2021年05月24日

2021年5月23日 主日礼拝説教「葬られ、陰府にくだる」(音声)須賀 工牧師

ハレルヤ!主の御名を賛美します!!

5月23日の礼拝説教音声を配信します!!

お時間ある方は、是非、お聴きください(o^―^o)ニコ

https://open.spotify.com/episode/22DjxhO9hyJ8N6kTv21C5b?si=fKwfinGsTUmY9ST0mjm_gA


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この一週間も、神様の御守りが豊かにありますように(⌒∇⌒)
posted by 日本基督教団 石山教会 at 11:43| 日記

2021年05月21日

2021年5月30日 礼拝予告

〇教会学校 9時15分〜
説教:「主イエスのいやし、罪を赦す」
聖書:マルコによる福音書2章1節〜12節

〇主日礼拝 10時30分〜
説教:「神から誉れを受けるには」須賀 舞伝道師
聖書:ヨハネによる福音書5章41節〜47節

感染予防対策をして、礼拝をささげています。皆様のお越しを心よりお待ち申し上げます。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 11:29| 日記

2021年5月23日 主日礼拝説教「葬られ、陰府にくだる」須賀 工牧師

聖書:マルコによる福音書15章42節〜47節

 今朝、私達は、「ペンテコステ」を迎えています。「ペンテコステ」は、キリスト教において「聖霊降臨日」とも呼ばれています。ざっくりと申し上げると、「教会の誕生を記念する日」。これが、「聖霊降臨日」であります。
 聖書によると、主イエス・キリストは、十字架で死んで、葬られました。そして、三日後に復活し、天に昇られました。その後、弟子たちに聖霊が下ります。
 聖霊に満たされた、弟子たちは、どうなったでしょうか。様々な言語で、御言葉を語りだしました。この御言葉は、神様の救いの御業に関するものでありました。その直後の「ペトロの説教」を読むと、具体的には、キリストの十字架の死と復活。そして、洗礼への招き。これらを中心に語られたようであります。ここに教会の誕生があるのです。
 このように、教会は、聖霊に満たされ、キリストの救いが語られ、洗礼が執行される。その所に、教会の姿が、見えない形で、誕生したのであります。そして、今、時代を越えて、この石山の地にも、教会がたちました。そして、変わることなく、キリストの救いが語られ、聖礼典が執行されている。神様が、この地を、見捨てることなく、教会を与えて下さり、今、私達が、命を得ている。その幸いを思い起こしつつ、この時を、共に過ごしたいと思います。
 私達は、教会を通して、キリストと出会い、キリストの救いに生かされ、神様のものとされて、今を得ています。この幸いは、生きている時だけの限定的な恵みではありません。私達は、生きるにしても、死ぬにしても、キリストの救いのゆえに、神様のものとされています。生きている時だけではありません。死においてすらも、私達は、死に縛られることなく、神様のものとされている。ここに、死を越えて行けるほどの、大きな希望があり、ここにこそ、教会が、ずっと、変わることなく、語り続けて来た、一つの救いの御言葉があります。この教会を通して、指し示されている、変わることのない真理に、思いを馳せながら、今朝の御言葉に、注目していきたいと思います。
 今朝、私達に与えられた御言葉は、マルコによる福音書15章42節から47節の御言葉であります。聖書の小見出しにもありますように、今朝の御言葉は、十字架上で、息を引き取られた。その主イエス・キリストが、遂には、墓に葬られた。そのような聖書箇所であります。
 新約聖書には、四つの福音書があります。その全ての福音書が、この主イエス・キリストの埋葬について記しています。そして、私達が、毎週のように、告白をしている。あの「使徒信条」。ここにおいても、主イエス・キリストの葬りについて告白されています。
 つまり、救い主が、墓に葬られた。そのことを抜きにして、キリストの受難や苦しみを語ることはできなかった、ということであります。あるいは、キリストの埋葬を抜きにして、私達の信仰、もしくは、私達に与えられた救いは、成り立たないのだ、ということでもあるのです。それぐらい、大切な箇所であると言えるかもしれません。
 それでは、主イエス・キリストが葬られた。この出来事は、一体、どのような意味を持っているのでしょうか。このことを、少しでも深めていくためには、当時のユダヤ人における「死に対する価値観」について、触れなければいけないと思います。そして、その為には、まず、先ほど、お読みました、詩編88篇の御言葉に、改めて、耳を傾けていく。その必要もあるだろうと思います。
 この詩編88篇は、詩編の中でも、特に「暗い詩編」であると言われています。なぜでしょうか。それは、この詩人が、「死」について触れているからです。自分が、まるで死んだ人であるかのように、神様に対して嘆いている。そのような詩編なのであります。
 そして、この詩人にとって、一番つらいことは、何でしょうか。それは、死んだような自分に、もはや、神様は、御心を向けて下さらない。何も語って下さらない。そのような、苦しみが、ここで素直に告白されているのであります。
 ここに、当時のユダヤ人における「死に対する価値観」が、表現されていると言えるかもしれません。即ち、死んで、葬られた人。その人には、もはや、神様は、何も語られない。御心に留められない。言うならば、神様からも切り離されている。そのような、死に対する価値観が、ここで表現されているわけであります。
 その意味で、墓は、滅びの国であり、神に忘れられた国であると言えるでしょう。その世界において、神様の御業がなされたり、慈しみが語られたり、感謝することもない。ここに、旧約聖書における、死に対する、基本的な理解や捉え方があるのです。
 しかし、ここで大事なことは、何でしょうか。主イエス・キリストもまた、死んで、葬られたのだ、ということであります。それは、正に、この絶望を、主イエス・キリストご自身が味わい尽くし、この暗闇の中にこそ、御自身の身を置いてくださったのだ、ということなのであります。
 神に忘れられた世界であります。神様の御言葉や御業が、届かない世界でありました。しかし、今、キリストが、そこに身を置いてくださる。今、神様の救い主が、そこにまで、降って来て下さる。完全に暗闇が支配する、死の世界に、真の光であり、キリストが、その身を置いてくださった。Iペテロの手紙を読むと、「死んだものにも福音が告げ知らされている」という言葉もあります。死者の国は、神に忘れられていないのです。そこにも、キリストがいて下さり、良き知らせ、福音の光が差し込んでいるのであります。ここにこそ、主の葬りにおける、一番の大きな幸いが、指し示されているのであります。キリストを通して、死に対する価値観が、逆転していくのであります。
 そして、もう一つ大事なことは、このキリストの墓こそが、キリストの復活の場所になるのだ、ということなのであります。その意味で、今朝の御言葉は、復活に向けての備えのような意味もあるかもしれません。
 死の世界にも、キリストはいてくださる。しかし、その死の世界もまた、打ち破られる時がくるのであります。主イエス・キリストは、父なる神の御業によって復活し、その絶望の淵から解放されました。死は、もう、キリストにあって、敗北しているのであります。キリストにあって、死は、私達を縛ることはできない。死に支配されることはない。
 私達もまた、信仰において、復活の主に結ばれた一人です。私達もまた、復活の命に与るものとされています。私達は、いつかは、死を迎えます。それは、あの詩人のように、苦しいことであり、悲しいことであり、恐ろしいことでもあります。
 しかし、その死の世界にも、キリストの福音はあるのです。それだけではありません。キリストにあって、死は、敗北しています。キリストにあって、私達は、死に縛られていません。私達は、生きるにしても、死ぬにしても、復活の主のものです。このキリストに、固く結ばれて生きる時、今までの私達の死に対する価値観が、変えられていくのであります。
 このような御言葉を聞きながら、それでも、恐れることがあります。私もまた、死を恐れる一人の人間です。しかし、こうして、復活の主の御言葉が、私達に与えられている。主は、その私達の苦しみも、よくご存じでありましょう。だからこそ、この御言葉が、聖書に残され、信仰告白においても、その事柄が告白されているのではないでしょうか。
 この深い恵みを覚えながら、これからも希望の内に歩み続けることができる。いつでも、どんな時でも、埋葬された主の御姿を見つめたいと思います。そして、同時に、そこから復活し、今も共に生きておられる主の御臨在に、深く目を向けながら、励まし合って、今日からの日々を歩み出したいと思います。

天の神様、御言葉の恵みに、心から感謝します。主イエス・キリストは、私達の罪を背負い、十字架で死なれ、墓に葬られました。しかし、そのことを通して、死もまた、キリストの御手の中にあることを教えられ、同時に、復活の命の希望に思いを馳せることができました。心から感謝します。死を思う時、私達は、恐れずにはいられません。どうか、主よ、私達の心を、あなたの救いの光で満たしてください。どうか、主よ、聖霊によって、私達の内に、復活の希望を明らかにしてください。全てのことを感謝します。全てのことをあなたに委ねて、このお祈りを主イエス・キリストの御名によっておささげいたします。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 11:20| 日記