2020年07月17日

2020年7月26日 礼拝予告

〇教会学校 8月23日まで休会です。

〇主日礼拝 10時30分〜
説教:「霊なる主イエスの声」須賀 舞伝道師
聖書:ヨハネによる福音書3章31節〜36節

※7月26日〜8月30日の期間、礼拝後の行事(信仰の学び、五分の集い)と聖書に親しみ祈る会は休会とします。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 16:23| 日記

2020年7月19日 主日礼拝説教「仕える救い主」須賀 工牧師

聖書:マルコによる福音書9章30節〜37節

〇祈 り
 天の神様、あなたの御名を賛美します。
 今、あなたに導かれて、この御堂に集められ、あなたを礼拝することができます幸いに、深く感謝を申し上げます。どうか、あなたが、この中心に、強く臨んでくださり、礼拝を捧げる私達の心を一つにし、高らかに、あなたの御名を賛美する礼拝を捧げられますように、あなたが、聖霊によって、私達の心を導いてください。
 過ぐる日々、あなたによって生かされていながらも、あなたの恵みを忘れ、罪に落ち、汚れに満ちて、御心に適うことの少なかった、私達を憐れんで下さい。どうか、あなたの御言葉の力によって、聖霊の働きを頂き、再度、私達の心を開いてくださり、あなたの救いへと再度、新たに生かして頂きますように、心よりお願い申し上げます。そして、どうか、与えられた御言葉によって養われ、新しい一週間、神と人とを愛する生活へと、歩みを進めていくことが出来ますように、私達を力づけてください。また、今、ここで痛みを負っている方々が、御言葉の力によって、あなたが癒していただきますように、心よりお願い申し上げます。
 この礼拝に来ることのできない兄弟姉妹がいることを覚えます。どうか、ここにいる一人一人も、それぞれの場所で礼拝を捧げている一人一人においても、あなたが等しく恵みと祝福を与えてくださいますように、心よりお願い申し上げます。特に、病の内にある方々、痛みを覚えている方々、深い悩みの内にいる方々がおりますならば、あなたが、憐れんでくださり、あなたの癒しと励まし与え、新たに生かしていただきますように、心より祈ります。
 過ぐる日、あなたの御許に召された、聖徒達を覚えます。どうか、今、あなたの御手の中で、真の平安を得ていることを信じるものとしてください。天にある民も、地にある民も、共に復活の希望の中に生かされ、高らかに、あなたを賛美することができますようにお守りください。愛する者を失い、悲しみのうちにいる方がおりましたら、どうか、あなたが慰めと励ましを与えてください。
 感染症の脅威は、まだ、人類を脅かしています。そのために、不安を沢山抱えている人々もおります。そして、悲しんでいる人もいます。世界中の一人一人が、この時も安心して生活ができますように。そして、1日も早く、世界の人々が、安心して生活する日がきますように。そして、この脅威と日々、格闘している医療関係の方々、それぞれの社会の上に、あなたの励ましを与え続けてください。
 また、豪雨によって被災をした方々を覚えます。どうか、今、痛みを負われている一人一人、悲しみの内にある一人一人を、あなたが、強くとらえていてくださり、真の慰めと平安と励ましを与えてください。そして、どうか、一日も早く、全てが復興しますように、心よりお祈り申し上げます。
 全てのことを委ねて、このお祈りを主イエス・キリストの御名によっておささげいたします。アーメン

〇説教「仕える救い主」
 今朝、私達に与えられた御言葉は、マルコによる福音書9章30節から37節の御言葉であります。主イエス・キリストは、今、十字架の死に向かって、その歩みを進めておられます。この世の価値観から申し上げるならば、正に、「敗北」に向かっていく歩みです。この世に対して、負けるための歩みです。主イエス・キリストは、そのような、歩みを続けているのであります。
 しかし、それに対して、主イエス・キリストの弟子たちは、「勝利」に向かって、歩み続けようとしているのではないでしょうか。そのような、弟子たちの感情が、ここで「だれが一番偉いか」という議論に、現れ出ているのではないでしょうか。そのように思うのであります。
 しかし、この議論は、ただ単純に、「だれが一番偉いか」という議論ではありません。主イエス・キリストの弟子たちは、主イエス・キリストに「仕えてきた」人々です。つまり、この議論は、「だれが一番、熱心に仕えているか」「だれが一番、忠実に仕えているか」「だれが一番、自らを捧げてきたか」という議論なのです。即ち、弟子としての熱心な心、真剣な心から生まれ出た議論なのであります。
 このように、「神様に仕えること」。これでさえも、人間は、「一番でありたい」「偉くありたい」という気持ちがある。いや、このような気持ちから逃れられない。そのようなことを、ここでまず、教えられるのであります。もしかすると、私達の内にも、そのような、心が、潜んでいるかもしれません。
 そして、ここには、もう一つ大きな問題が、潜んでいます。それは、「だれが一番偉いか」という議論をすることによって、お互いに、お互いの価値を、評価する。そのような人間関係が、生まれてしまったのです。自分と他人を比べ合うことで、他人を排除したり、裁くことが、あるかもしれません。あるいは、自分自身の価値を、見失ってしまうこともあるかもしれません。そして、いつの間にか、あの人よりも熱心に、仕えることのできない自分が、本当に、神様に、愛される価値が、あるのかと、涙を流すこともあり得るかもしれません。
 その意味で、極端な話しになるかもしれませんが、神様の愛が分からない、神様の救いがわからない、神様の恵みが分からない人ほど、実は、他人の評価を気にしている人なのかもしれません。
 このような心は、私達の心のどこかに、潜んでいると、否定はできないだろうと思うのです。そして、何よりも、私達が、自分たちの評価を気にして生きる時、私達は、「誰かよりも偉くありたかった」という思いを、心のどこかで、潜ませている。そのことも、忘れてはいけないだろうと思うのであります。出世を願うならば、評価を気にしなければいけません。評価を気にすることは、出世を考えていることに繋がっている。そのようなこともあり得るのです。
 しかし、ここで、本当に、大きな問題は、この議論の中に、主イエス・キリスト御自身が、いなかった、ということであります。つまり、弟子たちは、自分たちの基準に従って、「だれがいちばん偉い」かと議論をしていたのです。自分たちの基準で、お互いに、あるいは、自分自身を評価していたことになるのです。
 しかし、ここで本当に、大切なことは、「キリストが、あなたを、どう評価しているか」ということなのであります。私達が、どれだけ、何かを、熱心にしてきたところで、それをする・しないに関わらず、キリストが、あなたを、どう評価したか、ということが、とても、大切なことなのであります。なぜなら、主の弟子たちは、主イエス・キリストに仕えているからであります。
 そして、もし、主イエス・キリストが、評価をする御方であるならば、その主の御前で、十分な評価を得られる人など、本当にいるのでしょうか。主の御前で、自分が、完璧に、主の御心に、適った生き方が、出来たと、宣言できる人など、本当にいるのでしょうか。もし、主イエス・キリストが、私達の価値を、評価する御方であるならば、私達は、救われることはないでありましょう。キリスト者など存在しないことになるでしょう。
 しかし、今、私達は、ここにいます。キリスト者として、主の弟子として、立てられ、招かれたのであります。
 なぜでしょうか。主イエス・キリストが、そして、神様が、あなたの価値を生み出し、神様の目に適った者として、受け止めて下さったからであります。人間的な評価を越えて、主御自身が、「あなたには価値があるのだ」と受け止めてくださったのであります。
 明確に申し上げますが、「神様の愛」は、「アガペー」です。かつて、「お大切」という言葉に訳されました。この「アガペー」という言葉は、「価値を生み出す」という意味があります。価値がない所から、価値を生み出すこと。ここに、神様の愛−アガペー−があるのです。人間的な評価は、低いかも知れない。落第者のような者かもしれない。
 しかし、その、あなたこそ、「価値がある」「大切な存在である」。そのように、神様は、イエス・キリストを通して、宣言してくださる。そのことに気づかされた時、私達は、この世の、どんな評価に晒されたとしても、自分の価値を、決して、見失うことはないのであります。
 少し、遠回りをしましたが、まず、何よりも、このことを先に、確認しておくことが、今朝の御言葉において、とても大切なことなのであります。
 さて、主イエス・キリストは、次のように、語られました。「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい」。これは、どういう意味でしょうか。誰よりも後になり、誰よりも、熱心に仕えた人が、一番先になる。一番偉くなる、ということでしょうか。それは違います。
 あなたが、一番先になりたいと思った時、あなたは、仕えることを思い起こしなさい。仕えることへと立ち帰りなさい。これは、そういう意味なのです。つまり、これは、弟子たちに対して、弟子として、本来、向くべき方向に、むき直しなさい、という教えなのであります。仕えることで、偉くなる、ということではないのです。一番になりたい、という心が、生まれた時、仕えることの大切さを、思い出しなさい、ということなのです。
 それでは、仕えるとは、どういうことでしょうか。それが、「子どもを受け入れる」ということであります。子どもとは、どういう存在でしょうか。無力な存在です。頼りない存在です。やってはいけないことをします。やっかいな存在です。つまり、私達にとって、やっかないな、都合の悪い、無力な存在。その存在を受け入れること。これが、「仕える」ということなのであります。
 自分にとって、都合の悪い存在を受け入れること。これは、忍耐がいることです。我慢がいることです。自分を抑えなければいけないことです。私達にとっては、大変、難しいことです。
 しかし、主イエス・キリストは、次のように語ります。「わたしの名のために」と。自分の為ではないのです。自分の思いに従うのではないのです。主イエス・キリストのために受け入れる。なぜでしょうか。彼らが、主の弟子であるからです。主のものであるからです。主の弟子として、主のために生きるのです。それが、主の弟子なのであります。
 つまり、ここで大事なことは、何よりも、あなたは、もう既に、主の弟子である、ということが、前提にされているということであります。私達は、もう既に、主イエス・キリストに受け入れられている。認められている。価値あるものとして、手を置いて頂き、抱き上げられ、愛されている。
 その大きな幸いに生かされて、その幸いを思い出して、他人を受け入れていく。そのことの大切さを思い起こしなさい、そのことに立ち帰りなさい、ということなのであります。何よりもまず、あなたが、もう既に、価値あるものとして、主に受け入れられている。そのことを、ここでまず知ることができるわけです。
 「仕えること」。ここに、立ち帰る時、私達は、主によって、価値を生み出して頂いた。その幸いに、立ち帰るのです。「仕えること」に立ち帰る時、私達は、あの主イエス・キリストが、この私のために、仕えて下さった。そのことに立ち帰るのです。
 幼子に仕えることが、出来るのは、この私のために、主が仕えて下さったことを知っているからです。幼子を受け入れることが、出来るのは、この私を、主が受け入れてくださったことを知っているからです。幼子を受け入れることが、出来るのは、この私が、主によって与えられた恵みを受け入れ、神様の憐れみを受け入れたからなのであります。これが、今朝の御言葉で、最後に、語られた、主の御言葉の意味なのであります。
 幼子のような存在を、受け入れることは、我慢がいります。忍耐がいります。しかし、主イエス・キリストは、私達の罪や弱さや汚れを背負い、十字架に向かって行かれる。私達のために、我慢してくださる。忍耐してくださる。命を捨てるまでに、私達を認めていてくださる。受け止めてくださる。価値あるものとして、抱き上げてくださる。この主イエス・キリストの恵みを受け入れ、その恵みに生かされていく時、あるいは、そこに立ち帰り続けて行く時、私達は、人間の評価を越えて、今、共に生きるものへと導かれていく。 一番になりたい、偉くなりたい、誰よりも熱心な奉仕者でいたいと思う時、あなたのために、命をかけて、仕えてくださった、主の忍耐を思い起こし、その恵みの中で、お互いの価値を認め合っていく。価値を生み出していく。そのような、認め合い、仕え合える、信仰生活を、共に、歩みたい。いや、もう歩めるはずです。あなたに価値を生み出した御方は、あなたの目の前にいる人の価値も生み出しているのです。あなたが、価値を生み出して頂いているならば、あなたの目の前にいる人の価値も生み出されているはずなのです。そのことを、心に、覚えておきたいと思います。
 それぞれの人生の中で、もしかすると、大切にされた経験、あるいは、愛されたことを経験してこなかった人も、いるかもしれません。ここにも。そして、ネットの向こう側にも。愛を知らない、大切にされてこなかった故に、他者に、辛く当たってしまう人もいるかもしれません。
 しかし、それでも、あなたの人生で、あなたを愛し、大切に思ってくださる方がいる。もし、その経験がないならば、今、それを経験する時です。無邪気な子どもで良いのです。何も出来ない幼子でも良いのです。他人とあなたを、比べることのない御方が、無条件で、無償で、あなたを愛し、あなたに価値を生み出し、あなたを受け止めてくださる。命をかけてまで、惜しみなく、命を捨ててまで、あなたを受け止めてくださる御方が、今、ここにいる。だから、自分も、他人も、評価する必要ない。価値を付ける必要はない。一番偉いはずの主イエス・キリストが、神様が、一番、低い、あなたの目線にたって、あなたの価値を生み出してくださるからです。無邪気な子どものように、抱き上げてくださる主の腕に、全てを委ねて、共に歩み出しましょう。

〇祈 り
天の神様、新しい御言葉の恵みに、心から感謝を申し上げます。あなたの子どもとして、招かれて、今を得ていながらも、あなたの忍耐する御心を忘れ、私達は、他者と自分を比べ、自分の立場ばかりを気にし、回りを見失ってしまうことがあります。どうか、主よ、私達を憐れんでくださり、もう一度、あなたの救いの御心、愛の御心を、御言葉と聖霊の力によって確かにしてください。どうか、まだ、主の恵みに気づけない方々がいますならば、あなたの憐れみと慈しみをもって、一人一人の心をとらえてください。

posted by 日本基督教団 石山教会 at 16:17| 日記

2020年07月09日

2020年7月19日 礼拝予告

〇教会学校 9時15分〜
説教:「コリント伝道」
聖書:使徒言行録18章1節〜11節
※7月26日〜8月23日は、教会学校はお休みです。

〇主日礼拝 10時30分〜
説教:「仕える救い主」須賀 工牧師
聖書:マルコによる福音書9章30節〜37節
※礼拝後、五分の集い、信仰の学びがあります。

皆様のお越しを心よりお待ち申し上げます。感染症対策をした上での礼拝でありますことをご了承ください。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 14:17| 日記