2019年01月27日

2019年1月27日 主日礼拝説教「忍耐と慰めの神」須賀 工 牧師

聖書:ローマの信徒への手紙15章1節〜6節

 今朝、私達に与えられた御言葉は、ローマの信徒への手紙15章1節から6節の御言葉であります。1節の御言葉をお読みします。「わたしたち強い者は、強くない者の弱さを担うべきであり、自分の満足を求めるべきではありません。」
 「強い者」とは、どういう意味でしょうか。これは、「腕力が強い」「体力が強い」という意味ではありません。これは、「信仰が強い」ということです。
 それでは、「信仰が強い」とは、どういう意味でしょうか。「神様の掟に従って生きる」ということでしょうか。「修行をしながら生きる」ということなのでしょうか。
 「信仰の強い人」とは、実は、「神様に頼れる人」のことであります。人間の力に頼るのではなく、神様に寄りかかれる人です。自分の強さよりも、自分の弱さを受け入れ、神様の可能性に全てを委ねている人です。あるいは、「神様に希望を置いている人」、そのようにも言えるかもしれません。
 つまり、「信仰の強い人」とは、自分の弱さを知る人であり、それ故に、神様の可能性にかけている人なのであります。そして、何よりも、信仰の強い人とは、神様を通して、本当の救い、本当の喜び、本当の希望を知っている人なのだと言えるかもしれません。それが、「信仰の強い人」なのであります。
 では、「信仰の弱い人」とは、どういう人なのでしょうか。それは、「人の力に頼ってしまう人」です。そこに信仰の弱さがあります。神様に委ねることのできない弱さがあります。自分の可能性にかけてしまう弱さがあります。それが、「信仰の弱い人」であります。神様の可能性ではなく、自分の可能性にかけてしまう。人間的には、強い人かもしれません。しかし、その先には、勿論、限界や失望もつきものであります。本当の救い、本当の喜び、本当の希望を見出せないこともあるかもしれません。ここに信仰の弱い人の苦しみがあるのです。
 教会は、神様の家族です。家族は、一人ではありません。自分だけが喜ぶのは、家族ではありません。喜びを共有できるのが家族であります。自分が嬉しい、自分だけが満足している。それが、本当の家族ではありません。一つの喜びを、共に分かち合えることが、神様の家族であります。
 だから、パウロは、ここで次のように記しています。「わたしたち強い者は、強くない者の弱さを担うべきだ」と。本当の喜びを知る者は、喜びを知らない人を担うべきなのだと。本当の救いを知る者は、本当の救いを知らない人の重荷を担うべきなのだと。そのように記しているのです。「弱い人が強くなれ」ではないのです。強い人が、弱い人に歩み寄ることが大切なのであります。
 2節の御言葉をお読みします。「おのおの善を行って隣人を喜ばせ、互いの向上に努めるべきです。」「善を行う」とは、どういうことでしょうか。それは、この文脈から申し上げるならば、「弱い人の弱さや重荷を担う」ということでありましょう。弱さを担うということは、その人の痛みや苦しみを、自分のものとして受け入れるということであります。それは、自分の満足を捨てることです。そして、その人の苦しみや痛みや失望を、その人と同じように味わうということでもあります。そこには、忍耐が必要であります。
 しかし、ただ苦しみを共に負えば良いというわけではありません。「隣人を喜ばせる」ということが大事なのであります。苦しみを苦しみのままで終わらせるのではないのです。忍耐が忍耐のままで終わるのではないのです。その苦しさ、重荷の先に、真の喜び、真の救い、真の希望がある。そのことを共に喜ぶ。そのことを共に味わう。それが大切なのであります。
 苦しみを共にするだけが、本当の善ではないのであります。そこで真の救いを共に喜ぶ。それが、神様の家族として大切なこと。そして、神様の家族を立ちあげる大切な機会となるのであります。本当の喜びを知るものが、躓いている人たちを置いていくのではなく、自分の満足を捨てて、忍耐してでも、一緒に喜ぶ。共に喜ぶ。喜びへと共に歩みを進めていく。それがここで大切なことなのであります。なぜなら、私達は、本当の喜びが何かを知っている者だからであります。
 このメッセージで、更に大切なことがあります。それは、信仰の強い人・本当の喜びを知る人間が、いつでも、本当の喜びを味わいながら生きている、ということであります。その人自身が、喜びをいつでも味わいながら生きているということであります。
 3節の御言葉をお読みします。「キリストも御自分の満足はお求めになりませんでした。『あなたをそしる者のそしりが、わたしにふりかかった』と書いてあるとおりです。」
 主イエス・キリストも、神様の独り子でありながら、自分の満足を求めませんでした。むしろ、人間の弱さ、罪、汚れを担い、そしりを受けてもなお、忍耐をもって十字架で死んで行かれたのであります。このキリストの忍耐を通して、私達は、本当の救い、本当の喜び、本当の希望を知ることができたのであります。
 そして、今、私達に喜びが与えられている。そのキリストが、今、あなたと共に生きてくださり、この弱い私に、喜びを与え続けてくださっている。そのキリストに支えられながら、そのキリストに喜びを与えられながら、隣人と共に歩んでいく。隣人の重荷を共に担っていく。それが、この御言葉において、とても大切なことなのであります。
 私の力で何かをしてあげるのではなく、キリストから本当の喜びを頂きながら、そのキリストに支えられながら、隣人の苦しみを自分の苦しみとして担いつつ、しかし、同時に共に喜びへと歩みを進めていくことができるのであります。
 4節の御言葉をお読みします。「かつて書かれた事柄は、すべてわたしたちを教え導くためのものです。それでわたしたちは、聖書から忍耐と慰めを学んで希望を持ち続けることができるのです。」
 「かつて書かれた事柄」とは何でしょうか。それは、「旧約聖書」のことです。旧約聖書は、決して、単なるイスラエルの歴史の書ではないのです。それ自体が、実は、私達に忍耐を教え、慰めを教え、そして、希望を示す御言葉なのであります。言うならば、旧約聖書もまた、神様の救いを指し示すものなのだと言えるでありましょう。
 大事なことは何でしょうか。それは、御言葉を通してのみ、私達は、忍耐を知り、慰めや希望を知ることができるのだということです。御言葉だけが、共に生きることの大切さを教え、共に喜び、共に苦しみ、共に生きることを教えているのであります。御言葉だけが、共に希望を味わい、共に喜びを味わう世界を教えてくれるのだということなのであります。
 大事なことは、この御言葉に、共に立ち帰る信仰生活なのであります。弱さを担うことの大切さ、喜びを分かち合う大切さは、ただ、傷をなめあい、励まし合うだけではないのです。この御言葉に、共に立ち帰ることから始まるのであります。
 5節から6節の御言葉をお読みします。「忍耐と慰めの源である神が、あなたがたに、キリスト・イエスに倣って互いに同じ思いを抱かせ、心を合わせて声をそろえて、わたしたちの主イエス・キリストの神であり、父である方をたたえさせてくださいますように。」
 最後は、祈りの言葉です。共に心を合わせて、声を合わせて、主を礼拝できるようにと祈っています。信仰の強い人、弱い人、様々な人間がいます。しかし、一つの家族です。一人の主を賛美する共同体であります。私達が、その違いを越えて、心を合わせて礼拝を捧げることができるように祈るものでありたいと思います。強いものが弱いものを担い、全ての人が一つの喜びに連なって、主を賛美することができるように。主が、そのために、生きて働いてくださるように祈る。これもまた、私達信仰者の大切な姿なのかもしれません。
 私達は皆違うものです。しかし、同じ神様、同じ信仰を頂いた家族であります。その中には、弱い者もいれば強いものもいます。しかし、全ての人が、キリストを通して救われた大切な存在です。それを共に思い起こし、弱さや欠けを共に担いあいながら、共に喜ぶ共同体でありたいと思います。そして、強い人は、自分を誇るのではなく、弱い人は、そこで諦めてしまうのではなく、お互いが、喜びを共有しあいながら、共に礼拝を捧げていく。そのために、まずは主に祈り、御言葉に立ち帰る。そこから全てが始められる。そこに、私達の姿があるのです。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 09:16| 日記

2019年01月22日

2019年1月27日 礼拝予告

〇教会学校 9時15分〜
主題:「ムナの譬え」
聖書:ルカによる福音書19章11節〜27節
*礼拝後、分級があります。
*保護者の方々も、是非、共にお越し下さい。

〇主日礼拝 10時30分〜
主題:「忍耐と慰めの神」須賀 工 牧師
聖書:ローマの信徒への手紙15章1節〜6節
*礼拝後、五分の集い、信仰の学びがあります。

皆様のお越しを心よりお待ちもうしあげます。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 10:20| 日記

2018年1月20日 主日礼拝説教「神の国は義と平和と喜び」須賀 工 牧師

聖書:ローマの信徒への手紙14章13節〜23節

 今朝、私達に与えられた御言葉は、ローマの信徒への手紙14章13節から23節の御言葉であります。
 ローマの教会には、大きく分けて二つのグループがありました。一つは、ローマ人のグループです。もう一つは、ユダヤ人のグループです。この二つのグループには、食べ物を巡る信仰的なトラブルがありました。一方は、何でも食べても良いと考えました。それが、ローマ人のグループです。もう一方は、偶像に備えられた肉は、絶対に食べたくないと考えました。それが、ユダヤ人のグループです。
 当時、食肉は、異教の神殿で、お供え用に売られていたようです。そのため、ユダヤ人たちは、その肉には、絶対に手をつけたくなかったのであります。なぜなら、彼らは、律法−神様の掟−に縛られていたからであります。異教のもの、偶像に触れたものは、汚れの象徴だったのであります。
 しかし、この問題は、決して食べ物だけの問題ではありません。キリスト者としての生き方の問題でもあります。一方では、自由に生きられることを主張しました。しかし、もう一方では、ルールに従った厳格な生き方を主張しました。つまり、キリスト者としての生き方を巡って、この両者が、お互いに裁き合い、軽蔑し合っていたのであります。それが、ローマ教会の現実でありました。
 それでは、使徒パウロは、どちらの立場に立っているのでしょうか。パウロは、「自由に生きられる側」に立っているのであります。14節には、次のように書かれています。「それ自体で汚れたものは何もないと、わたしは主イエスによって知り、そして確信しています。汚れたものだと思うならば、それは、その人にだけ汚れたものです。」
 主イエス・キリストによって救われる。その救いは、完全な救いであります。掟に従うことによるのではなく、キリストに結ばれることで救われている。だから、掟から自由になって生きることができる。古い掟に縛られた者としてではなく、キリストという新しい服を着て歩むことができる。古い時代が去り、新しい時代を自由に生きることができる。それが、キリスト者の本来の姿なのであります。
 それでは、パウロは、ユダヤ人の主張を否定しているのでしょうか。15節の御言葉をお読みします。「あなたの食べ物について兄弟が心を痛めるならば、あなたはもはや愛に従って歩んでいません。食べ物のことで兄弟を滅ぼしてはなりません。キリストは、その兄弟のために死んでくださったのです。ですから、あなたがたにとって善いことがそしりの種にならないようにしなさい。」
 パウロは、キリスト者が自由に生きられるのだと語ります。しかし、その自由を押しつけてはいけないのだと、ここで語っている。つまり、自由を押しつけ、兄弟を傷つける。そして、滅ぼしてしまう。そういうことがないように。そのように語っているのではないでしょうか。どれだけ良い主張であったとしても、それが、押しつけられ、相手を縛り付けるものであるならば、そこに愛はないのだということです。
 自由を押しつけられ、汚れたものを無理に食べさせられるのです。確信がないままに、「これで良いのかなぁ」と思いながら、食べたくないものを食べさせられる。これが、本当の自由なのでしょうか。いや、むしろ、それは人に支配され、縛られていることでしかない。そして、そこには、本当の自由や愛はないのだと言うのです。
 では、このような、生き方の違いは、どのようにして、埋めていけるのでしょうか。どのようにして、私達は、「愛に従って生きること」ができるのでしょうか。13節の御言葉には、次のように書かれています。「従って、もう互いに裁き合わないようにしよう。むしろ、つまずきとなるものや、妨げとなるものを、兄弟の前に置かないように決心しなさい」。
 「つまずきとなるもの」とは何でしょうか。それは、この文脈では、自由を主張することです。あるいは、自分が良いと思う自己主張であります。この自己主張を兄弟の前には、置かないようにする。これが、まず大切なのであります。
 では、どうしたら、そのような生き方が出来るのでしょうか。それが、20節の御言葉であります。「食べ物のために神の働きを無にしてはなりません。すべては清いのですが、食べて人を罪に誘う者には悪い物となりました。肉も食べなければぶどう酒も飲まず、そのほか兄弟を罪に誘うようなことをしないのが望ましい。あなたは自分が抱いている確信を、神の御前で心の内に持っていなさい。自分の決心にやましさを感じない人は幸いです。」
 私達は、キリスト者であります。そして、キリストの恵みの中で、自由に生きることが許されています。そして、目の前の人もまた、同じように自由に生きて欲しいと願う。
 しかし、その自由を押しつけることはできない。では、どうしたらよいか。あなたの確信、あなたの主張は、神様の御前で、あなたの心の中に置いておけば良いと言うのです。神様が、それを見つめていてくださるということであります。神様が、あなたの思いや主張をきいてくださる。それで良いのだというのです。あなたの正しさは、神様が知っていてくださる。それで良い。あなたのすべきことは、あなたの自己主張やあなたの思いを心にしまい、目の前の人を受け止めて生きていくこと。自由であるならば、自分の主張を、神様の前で、心にしまい、差し控えていく。そのような自由もあるのだということです。
 自分の思いは、神が知っている。神様だけが、それを受け止めていてくださる。そのことを深く思いつつ、今、目の前にいる隣人を、受け止めて生きていく。そこに本当の自由を生きるキリスト者がいるのではないかと思うのであります。
 自己主張だけの人生は、本当の自由ではないのです。なぜなら、自己主張は、行き過ぎれば、他人を縛りつけ、自分を縛りつけてしまうから。しかし、キリストの恵みの中を行く人は、自分を捨てる自由、自分から解放される自由を得て、生きることができるのであります。
 17節の御言葉をお読みします。「神の国は、飲み食いではなく、聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです。」
 神の国とは何でしょうか。それは、神様が支配するところであります。教会は、神の国の入口とも言われる。教会から始まる神の国は、人間の自己主張によって建っているのではないのであります。神様の御国は、神様の義−即ち、神様の御心−が支配する場所であります。そして、神様の御国は、神様と人、人と人とが、自由に愛し合える場所であります。そして、神様の御国は、死を越えて、苦難の越えて、本当の喜びを知ることができるところであります。
 人間が、人間の主張で支配する場所ではなく、教会から始まる神の国は、神様の御心に支配され、真の平和と喜びがあるところなのであります。教会には、様々な価値観を持つ人間が集められていきます。それもまた、教会の良いところであります。
 しかし、その価値観を押し付けあうところには、本当の意味で、神の国における主にある交わりは生きていないのであります。自分の正しい主張や思いは、神様がよく知っていてくださる。だから、その心を、そっと心に置いておく。そして、違いを受け止め、隣人に自らを受け渡していく。そこに、愛に従う、神の国の民がいる。そのことを覚えたい。 どのような自分であったとしても、どのような彼らであったとしても、その人を神様が、救い出してくださった。その人のために、御子イエス・キリストが死んでくださった。その恵みを思い起こし、その神様の救いの働きを無にするのではなく、むしろ、豊かな恵みとして受け止め、お互いを受け入れあいながら、神の民として、共に歩みを進めるものでありたいと思います。そのことを深く心に留め、主に思いを向け直しつつ、新たに歩み出す者でありたいと思うのです。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 10:13| 日記