2022年09月09日

2022年9月18日 礼拝予告

〇教会学校 9時15分〜
聖書:士師記16章23節〜31節
説教:ナジル人怪力サムソン

〇主日礼拝 10時30分〜
聖書:使徒言行録18章1節〜11節、ヨシュア記1章1節〜9節
説教:「恐れず語る」須賀工牧師

感性予防対策をした上で、礼拝をささげています。皆様のお越しを心よりお待ち申し上げます。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 16:42| 日記

2022年9月11日 主日礼拝説教「生きた神」須賀工牧師

聖書:使徒言行録17章16節〜34節、イザヤ書46章5節〜13節
説教:「生きた神」須賀工牧師

 今朝、私達に与えられた御言葉は、使徒言行録17章16節から34節の御言葉です。16節から17節の御言葉をお読みします。「パウロはアテネで二人を待っている間に、この町の至るところに偶像があるのを見て憤慨した。それで、会堂ではユダヤ人や神をあがめる人々と論じ、また、広場では居合わせた人々と毎日論じ合っていた」。
 パウロは、テサロニケで迫害を受けました。その後、ベレアでも迫害を受けました。そして、今、「アテネ」に到着し、「アテネ」で伝道を開始することになります。
 しかし、ここでの伝道は、今までよりも、更に強い動機から始められたようです。聖書によると、パウロは、アテネの様子を見て「憤慨した」と言われています。この「憤慨した」という言葉は、「魂が揺り動かされた」という意味です。
 つまり、「魂が揺り動かされて」、いても立ってもいられなくなった。パウロは、そのような心の動きを、ここで経験したのです。この感情は、人々に対する恨みや憎しみによるものではありません。この町に、福音を伝えなければいけない。この町に、真の神を伝えなければいけない。そのような強い使命感によるものであります。
 それでは、なぜ、パウロは、「憤慨」したのでしょうか。それは、この町に、偶像が溢れていたからであります。
 私達が、置かれている社会にも、偶像は溢れています。その意味で、アテネと同じです。私達は、このパウロが抱いたような「憤慨」を覚えているでしょうか。この国で、この土地で、どうしても、福音を伝えなければいけない。そのような強い使命感、情熱に満ちた、信仰的感受性を持っているのでしょうか。私達は、そのような、情熱にあふれた感受性を持っているのでしょうか。そのことを、私達は、ここで、改めて、強く問われているのではないかと思うのであります。
 さて、18節から21節の御言葉をお読みします。「また、エピクロス派やストア派の幾人かの哲学者もパウロと討論したが、その中には、「このおしゃべりは、何を言いたいのだろうか」と言う者もいれば、「彼は外国の神々の宣伝をする者らしい」と言う者もいた。パウロが、イエスと復活について福音を告げ知らせていたからである。そこで、彼らはパウロをアレオパゴスに連れて行き、こう言った。「あなたが説いているこの新しい教えがどんなものか、知らせてもらえないか。奇妙なことをわたしたちに聞かせているが、それがどんな意味なのか知りたいのだ。」すべてのアテネ人やそこに在留する外国人は、何か新しいことを話したり聞いたりすることだけで、時を過ごしていたのである」。
 聖書によると、パウロが、論じ合った人々の中には、「エピクロス派とストア派の哲学者」がいました。いずれも、当時のギリシャ哲学において有名な学派です。
 エピクロス派とは、別名「快楽主義者」とも呼ばれています。これは、決して、快楽を追求し、自堕落な生活を推奨する教えではありません。
 彼らが、大切にしたのは、「平穏に生きること」です。この世のことを超越し、何事にも煩わされずに生きる。それを理想とする教えであります。このような、哲学においては、神々も、平穏に生きています。そういう神々の平穏さを理想とし、自分たちも平穏に生きる。そのことを追求するのであります。
 それに対して、ストア派は、この世の全てのものの中に、神々がいると教えています。そして、彼らは、そこに普遍的な原理があると考えています。この原理を探し求め、その原理に自らを合わせて生きる。そのことを追求するのです。普遍的な原理に即して生きること。ここに人間の幸福と平安がある。そのように考えられていました。その結果、ストア派は、エピクロス派よりも、厳しい倫理性をもった哲学でもありました。
 エピクロス派は、物事を超越して、平穏に生きることを追求し、ストア派は、その物事の中にある原理を追求することで、幸福を得ようとしたわけです。考え方としては、正反対と言えるかもしれません。
しかし、共通していることがあります。それは、どちらも、人間の思想、人間の価値観に基づいて、幸福と平安を追求しているのです。そして、アテネの町にある偶像というのは、このような、神々についての人間の思想、考え、哲学から生まれたものでもあったわけです。
 このような、全く、信仰のない、人間を中心とする宗教観・世界観の中で、パウロは、たった一人、強い使命感をもって、伝道を開始したのであります。勿論、初めから理解されたわけではありません。馬鹿にされ、罵倒されながらの伝道でありました。
 しかし、いよいよ、パウロは、アテネのアレオバゴス(議会のあった場所)で、福音を伝えるチャンスが与えられていくのです。それでは、22節から23節の御言葉をお読みします。「パウロは、アレオパゴスの真ん中に立って言った。『アテネの皆さん、あらゆる点においてあなたがたが信仰のあつい方であることを、わたしは認めます。道を歩きながら、あなたがたが拝むいろいろなものを見ていると、「知られざる神に」と刻まれている祭壇さえ見つけたからです。それで、あなたがたが知らずに拝んでいるもの、それをわたしはお知らせしましょう』」。
 聖書によると、アテネの様々な偶像の中に、「知られざる神に」と刻まれたものがあったようです。ここには、色々な神々がいる。けれど、まだ、自分の知らない神がいるかもしれない。その神に対して、粗相があってはいけない。そのような思いで、建てられた像があったのです。
 要するに、神々を拝んでいても、偶像を拝んでいても、「不安」が残っているわけです。「恐れ」が残っているのであります。「あらゆる点において信仰があつい」者であっても、多くの神々を、熱心に、拝みながら、しかし、そこに、完全な喜びや平安がないままなのであります。有限なる人間が作り上げた像もまた、有限であり、それらは、私達に、永遠を保証できないのです。だから、不安だけが残るわけです。
 「偶像」というのは、必ずしも、目に見える「像」だけではありません。人間が自分の思想や感覚によって、拠り所を作り上げる。そのところに偶像があります。しかし、そこには、一時の平安はあっても、まだまだ不安は残るのです。だから、町中を、あるいは、自分の心の中を、自分がより頼みたいもので一杯にするのです。ただ、それでもまだ不安なのです。だから、「知られざる神」を拝むようになるのです。
 それに対して、パウロは、次のように語ります。「それで、あなたがた知らずに拝んでいるもの、それをわたしはお知らせしましょう」と。これは、「あなたの知らない神を教えましょう。それも、加えて拝んだらいいですよ」という話ではありません。「あなたは、神様について何も知らない。そして、神様ではないものを拝んでいる。だから、不安から抜け出せないのだ。あなたがたが知るべき真の神を教えましょう」ということであります。
 それでは、パウロが示す真の神とは何でしょうか。24節から29節までお読みします。「『世界とその中の万物とを造られた神が、その方です。この神は天地の主ですから、手で造った神殿などにはお住みになりません。また、何か足りないことでもあるかのように、人の手によって仕えてもらう必要もありません。すべての人に命と息と、その他すべてのものを与えてくださるのは、この神だからです。神は、一人の人からすべての民族を造り出して、地上の至るところに住まわせ、季節を決め、彼らの居住地の境界をお決めになりました。これは、人に神を求めさせるためであり、また、彼らが探し求めさえすれば、神を見いだすことができるようにということなのです。実際、神はわたしたち一人一人から遠く離れてはおられません。皆さんのうちのある詩人たちも、『我らは神の中に生き、動き、存在する』『我らもその子孫である』と、言っているとおりです。わたしたちは神の子孫なのですから、神である方を、人間の技や考えで造った金、銀、石などの像と同じものと考えてはなりません』」。
 私達が信じている神様は、万物を造られた、ただ一人の神様です。その神様は、天地の主です。それ故に、人の造った神殿に収まるはずがありません。あるいは、人に仕えてもらわなければ生きられない神ではありません。むしろ、神様の方が、全ての人に命を与え、それぞれの民族を造り出し、それぞれに配置し、その歴史を導いておられるのです。
 私達が、神様に、何かをするのではなく、神様が、私達に命を与え、導き、支配して下さるのです。「偶像」は、常に、人から神に向かいます。人の思いや願いや思想が、神を形作り、神に仕えさせるのです。
しかし、真の神様は、神様から人に向かっていくのです。神様が、私達に命を与え、神様が、私達を養い、愛し、導き、支えてくださるのです。私達が、神を礼拝し、神に仕えるのは、何よりもまず、神様が、私達のために、生きて働いてくださったからなのであります。
 神様が、このように、私達に命を与え、地上に住まわせたことには、目的があります。それは、27節「人に神を求めさせるためであり、また、彼らが探し求めさえすれば、神を見いだすことができるようにということなのです」。
 神様が、私達に命を与え、導いて下さるのは、私達に、神様を探し求めさせるためです。そして、探し求めれば、神様を見いだすことはできるのであります。つまり、私達は、正しく探し求めれば、神様を知ることができるのです。
 アテネの人々は、哲学や思想を通して、神々のことを考え、知ろうとし、おびただしい偶像を作り出しました。しかし、彼らの行きついた先には、「知られざる神」しかいなかったわけです。人間から神へ、人間が神を、という方向では、最終的に「知られざる神」にしか行きつかないのです。そして、それ故に、結局は、不安や恐れから抜け出すこともできないのであります。
 では、私達は、どのようにして、真実の神に行きつくことができるのでしょうか。人から神へという方向を逆転すればよいのです。即ち、神から人へ、神が人へという方向性です。神様が、私達に与えて下さるものから、私達は、神様を、正しく知ることができるのであります。
 では、神様が、私達に与えて下さるものとは、何でしょうか。それが、御言葉なのであります。神様が、御自身を示して下さる。その御言葉によって、神を見つめることが出来るのです。神が、御言葉をもって、御自身を明らかにされる時、神はもはや、得体の知らない恐ろしいものではありません。神様は、私達と共に生き、愛して、導いて下さる御方。そのような御方であることを、真実に知ることができるのであります。
 それでは、私達は、それを知るために、何を大切にしたら良いのでしょうか。30節から31節の御言葉をお読みします。「『さて、神はこのような無知な時代を、大目に見てくださいましたが、今はどこにいる人でも皆悔い改めるようにと、命じておられます。それは、先にお選びになった一人の方によって、この世を正しく裁く日をお決めになったからです。神はこの方を死者の中から復活させて、すべての人にそのことの確証をお与えになったのです』」。
 私達にとって、とても大切なことは何でしょうか。それは、繰り返しになりますが、人から神を、神から人へと方向転換させていくこと。これに尽きます。つまり、「悔い改め」が必要なのであります。自分で、神を形作ることを止め、神様が、御自身を示してくださっている。その御言葉によって、神様を知り、神様を知ることで、その恵みや愛の深さを知り、その恵みの下にある自分を見いだしていく。それが、大切なのです。
 それでは、その御言葉とは、どういう言葉なのでしょうか。私達に、神様の恵みや愛を知らせる御言葉とは、どのような内容なのでしょうか。
 それが、主イエス・キリストの十字架の死と復活なのであります。このことを通して、神様は、御自身の全てを明らかにして下さっているのであります。
 神様の御心は、何でしょうか。それは、主イエス・キリストの十字架の死と復活を通して、全ての人に対して、救いを確証することであります。
 主イエス・キリストは、私達の罪を背負い、私達の受けるべき裁きを、身代わりとなって受け、私達の贖いとなられました。神に逆らい、自分中心でしかなかった。その私達のために、神様は、御子の救いを成し遂げてくださったのであります。 
 しかし、それだけではありません。神様は、御子を復活させられました。そして、そのことを通して、罪と死に打ち勝つ命がある。そのことも確証してくださいました。
 そして、それだけではありません。私達もまた、このキリストと結ばれる時、罪と死に打ち勝ち、永遠の命を受ける。その約束もしてくださったのです。
 そして、神様が、正しく世を裁かれる時、つまり、神様の御支配が完成する時、キリストに結ばれた、その私達も又、キリストの復活の恵みに与り、罪赦されたものとして、神様の御前に、永遠の命を携えて、立つことができるのです。
 もうすでに、「裁き」に向かった歩みは、始まっているのです。しかし、キリストに結ばれた私達にとって、裁きの日は、救いの完成の日です。それ故に、御言葉を通して示された、キリストの救いを通して、今、この瞬間から、私達は、永遠の命を望むことができる。御言葉を通して、キリストの救いを知り、神様の救いの御心を味わい知り、既に、永遠の命を得られていることを知ることができるのです。
 有限な人が作ったものも有限です。だから、人は不安なのです。これで幸せに生きられるのか。これで平穏に生きられるのか。そのようにして、不安ばかりがよぎり、結局、何も分からないまま、知られざる神を拝むことで終わるのです。
 しかし、今、私達は、御言葉によって、示されるキリストの救いを通して、神様を知ることができ、神様の救いの意志を知ることができ、そして、神様によって与えられた、永遠を見つめることができる。そして、もう既に、永遠の流れの中に入れられている自分を知ることもできる。
 だから、今の苦しみは、永遠ではないことを知ることができる。今の不安な思いが、永遠ではないことが分かる。その深い幸いが、ここから強く指し示されていくのであります。
 私達にとって、大事なことは、常に、私達が、礼拝に立ち帰り、御言葉に立ち帰り、そこで、神様を知り、その恵みを知り、その恵みの内に留まり続けることではないでしょうか。人間のあらゆる不安に終止符を打つために、神様は御子を通して示された救いの御心を、御言葉によって、指し示し続けてくださいます。
 私達は、知られざるものに頼る必要はないのです。もう不安に陥る必要はないのです。神様は、もうすでに、キリストを通して、あなたを、永遠の命へと救い上げてくださる。その救いの御心を、今も御言葉をもって明らかにしておられるのです。私達は、そこに何度も立ち帰っていくものでありたい。そして、真の平安と希望をもって、主の日を待ち望むものでありたいのです。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 16:37| 日記

2022年09月06日

2022年9月4日 主日礼拝説教音声「御言葉を伝える」須賀工牧師

聖書:使徒言行録17章1節〜15節、詩編119篇105節〜112節
説教:「御言葉を伝える」須賀工牧師

@Spotify
https://open.spotify.com/episode/6E6Q1Wo7Q5ZwHMpbB4p66d?si=6d00908cdeb5419b

AYouTube
https://youtu.be/SjFjxTNcb_g

皆様の上に、神様のお守りが豊かにありますように、心よりお祈り申し上げます。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 11:39| 日記