2019年07月21日

2019年7月21日 主日礼拝説教「罪人を招くために」須賀 工牧師

聖書 マルコによる福音書2章13節〜17節

 今朝、私達に与えられた御言葉は、マルコによる福音書2章13節から17節の御言葉であります。13節から14節の御言葉をお読みします。「イエスは、再び湖のほとりに出て行かれた。群衆が皆そばに集まって来たので、イエスは教えられた。そして通りがかりに、アルファイの子レビが収税所に座っているのを見かけて、『わたしに従いなさい』と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。」
 徴税人レビが、主イエス・キリストの弟子になるお話です。レビは、徴税人でした。徴税人は、当時、罪人と同じ扱いを受けていました。なぜでしょうか。それは、徴税人が、当時の支配国であったローマに雇われて、ローマの為に税金を集めていたからであります。その意味で、イスラエルの人々にとって、徴税人は、自分の国を裏切り、神様に背を向けた人々であったわけであります。
 つまり、そのような「罪人」と呼ばれ、「差別」され、「軽蔑」されたような、正に、見捨てられた立場のレビが、主イエス・キリストの弟子になったのであります。
 それでは、どうして、レビは、主イエス・キリストの弟子になれたのでしょうか。レビが、一生懸命に願ったからでしょうか。それとも、真面目な生徒のように、最前列で、主イエス・キリストの教えを聞いていたからでしょうか。
 恐らく、それは違うでありましょう。聖書を読む限り、レビは、主イエス・キリストの教えには、あまり関心がなかったようであります。イエスの教えに耳を傾ける群衆の中にはいないからであります。その意味で、主イエスとの出会いを望んだザアカイとは違うタイプの徴税人であったと言えるかもしれません。
 それでは、どうして、レビは、主イエス・キリストの弟子になれたのでしょうか。それは、主イエス・キリストが、レビを見つめてくださり、主イエス・キリストが、声を掛けてくださったからであります。つまり、主イエス・キリストの弟子になるための条件はないということであります。あくまでも、主イエス・キリストが見つめてくださり、声を掛けてくださったからであります。
 それは言い方を変えるならば、主イエス・キリストが、このレビという存在に、価値を生み出してくださった、ということであります。恐らく、レビを見てくれる人など、今までいなかっただろうと思います。見られたとしても、軽蔑の目で見られていたかもしれません。恐らく、声を掛けてくれる人もいなかっただろうと思います。声を掛けられたとしても、軽蔑の言葉を掛けられていたかもしれません。
 しかし、そのような悲惨な現実の中で、主イエス・キリストは、このレビに価値を生み出し、価値あるものとして、レビを見つめ、そして、声を掛けてくださるのであります。
 価値を生み出してくださるということが大切なのです。価値のなかった存在に、「あなたには価値がある」と認めてくださる。「あなたが必要だ」と声を掛けてくださる。ここに、主イエス・キリストの憐れみがあるのです。つまり、主イエス・キリストの弟子になれるのは、人間の条件ではなく、ただただ、主イエス・キリストの深い憐れみによるものなのであります。
 レビは、何も言わずに、「立ち上がって従い」ます。なぜ、立ち上がることが出来たのでしょうか。私達は、その時のレビの思いを知りたいと願うかもしれません。でも、本当は、知る必要のないことなのです。だから、聖書にも、書かれていないのです。
 なぜ、レビが立ち上がることができたのか。それを知るということは、結局は、立ち上がるための理由や目的や条件を知ろうとしていることでもあるのです。大事なことは、主イエス・キリストが、レビに価値を生み出し、レビを見つめ、レビに声を掛けてくださった。その無条件の恵みの中で、レビが立ちあげられていったということなのだろうと思うのであります。聖書が、ここで何も語らないのは、本当に大切な部分に光を当てるためなのかもしれません。
 私達もまた、レビと同じであります。神様の目には何も価値のない私達が、こうして、キリストのものとされ、神様のものとされ、主の弟子とされているのはなぜでしょうか。それは、主イエス・キリストが、あなたに価値を生み出し、あなたを見つめてくださり、そして、あなたに声を掛けてくださったから。そこには、私達の行いも条件も、何もないのでありましょう。ただただ、キリストが、あなたに価値を生み出してくださった。ただただ、キリストが憐れんでくださった。その幸いを、改めて、ここから強く思い起こさせられていくのではないでしょうか。
 15節から17節をお読みします。「イエスがレビの家で食事の席に着いておられたときのことである。多くの徴税人や罪人もイエスや弟子たちと同席していた。実に大勢の人がいて、イエスに従っていたのである。ファリサイ派の律法学者は、イエスが罪人や徴税人と一緒に食事をされるのを見て、弟子たちに、『どうして彼は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか』と言った。イエスはこれを聞いて言われた。『医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。』」
 主イエス・キリストの弟子になったレビ。彼は、主イエス・キリストを食事の席に招きます。そこには、多くの徴税人や罪人も同席していました。
 この様子に納得のいかない人もいました。それが、ファリサイ派の律法学者。彼らは、「区別する人」と呼ばれていました。正しいことと正しくないこと。聖と穢れ。彼らは、常に、区別をして生きてきました。
 彼らは、何が正しくて、何が正しくないかをよく知っていました。それ故に、彼らは正しくない人を裁き、正しい自分を誇り、場合によっては、人々の生活を支配することもありました。そうでありますから、このような人々にとって、罪人と交わりを持つ、主イエスと弟子たちの姿は、到底、受け入れられないものであっただろうと思います。
 実は、このような主イエスに対する疑惑や疑いこそが、次に、主イエスを殺したい、という感情に変化していくことになるのです。自分の正しさや誇りは、隣人を支配するだけではなく、神の御子すらも抹殺しようとする心を生み出していくのかもしれません。
 さて、主イエス・キリストは、律法学者たちに対して、次のように語ります。「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」
 この主イエス・キリストの御言葉には、矛盾点を感じないでしょうか。レビが、主イエス・キリストを食事に招いているのです。しかし、ここでは、主イエス・キリストが、罪人を招くのだと言われています。
 レビは、ここで大切なことを知ったのだろうと思います。自分が、救い主を迎え入れたのではなく、実は、救い主が、自分を迎えてくださったのだと。自分が、救いを受け入れたのではなく、主イエス・キリストが、自分を受け入れてくださったから救われるのだと。 そして、これだけではありません。自分が、この家の主人であると思っていた。しかし、本当は、主イエス・キリストが、この私の主人になっているのだと。これが、主の弟子であるということなのだ。自分を支配しているのは、ローマでもなく、律法学者でもなく、自分自身でもなく、この主イエス・キリストが、愛をもって、この私の生活を支配していてくださる。その幸いを、レビは、ここで味わい知る者とされたのではないかと思うのであります。そして、それを知っていきられる所に、私達、主の弟子であることの幸いもあるのだと言えるのであります。
 私達は、主イエス・キリストの憐れみによって、見つめられ、声を掛けられ、価値を生み出していただき、主の弟子とされました。その弟子の人生とは、誰にも縛られることなく、何にも縛られることなく、ただ、主イエス・キリストの愛と憐れみの御支配の中を、日々生かされていくということなのでありましょう。
 主イエス・キリストの支配は、律法学者のような裁きを基準とした支配ではありません。ローマのような力ある支配でもありません。この御方は、私達の罪のために十字架に架かり、惜しみなく、命を渡される御方です。それほどまでに、私達に価値を生み出し、大切な存在として受け止めていてくださる御方であります。
 その御方が、あなたに価値を生み出し、必要とするために、今も、声をかけ続けてくださる。私達に、この憐れみの原点を指し示し、日々、その憐れみを確かにしてくださる。そして、私達の生活を憐れみや愛で満たしてくださる。主の弟子であることの真の幸いを改めて、ここで深く思い起こさせられるものなのであります。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 08:47| 日記

2019年07月15日

2019年7月21日 礼拝予告

〇教会学校 9時15分〜
主題:「神に導かれたヨセフ」
聖書:創世記45章1節〜8節
※礼拝後、楽しく手話を学ぶ時があります。
※保護者の方々も是非、共にお越しください。

〇主日礼拝 10時30分〜
主題:「罪人を招くために」
聖書:マルコによる福音書2章13節〜17節
※礼拝後、五分の集い(青年の集い)があります。

皆様のお越しを心よりお待ち申し上げます。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 11:44| 日記

2019年7月14日 主日礼拝説教「罪を赦す権威」須賀 工牧師

聖書 マルコによる福音書2章1節〜12節

 今朝、私達に与えられた御言葉は、マルコによる福音書2章1節から12節の御言葉であります。今朝の御言葉のポイントは、主イエス・キリストの救いとは、「どのような救い」なのか、ということ。そして、もう一つは、主イエス・キリストとは、「どのような御方」なのか、ということであります。主イエス・キリストは、「どのような御方」であり、「どのような救い」を実現してくださるのか。それが、今朝の御言葉の大きなポイントなのであります。
 1節と2節をお読みします。「数日後、イエスが再びカファルナウムに来られると、家におられることが知れ渡り、大勢の人が集まったので、戸口の辺りまですきまもないほどになった。イエスが御言葉を語っておられると」。
 主イエス・キリストは、御言葉を語るのであります。大勢の群衆の中で、御言葉を語るのであります。癒しを行うのではありません。奇跡を行うのでもありません。あるいは、単なる教えを語るのでもありません。主イエス・キリストは、「御言葉」―即ち、神様の言葉―を語るのであります。ここに集う人々は、恐らく、主イエス・キリストに奇跡を願っていただろうと思います。癒されることを願っていただろうと思います。
 しかし、主イエス・キリストは、ここで、人の願いに応えるのではなく、ただただ、「神様の御言葉」を語られたのであります。つまり、神様の御言葉にこそ、人を本当に癒し、生かし、救う力がある。キリストの語られる神の言葉にこそ、本当の意味で、人間を救い出す力がある。人間を生かすことが出来るのは、神の御言葉、キリストの御言葉そのものなのであります。そのことが、ここでまず、強調されているのであります。
 それでは、主イエス・キリストが語られる救いの御言葉とは、どのような言葉なのでしょうか。3節から5節の御言葉をお読みします。「四人の男が中風の人を運んで来た。しかし、群衆に阻まれて、イエスのもとに連れて行くことができなかったので、イエスがおられる辺りの屋根をはがして穴をあけ、病人の寝ている床をつり降ろした。イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、『子よ、あなたの罪は赦される』と言われた。」
 主イエス・キリストの救いとは、どのような救いなのでしょうか。主イエス・キリストの語られる救いの御言葉とは、どのような御言葉なのでしょうか。それが、「信仰による罪の赦し」なのであります。
 この四人の男達は、体が麻痺した人を運んで来ます。他人の家の屋根を剥がし、病人をつり降ろして、言うならば、非常識な方法で、病人を運び入れるのであります。私達は、この四人の男たちの行いに感動を覚えるものでありますが、これは間違っているのです。
 彼らは、このような大胆な行いを通して、この人の体が癒されることを願っているのであります。主イエス・キリストの御言葉による救いを願っているわけではありません。その意味で言うならば、彼らは正しい信仰を持っているとは言えません。
 体が麻痺している人はどうでしょうか。この聖書の箇所の状況を見る限り、この人は、自分の力では何も出来ない人であります。つまり、今、ここに、キリストの前にいるのは、的外れな行いをした男たちと、自分の力を奪われた人なのです。
 しかし、主イエス・キリストは、この人たちの内に、自分だけを見つめる、信仰を見出してくださるのであります。他人の目や他人の思いよりも、人間の常識やルールよりも、ただ、主イエス・キリストに一心に向かって行く。その彼らの内に、主イエス・キリストが信仰を生み出してくださっているのであります。彼らの行いが信仰を生み出しているのではありません。元々、信仰のない男たちの内に、信仰を生み出し、力を奪われた人に「罪の赦し」という最高の救いを実現してくださるのであります。人間の力や人間の行いによって救いを実現してくださるのではなく、ただ、主イエス・キリストが、信仰のなき者たちに信仰というものを生み出し、そして、罪から解放し、神のものへと救い上げてくださる。これが、主イエス・キリストの救いなのであります。
 主イエス・キリストの救いは、「罪の赦し」であります。どれだけ、健康な体を持っていても、罪に留まり、神様のものとされていない。その所では、本当の救いはありません。どれだけ、不信仰で、無力で、罪に満ちたものであったとしても、主イエス・キリストと出会い、キリストの御言葉に聴き、結ばれていくところでこそ、人は、信仰を生み出して頂き、救いを味わい、死を越えるほどの真の自由に生きるものとされていくのであります。主イエス・キリストの救いとは、正に、そのような救いなのだということ。それが、ここから指し示されているのであります。
 しかし、人間の本音はどうでしょうか。目に見える、形ある救いを望んでいないでしょうか。主イエス・キリストは、心の中をよくご存じであります。それが、良く表されているのが、次の箇所なのであります。6節から7節の御言葉をお読みします。「ところが、そこに律法学者が数人座っていて、心の中であれこれと考えた。『この人は、なぜこういうことを口にするのか。神を冒涜している。神おひとりのほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか。』」
 律法学者たちは、「罪の赦し」は、神様のすることであると考えています。これは言い方を変えて申し上げるならば、どれだけ「罪の赦し」を語っても、それは、口先だけの冒涜でしかない、という意味でもあるのです。つまり、主イエス・キリストが、どれだけ「罪の赦し」を語っても、それは、口先だけの冒涜で、何も意味はない。無駄なことだと思っている。逆に言うならば、あなたのすべきことは、奇跡を行うこと。そのほうが意味のあることなのだ、ということなのであります。彼らにとって、主イエス・キリストの御言葉は、口先だけの冒涜であって、冒涜を受け入れることが出来るならば、誰にでも出来ることなのだと思っている。逆に言えば、奇跡の方が、よっぽど、難しく、それ故に、人々に喜ばれる、意味あることではないか。そのように、彼らは考えているわけであります。
 これは、私達の心の中にも起こり得ることではないでしょうか。御言葉に聴く。あるいは、説教に聴く。聖書の御言葉に聴く。そこで罪の赦しを聞く。でも、それは、人間の言葉であって、きれい事であって、私達の救いには意味がない。それよりも、日常生活のここを助けて欲しいとか、驚くべき奇跡をもって癒して欲しいとか、そのようなことを思うことがないでしょうか。
 ここで起きている問題は、何でしょうか。それは、主イエス・キリストが、ただの人間であると思い込んでいることなのです。ただの人間が、救いを語っているのだ、ということ。説教も同じです。ただの人間が、この講壇で語っているだけのこと。言い方を変えて言うならば、主イエス・キリストの御言葉も、説教で語られる御言葉も、一人の人間が、きれい事を並べ、口先だけで良い話をしているだけのこと。だから、御言葉から救いを味わうことができないのでありましょう。そこで、本当は、誰が、語っているのか。そこに目を向けていない。そこに問題が生じてしまうのであります。
 主イエス・キリストは、次のように語ります。8節から12節の御言葉をお読みします。「イエスは、彼らが心の中で考えていることを、ご自分の霊の力ですぐに知って言われた。『なぜ、そんな考えを心に抱くのか。中風の人に【あなたの罪は赦される】と言うのと、【起きて、床を担いで歩け】と言うのと、どちらが易しいか。人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。』そして、中風の人に言われた。『わたしはあなたに言う。起きあがり、床を担いで家に帰りなさい。』その人は起きあがり、すぐに床を担いで、皆の見ている前を出て行った。人々は皆驚き、『このようなことは、今まで見たことがない』と言って、神を賛美した。」
 主イエス・キリストは、ここで「奇跡」を行います。しかし、この奇跡には、明らかに目的があります。それは、「人の子―救い主―が地上で罪を赦す権威」があることを証明するためであります。つまり、主イエスは、ここで、御自身が、真の神であることを証明するために、奇跡を行ったということでありましょう。
 今、ここで、この奇跡が起きたということは、そこに神が生きているということであります。そうであるならば、今まで語り続けてきた福音も、罪の赦しも、御言葉の全ても、それは神御自身の御言葉ではないか、ということになるのであります。単なる人間の言葉ではない。神御自身が、そこで御言葉を語っている。キリストが語るところでは、神が語っておられる。説教も同じでありましょう。説教者の口を通して、神が、罪の赦しの御言葉と福音を語っておられるのであります。単なる人間の言葉が語られているのではない。神御自身が、ここで生きて働き、罪の赦しを語っていてくださる。キリストは、そのことを、ここで力強く証してくださるのであります。
 そして、それは、罪の赦しが、単なる人間によるきれい事ではなく、神があなたを真実に赦しているのだ、ということが、ここから改めて示されていくことなのではないでしょうか。不信仰な男達、力を奪われた人。その一人一人を赦し、信仰を生み出し、神のものとするために、神様御自身が御言葉をもって、赦しを実現してくださるのであります。人間が口先だけで語るのではなく、神御自身が、そこで罪の赦しを、あなたに語ってくださっているのであります。
 さて、主イエス・キリストは、問われます。「罪の赦し」と「奇跡」は、どちらが易しいことなのでしょうか。律法学者は、「罪の赦し」が口先であると考えています。だから、罪の赦しが簡単であると考えた。口だけのことだから。
 しかし、果たしてそうでしょうか。罪の赦しを得させるために、主イエス・キリストは何をしてくださるのか。罪の赦しを語る、その言葉の前提には何があるのか。それは軽々しく、口先だけのキレイ事で済ませられるものなのでしょうか。
 主イエス・キリストは、罪の赦しを実現させるために、御自身を十字架に架けられた。奇跡を持って人々を滅ぼすことなど簡単であったはずです。しかし、その力を使うことなく、正に無力となって、十字架に架けられた。私達人間の罪や穢れを背負い、十字架を背負われた。主イエス・キリストが語り、神御自身が語られる、罪の赦しの背後には、耐えがたいほどの、救い主の痛みや苦しみや悲しみがあることを、忘れてはいけないだろうと思うのであります。決して、簡単なことではないということであります。
 今、主イエス・キリストは、生きて、あなたに語っています。あなたの罪は赦されている。あなたの罪を背負って十字架に架かるのだ。だから、あなたは救われている。今も、主は生きて、語りかけてくださっています。どうか、この御言葉に聴き、御言葉の内にある真の救いを味わいつつ、新たな日々を歩み出して頂ければと思います。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 11:42| 日記