。47節以下「わたしのもとに来て、わたしの言葉を聞き、それを行う人が皆、どんな人に似ているかを示そう。それは、地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を置いて家を建てた人に似ている。洪水になって川の水がその家に押し寄せたが、しっかり建ててあったので、揺り動かすことができなかった。しかし、聞いても行わない者は、土台なしで地面に家を建てた人に似ている。川の水が押し寄せると、家はたちまち倒れ、その壊れ方がひどかった」と。昔、高校生の時、柔道の授業中、畳が敷かれた広間の真正面には、額が掲げられていました。そこには、次の言葉が記されていました。「言われる前にやる者、上の上、言われてやる者、中の中、言われてもやらない者、下の下」イエスさまは、私たちが、御言葉の教えや説教を聞いても、聞くだけで終わることを悲しまれます。私たちに与えられた最も良いものは福音です。それは、この暗くなりつつある時代に光を輝かせ、救いがどこにあるのかを指し示し、その救いの御名を誉め讃えさせてくれます。福音は、私たちの身代わりとなり、十字架に架かって死なれたイエスさまの十字架の出来事です。また、その死から3日目に復活され、私たちに新しい命の希望を与えた復活の出来事です。私たちは「心からあふれ出ることを語る」のです。この信仰と希望と愛の御言葉を語り、この御言葉を行なって生きる人になりましょう。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 10:21| 日記