マタイによる福音書27章32節〜44節、エレミヤ書37章21節
「侮辱され罵られる主」
受難節レントの始まりと共に歩み始めたイエスさまの十字架の道行きは、今日いよいよ、最終地点に辿り着きます。32節「兵士たちは出て行くと」とあるのは、兵士たちがイエスさまを精神的、肉体的に侮辱した密室の空間である総督官邸を出て行くと、ということです。そして、彼らは、イエスさまに十字架を背負わせて、処刑場に向かっていきました。十字架には、縦棒と横棒があります。縦棒は、処刑場に準備されており、イエスさまが背負われたのは横棒(横木)のみだったと言われています。既にイエスさまは、徹夜で幾度も盥回しにされ、裁判を受け、その上、侮辱や暴行によって疲れ果てておられたので、途中で何度も倒れるほど、十字架の道行きは辛い道のりでした。そこで、見兼ねた兵士たちは、十字架の道行きを見物していた群衆の中の「シモンという名前のキレネ人に出会ったので、イエスの十字架を無理に担がせた」のです。「キレネ」は、今のアフリカ北部の町です。その町の出身であるシモンは、この時、過ぎ越しの祭りのためにエルサレムへ巡礼に来ていました。そして、群衆の人集りに釣られ、何の気なしに野次馬の一人としてイエスさまの十字架の道行きを見物していたのでしょう。しかし、ここで兵士たちがシモンに出会い、シモンにイエスさまの背負っていた十字架を無理に担がせたのは、たまたま(偶然)ではありません。シモンは「こんな大勢の中から、なぜ自分が?」と思ったでしょう。けれども、聖書において偶然はありません。聖書では、このような出来事(出会い)を運命とか選びと言います。それは、自分の意志を超えたところの話しです。自分が何かをしたからとか、何かをしなかったからとか、そういう話しではないのです。このシモンのようにイエス・キリストとの関係が生まれるは、神の御意志です。実に、この出来事は、正確に訳せば次のようになります。「兵士たちは出て行くと、シモンという名前のキレネ人に“出会うことになっていた”ので、イエスの十字架を無理に担がせた」と。
今や欧米のキリスト教圏の国々でさえ、キリストとの出会いは珍しいものとなっています。キリスト教が政治に結びついたり、この国の歴史の中でもブームとして持て囃されたりもしました。けれども、キリスト教が、そのような何かに結びついているうちは、信仰によって与えられる神の力を期待することはできません。それが期待できるのは、神の子・救い主である主イエス・キリストと、私たち自身が結び付いた時です。私たちがイエスさまと出会ったと言えるのは、このシモンが、そうであるように、そこに神の意志(選び)が働きます。シモンも、そのイエスさまとの出会いを理解したからこそ、マルコ福音書の、この同じ場面で「アレクサンドロとルフォスの父」と紹介されました。そうして、我が子に信仰を継承し、彼自身もイエスさまを信じる一人として生涯を閉じたと考えられます。考えられるというのは、記録がないからです。しかし、子どもたちの信仰継承の確かさにより、その可能性は高いと言えます。私たちは、このシモンの物語を読み、シモンは、イエスさまの十字架を背負わされる羽目になって可哀想とか、嫌な役回りを担わされたと、そういう見方をしているなら、まさに、それが、この出来事を、たまたま(偶然)にしたということなのです。シモンは、イエスさまの後ろ姿を見ながら歩いた、とルカ福音書には記されています。シモンは、そのイエスさまの後ろ姿を見ながら、このイエスさまの代わりに十字架を背負うという出来事を通して、嫌な役を負わされたと思ったのではありません。むしろシモンは「この十字架は、わたしが負うべき十字架だった」と思ったのです。
そして、33節34節「ゴルゴタという所、すなわち『されこうべの場所』に着くと」兵士たちは「苦いものを混ぜたぶどう酒を飲ませようとしたが」イエスさまは「なめただけで、飲もうとされなかった」とあります。「されこうべの場所」は、どくろや骸骨の丘と呼ばれる所です。それは、犯罪者が埋葬されずに十字架の上で晒され、骨が散乱した状態を言ったのです。ただ、その丘が白い石灰岩で出来ていたので、本当に、どくろのように見えたというのもあるようです。イエスさまのご遺体の場合は、十字架に架けられた、その日のうちにアリマタヤのヨセフやニコデモによって墓へ葬られたので、晒されませんでした。こうして、イエスさまがゴルゴタの処刑場に到着して、まず兵士たちがしたことは「苦いものを混ぜたぶどう酒を」飲ませようとすることでした。これは、薬用のぶどう酒とも言われ、麻酔のように痛みを和らげました。麻酔には、痛みが無くなる鎮痛の効果、また、鎮静や健忘などの記憶障がいを引き起こす意識消失の効果があります。しかし、イエスさまは、それを「なめただけで、飲もうとされなかった」のです。マルコ福音書では「お受けにならなかった」と記されています。ヨハネ福音書では十字架の上で「受けると」その直後「息を引き取られた」とあります。それが意味するのは、兵士たちでさえ十字架刑の痛み苦しみを見るに見兼ね、それらの痛み苦しみを和らげようと差し出した麻酔の手段を、イエスさまは拒絶されたのです。だから、イエスさまの十字架による罪の贖い(罪の赦し)は、私たちに対して完全だったと言えるのです。イエスさまは、十字架の苦難(苦しみ)を受けるに当たり、贖罪において全く手を抜かれなかったからです。
その後35節、彼らはイエスさまを、35節36節「十字架につけると、くじを引いて、その服を分け合い、そこに座って見張りをして」いました。なぜなら兵士たちは、戦争の勝者が敗者から戦利品を奪うように、犯罪人が身に着けていたものを自分の物にできたからです。そして、犯罪人が裸にされた事実は、総督官邸で行なわれた精神的侮辱の続きです。衣服については、先週の礼拝で、寒さを凌ぐ効果の他、身分を示す効果があったと言った通り、ユダヤでは、衣服を剥がすことが、その人から人格や力を取り去ることを意味しました。このような侮辱を兵士たちは、衣服を分け合うために「くじ」を使い娯楽のように行ないました。これは、今でいうサイコロを振るような遊び感覚です。当時の「くじ」は石でした。石を投げて、その状態を物事の判断基準としました。ただ、聖書では、くじのことを『神が定めた人生の運命』と捉えます。だから、兵士たちは知らなかったのです。このように、神の子が十字架に架けられ、今や非業の死を遂げる時に自分たちが転がしていた石は、まさに自分の運命だったということを。イエスさまの悲しみも知らず、賭け事に興じていた兵士たちは、神の御手の中で転がされていたのです。これが十字架を取り巻く兵士たちの姿でした。兵士たちの中の一体誰が、イエスさまへの嘲笑、侮辱は、自分こそが受けるべきだと思ったでしょうか。その後、兵士たちは、イエスさまの頭の上に、つまり、柱の頂上部に、37節「これはユダヤ人の王イエスである」とピラトが書いた「罪状書き」を掲げました。兵士たちは、これまでイエスさまを、まるで権威がないユダヤ人の王のように侮辱してきましたが、その侮辱は、この罪状書きにも言えることなのです。というのは、イエスさまを十字架に付けた人々にしてみれば、この罪状書きは「これはユダヤ人の王と自称したイエスである」という皮肉や侮辱のためのオプションだったからです。
そして、38節を見ると「折から、イエスと一緒に二人の強盗が、一人は右にもう一人は左に、十字架につけられていた」とあります。しかし、十字架を取り巻く人々の侮辱は、犯罪人たちには向きませんでした。39節40節「そこを通りかかった人々は、頭を振りながらイエスをののしって」言いました。「神殿を打ち倒し、三日で建てる者、神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い」と。何か情けないですね。「頭を振りながら」ののしる人間の姿は。でも、それは、いつかの私たちの姿だったのではないでしょうか。イエスさまは、確かに「神殿を打ち倒し三日で建てる」と言われましたが、その神殿とは、御自分のことを言われたのです。だからイエスさまは、十字架上で死なれた3日目に復活する、これも“ことになっている”のです。欲望だけで肉的に生きていては、このような理解に及ばないのです。達観して霊的に求めて生きなければ本当のことは分からないのです。更に41節〜43節「同じように、祭司長たちも律法学者たちや長老たちと一緒に、イエスを侮辱して」言いました。「他人は救ったのに、自分は救えない。イスラエルの王だ。今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう。神に頼っているが、神の御心ならば、今すぐ救ってもらえ。『わたしは神の子だ』と言っていたのだから」と。イエスさまは、御自分について「神の子」だと明言されませんでした。なぜなら、イエスさまの業(働き)は、旧約の時代から待ち望まれてきた救い主の業そのものだったからです。だから、大切なのは、むしろ人々が「あなたは神の子です」と信じることです。それで、総督ピラトや宗教指導者たちが「お前は神の子なのか」問うた時、イエスさまは「それは、あなたが言ったことです」と答えられたのです。そして、このあと、あろうことか、44節「一緒に十字架につけられた強盗たちも、同じようにイエスをののしった」のです。十字架を取り巻く人々に共通するイエスさまへの侮辱や罵りは「十字架から降りてみろ」です。しかし、私たちの罪を背負われたイエスさまが十字架から降りるということは、私たちが自らの罪を背負い、その罪の裁きを受けるということになります。それは、永遠の死を意味します。イエスさまが、私たちの侮辱、罵りを遮ることなく、すべて被られたのは、私たちを罪と滅びから救う完全な救いを与えようとされたからなのです。だから、私たちの救いは、この十字架に付けられた救い主イエスさまを信じることによって与えられます。こうして、十字架の上に掲げられた罪状書きは、イエスさまが真のユダヤ人の王とだけ書かれ、更には、ヘブライ語、ラテン語、ギリシア語で書かれたことで、イエスさまは、真の全人類の王である、そのことを全世界に証明する標識になりました。私たちの救いは、この十字架の主イエスさまを信じることによって与えられます。レントの中、私たちも、十字架を取り巻く人々の一人として、しばし、自らの胸に手を置いて過ごすことができれば幸いです。
2025年03月30日
2025年3月30日 主日信徒立証礼拝説教「侮辱され罵られる主」大坪信章牧師
posted by 日本基督教団 石山教会 at 10:18| 日記
2025年03月29日
2025年4月6日 礼拝予告
〇教会学校 9時15分〜
聖 書:ヨハネによる福音書13章12節〜20節
説 教:「信じるようになるために 弟子の足を洗う」
〇主日聖餐礼拝 10時30分〜
聖 書:マタイによる福音書27章45節〜56節、エレミヤ書38章1節〜9節
説 教:「十字架上の祈り」大坪信章牧師
感染予防対策をした上で、礼拝を献げています。みなさまのお越しを心よりお待ち申し上げます。
聖 書:ヨハネによる福音書13章12節〜20節
説 教:「信じるようになるために 弟子の足を洗う」
〇主日聖餐礼拝 10時30分〜
聖 書:マタイによる福音書27章45節〜56節、エレミヤ書38章1節〜9節
説 教:「十字架上の祈り」大坪信章牧師
感染予防対策をした上で、礼拝を献げています。みなさまのお越しを心よりお待ち申し上げます。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 22:47| 日記
2025年03月23日
2025年3月30日 礼拝予告
〇教会学校 9時15分〜
聖 書:マタイによる福音書26章69節〜75節
説 教:「ペトロ、主イエスを知らないと言う」
〇主日信徒立証礼拝 10時30分〜
聖 書:マタイによる福音書27章32節〜44節、エレミヤ書37章21節
説 教:「侮辱され罵られる主」大坪信章牧師
感染予防対策をした上で、礼拝を献げています。みなさまのお越しを心よりお待ち申し上げます。
聖 書:マタイによる福音書26章69節〜75節
説 教:「ペトロ、主イエスを知らないと言う」
〇主日信徒立証礼拝 10時30分〜
聖 書:マタイによる福音書27章32節〜44節、エレミヤ書37章21節
説 教:「侮辱され罵られる主」大坪信章牧師
感染予防対策をした上で、礼拝を献げています。みなさまのお越しを心よりお待ち申し上げます。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 17:44| 日記