2021年05月29日

2021年6月6日 礼拝予告

〇教会学校 9時15分〜
説教「徴税人レビを弟子にする」
聖書 マルコによる福音書2章13節〜17節

〇主日礼拝 10時30分〜
説教「主の復活」須賀 工牧師
聖書 マルコによる福音書16章1節〜11節

感染予防対策をした上で、礼拝をささげています。皆様のお越しを心よりお待ち申し上げます。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 15:35| 日記

2021年5月30日 主日礼拝説教「神から誉れを受けるには」須賀 舞伝道師

聖書:ヨハネによる福音書5章41節〜47節

 本日与えられた御言葉はヨハネによる福音書5:41-47です。
 本日の箇所は、イエス様がユダヤ人たちに対して、おっしゃった言葉です。そもそも、この言葉を投げかけられたユダヤ人たちとは、イエス様が38年間病に臥せっていた人を安息日に癒された時に、イエス様を激しく追求した人たちでした。イエス様が、安息日の律法に違反したことを批判した時、イエスさまは、わたしの父である神様が働かれているのだから、わたしも働くのだ、と言いました。これは、神様とイエスさまが等しいお方であるこということです。これについても、ユダヤ人たちは神への冒涜だと激しく怒りました。このような律法違反は死刑に値する、この男を殺してやろう、そう考えるほどでした。
 イエスさまは、そんなユダヤ人たちに対して、「あなたたちの内には神への愛がないことを、わたしは知っている(42節)。」と言います。イエスさまは、ここで、あなたたちには神様への愛がない、つまり、神様を信じますと言っておきながら、全然、神様を愛して大切にしていないではないか、と指摘されるのです。
 ヨハネによる福音書は、度々、イエス様が人を信じなかったということを伝えています。2:23以下には、イエスさまの奇跡を見て信じた人々を、イエスさまは信用されなかった、ということが伝えられています。イエスさまが、人を信用しなかったという言葉は非常にインパクトのある言葉だと思います。また、今日の箇所にもこんな言葉が出てきます。「どうして信じることができようか(44節)。」つまり、あなたたちは神様を信じることはできないだろう、とおっしゃっているのです。なぜ信じることができないのか。2:25には「イエスは、何が人間の心の中にあるかをよく知っておられたのである。」と書いてあります。それは本日の箇所でも同じことでしょう。つまり、人の心の内には、神様を信じられるようになる何かが何もないと言うことです。そして、人が神様を信じられるようになる何かとは、「神への愛」であるのです。イエスさまは、人の心の内にはそもそも「神への愛」がない、だから人は、神様を信じられない存在なのだとはっきりと言われるのです。では、そうであるなら、わたしたちは、どうしたら神様を信じられるようになるのでしょうか。
 この問いに答えるための鍵は、「聖霊」にあります。先週は、教会の誕生を祝うペンテコステ、聖霊降臨日の礼拝をまもりました。イエスさまの十字架の死と復活、昇天の出来事の後、ペンテコステの日に弟子たちは集まって祈りを合わせていました。そこに、聖霊が降り、この地上に教会が誕生したのです。その物語は、使徒言行録2章で詳しく伝えられています。
 ところで、この弟子たちに降った「聖霊」とは一体どのようなものでしょうか。キリスト教の信仰は父・子・聖霊なる三位一体の神様を信じる信仰です。つまり、聖霊も神様であると信じる信仰だということです。もし、全くキリスト教を知らない人々に、聖霊とは何かと聞かれたら、わたしたちはどのように説明するでしょうか。
 ヨハネによる福音書14:15以下には、「わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は、真理の霊である。」とあります。聖霊を与えることを約束してくださったイエスさまの言葉です。ここで聖霊とは「弁護者」と呼ばれています。「弁護者」とは、ギリシャ語で「パラクレートス」と言います。他の翻訳では「助け主」と訳されたりもします。つまり、聖霊とは、わたしたちを弁護する存在、守ってくださるものである。そして、助けてくださる存在であるということが分かると思います。クリスチャンはよく、「守られて」とか「導かれて」と言いますが、わたしたちを神様から引き離そうとするこの世の悪から、わたしたちを守ってくださり、またわたしたちを神様へと導いてくださる存在、それが聖霊であるのです。
 信仰においても同じです。「信仰へと導かれる」とよく言いますが。その導き手が助け主なる、聖霊であるのです。初めて聖書を読んだ時、教会に来た時、クリスチャンと接した時、理解できないような聖書の内容や、何でこんなことをするんだろうと思うことは沢山あるでしょう。わたしも疑問や不思議に思うことが沢山ありました。例えば、イエスさまの行われた、奇跡、復活がそうでした。また、あなたは罪人ですとか、敵を愛しなさいと説教で聞き、こんな宗教信じられるかと思ったこともあります。毎週の礼拝、奉仕や献金という目に見える形で自分たちを主に捧げる姿も、自分には真似できないだろうと思いました。しかし、自分の範疇ではどう頑張っても信じられないキリスト教が、信じられるようになる。神様を受け入れざるを得なくなる。イエスを主であると喜んで告白できるようになる。聖書に書かれたことに、アーメンと言わずにはおれなくなる。それは、聖霊なる神様のお導きなしにはできないことであるのです。
 話を戻しますが、わたしたちの心の内には、神様への愛が何一つないということを、イエスさまは、今日の御言葉を通してはっきりと指摘されています。それは、ユダヤ人であっても、信仰を持っていない人であっても、クリスチャンであっても同じです。このことをわたしたちが認めて受け入れるとき、わたしたちは、改めてわたしたちが神様のまなざしのうちに、生かされているということを知るようになるのではないでしょうか。神様を愛していない、大好きだと思っていない、大切にしていない、そんなわたしたちを、しかし、神様は、どこまでもとらえ続けてくださっているのです。どんなわたしたちであっても、神様の方から愛を注ぎ続け、助け導いてくださっているのです。
 今日の箇所で、イエスさまは、神様を本当の意味で信じてはいなかったユダヤ人たちに、「わたしを信じなさい」と招かれます。イエスさまを信じることで、神様の愛が分かるようになるからです。ユダヤ人たちは聖書を熱心に読んで、律法を守ることで救われると信じていました。その律法の代表的人物がモーセです。イエスさまは、モーセは信じるのに、どうしてわたしを信じないのかと問われます。なぜならば、モーセによって、主イエス・キリストが証しされているからです。それが本日お読みした、申命記18:15の御言葉です。「あなたの神、主はあなたの中から、あなたの同胞の中から、わたしのような預言者を立てられる。」これはキリストの預言、つまりイエスさまのことです。しかし、イエスさまが父の名によって、父になる神様の預言の成就として来ているにもかかわらず、ユダヤ人たちはそれを受け入れません。それは、聖書をどんなに熱心に読んでいても、律法をどれだけ厳格に守っていても、「モーセは、わたし(主イエス)について書いている(46節)。」ということを、聖書から読み取っていからなのです。
 そしてイエスさまは、ユダヤ人たちのある行動についても指摘されます。「互いに相手からの誉は受けるのに、唯一の神からの誉れは求めようとしないあなたたちには、どうして信じることができようか(44節)。」もっと人に褒められたい、もっと人からすごいと言われたい、尊敬されたい、そのために、努力しよう、頑張ろう。そのような生き方は、この世的には、何ら悪いことではないでしょう。努力すること、頑張ることは素晴らしいことですし、互いに褒めあうことも良いことであると思います。聖書も、そのことを否定してはいません。ここで一番重要なこと、イエスさまが問うておられることとは、あなたは、神様から誉れを受けるより、人から誉れを受けることの方が大事になっていないか、ということです。もっと言うならば、イエスさまはここで、はっきりと、ユダヤ人たちが神様からの誉れを、求めようともしていないと指摘するのです。
 ところで、「誉れ」とは、そもそも何でしょう。誉れを受けるとは、自分で自分を「すごい」と思うことです。また、他の人から「素晴らしい」と褒められることです。その凄さ、素晴らしさが、その人の「誉れ」でありましょう。そのひとの「価値」といってもいいかもしれません。あなたは、わたしは、価値ある存在だ、値高く、尊い存在だと、人から言ってもらいたい。しかし、神様はわたしたちをつくられたその初めから、あなたは「価値ある存在だ」「尊い存在だ」と言ってくださり、わたしたちを愛してくださっているのです。その神様が与えてくださっている誉れに、わたしたちはどれほど真剣に目を向けているでしょうか。
 イエスさまは、ユダヤ人たちに対して「わたしを信じなさい」と招かれました。それは、神様が、どれほど人を誉れ高い存在である思ってくださっているか、どれほどこの世を愛してくださっているかが、イエスさまを信じることで分かるようになるということです。神様の愛は、モーセを信じていても、いつまでたっても分からないのです。モーセの律法は、人間の罪を明らかにして、それを神様に訴え出るようなものでありました。人を罪人であると、断罪するようなものでありました。しかし、イエスさまはどうでしょう。イエスさまは、人の心の内の全てを知りながら、「わたしが父にあなたたちを訴えるなどと、考えてはならない(45節)。」と言われるのです。イエスさまを十字架にかけて殺そうと燃えていたユダヤ人に対して、わたしはあなたを訴えないとおっしゃるのです。これは赦しの言葉ではないでしょうか。真の愛の言葉ではないでしょうか。イエスさまのこの言葉にこそ、罪あるわたしたちをどこまでも愛し救おうとされる神様の御心があるのではないかと思うのです。
 そして、その神様の御心のままに、イエスさまは、罪ある者たちの身代わりとなって十字架にかけられました。その十字架の上で、イエスさまは、父なる神様に人の罪を訴え出るのではなく、罪の裁きを一身に受けてくださった。苦しみの全てを味わいつくしてくださったのです。主イエス・キリストの十字架によって、この世に神様の愛が示されました。わたしたちは、この愛を受け入れたいと思います。「わたしを信じなさい」という招きに応えたいと思います。イエスさまに従い、神様の愛に生かされて、この一週間も、神様と隣人に仕える者として歩んで参りたいと願います。

posted by 日本基督教団 石山教会 at 15:20| 日記

2021年05月25日

牧師日記㉟「1パーセントから2パーセントになるために」

ハレルヤ!!主の御名を賛美します!!!

雨が続きましたね(´;ω;`)

ようやく、太陽が見えました虹

けれど、考えてみたら、厚い雲の上では、変わることなく太陽があるんですよね〜

どれだけ、闇の多い日々が続いていても・・・(´;ω;`)

光は、変わることなく、輝いているんだ!

そんなことに気づけたら最高ですね(^▽^)/

最近、SNSで、沢山のクリスチャンと出会い、沢山の刺激を頂いています(o^―^o)ニコ

神様によって与えられた出会いに感謝です顔1(うれしいカオ)

SNSで、果敢に伝道を推進しているある教派のある人が、このように言っていました。

「1パーセントが2パーセントになるために」

1パーセントとは、日本のクリスチャン人口ね。(本当はそれ以下ですが、大体ね)

それが、2パーセントになるために・・・

そのために、いかなるツールも用い、様々な角度から、福音を伝道する・・・

なんか、素敵です(o^―^o)ニコ

勿論、伝道は、神様の御業です!!!私達人間の働きではありませんが・・・

その神様の御業のために用いられているならば・・・自分のできる最大限のことをしてみる!!

それが、どう用いられるかは、主に委ねる!!

これは、ある意味で、正に、知恵や知識、経験や挑戦心、そして、身をささげることであり、神様を信頼しているからこそできることですね。

自分の賜物を全て出しきって、主の為に仕えることの大切さを教えられたように思います(o^―^o)ニコ

主イエス・キリストは、私達のために、全てをささげてくださいましました。

その恵みに、完全に応えることはできませんが、

贖われた自分の命を、最大限に、主の為に、捧げられるクリスチャンでありたいと、身を正される思いであります(o^―^o)ニコ

そんな、自分も、先日、個人のアカウントで、YouTubeライブ配信をしてみたのですが・・・

電波の調子が悪くて、超カクカクしていました!!

「あれ、声が、遅れて・・・」みたいな感じでしたよ笑

失敗してもいいじゃない。失敗がどう用いられるかは、神様次第(⋈◍>◡<◍)。✧♡

喜びに溢れ、笑いに溢れ、ネタに溢れながら、主に与えられた伝道命令に、共に生きましょう!!

自分の教会が盛り上がればよいのではなく、1パーセントが2パーセントになるために・・・

共に祈りを合わせましょ!!賜物出し合いましょ!共に学びましょ!知識や経験を出し合いましょ!

全てのクリスチャンの皆様!!厚い雲の上には、変わらずに、太陽はギンギンですよー(o^―^o)ニコ

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【一緒に聖書を読みましょ♪】マタイによる福音書27章16節〜20節
【一緒に祈りをささげましょ♪】
 1パーセントが2パーセントになるために
 諸教会の働きの上に
 すべての主の弟子たちのために
posted by 日本基督教団 石山教会 at 16:36| 日記