2025年03月09日

2025年3月9日 主日神の家族礼拝説教「香油を注がれる主イエス」大坪信章牧師

マタイによる福音書26章6節〜13節、ルツ記1章15節〜19節
「香油を注がれる主イエス」

 教会では、先週の5日の水曜日から受難節レント(四旬節)に入りました。その日から日曜日を抜かした40日間、イエスさまの十字架を思い、悔い改めの心を神さまに向けて過ごします。それは、イエスさまが私たちの罪の身代わりとして、十字架に架かって死んでくださったからです。日曜日を抜かして40日を数えるのは、日曜日がイエスさまの復活の喜びの日だからです。皆さんも、そのように3月5日から数えてみてください。そうすると、4月19日(土)が、丁度40日目になります。そして、その翌日の4月20日(日)が、イエスさまの復活の記念日イースターの日曜日です。
 
 今日のお話は、イエスさまが、エルサレムの都で十字架に架けられる2日前のお話です。その日イエスさまは「ベタニア」そこは、エルサレムの都から8q手前の村におられました。ちょうど石山から草津までの距離と同じです。イエスさまは「重い皮膚病の人シモンの家」に招かれていました。「重い皮膚病」という病気は、現代の「ハンセン病」に似ていて、病気と、社会から見放されるという、2重に苦しい病気でした。でも、イエスさまは、シモンを見捨てず、その病気を癒されたのです。だから、シモンは、感謝の気持ちを込めて、イエスさまを自分の家に招待したのです。

 すると、シモンの家に「一人の女」の人が入って来ました。彼女は、ヨハネ福音書では、マルタとマリアの姉妹の妹マリアと言われています。彼女は「極めて高価な香油の入った石膏の壺」通称ナルドの香油を持っていて、それを、いきなり食事中のイエスさまの後ろから近寄り、頭に注ぎかけたのです。突然、人の頭に液体をかけたら、今なら暴行罪で捕まります。でも、彼女の行為は、ユダヤの国では悪い行為ではなく古い習慣でした。ユダヤの人は、自分の家に客を招いたら、歓迎と、おもてなしの意味を込めて、客の頭に香油(油)を注いだのです。ただ、彼女は、家の主人ではないので、歓迎の意味で香油を注いだわけではありません。それ以外にも、香油は、色んな使い道がありました。客に香油を注いだ場合は、香油が、香水のように良い香りを放つので、客も部屋中も良い香りに包まれて、客を喜ばせられます。

 しかし、彼女の行為を見た弟子たちは「憤慨」して言いました。8節「なぜ、こんな無駄遣いをするのか」と。マルコ福音書では、石膏の壺を壊して注いだとあるので、彼女は、お金に換算すると300万円の「香油」を、残らずすべてイエスさまの頭に注いだのです。300万円は、平均的な年収です。皆さんは、彼女の行為を「無駄遣い」だと思いますか。それとも、何か意味があって、そうしたと思いますか。正解は、意味があって、そうしました。しかし、弟子たちは「無駄遣い」だと思ったので、彼女に言いました。9節「高く売って、貧しい人々に施すことができたのに」と。確かに、香油を売って得た300万円を「貧しい人々」に施せば、貧しい人たちは喜びます。それに対して、香油をイエスさまに注いでも、何にも残りません。でも、大事なのは、なぜ、彼女は「高価な香油」を惜しげもなく、イエスさまに、すべて注いだのか、です。実は、彼女には、弟のラザロがいました。彼は、しばらく前に病気で死んで墓に葬られたのです。姉妹は、イエスさまを呼んで、その4日後、イエスさまが墓へ来て、彼を墓から呼び出してくださったので、ラザロは、命を繋ぐことができました。だから彼女は、イエスさまに感謝の気持ちを抱いていました。そういう意味では、この家の主人であるシモンと彼女は、同じ気持ちを抱いていたと言えます。

 それなのに弟子たちは、彼女がイエスさまにした行為と、全く別の「貧しい人々」への施しという2つの出来事を天秤にかけ、彼女がイエスさまにした行為が無駄で無意味だと言ったのです。そこでイエスさまは、彼女の気持ちを理解せず、彼女を困らせる弟子たちに言われました。10節「なぜ、この人を困らせるのか。わたしに良いことをしてくれたのだ」と。「良いこと」というのは、12節「この人はわたしの体に香油を注いで、わたしを葬る準備をしてくれた」ということです。だからイエスさまは、彼女を擁護して言いました。11節「貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない」と。確かに「貧しい人々」は、社会に一定数いるので、施す機会は幾らでもあります。でも、イエスさまの十字架の死は、2日後です。イエスさまに感謝の気持ちを表す時間は、もう残り少ないのです。

 香油の使い道については、客を歓迎し、おもてなしをする以外にも色々あると言いました。他に旧約時代には、大祭司の任職の時、王様の即位の時にも注がれました。新約時代には、病気の人の治療の時や、埋葬の準備として、遺体にも注がれました。香油は、香水のように、とても良い香りがするため、遺体に塗れば、遺体の臭いを抑え、腐敗を防ぐことができました。実際、彼女は、どこまでイエスさまの死を理解していたかは分かりません。弟子たちでさえ、はっきりとは分かっていませんでした。でも彼女は、イエスさまの死を何かしら悟っていたからこそ、埋葬の準備として「高価な香油」を、すべてイエスさまに注いだのです。これは、イエスさまの苦しみや痛みが、少しでも和らいでほしいという、彼女の優しさであり愛の気持ちの表れです。

 そもそも自分の財産を、誰のために、何のために、どれだけ使うのかは、その人が決めることです。他人が口出すことではありません。もし、その「高価な香油」が、家族の共有財産とか借金なら話しは別で、彼女の身内や貸した人が「無駄遣いするな」とは言えます。しかし、弟子たちは、お金のことしか考えず、大金が勿体ないと言いました。でも彼女は、イエスさまの死が、多くの人々の救いとなると悟っていたからこそ、自分にできる最大限の愛の形(しるし)として「高価な香油」をイエスさまに注いだのです。実に、イエスさまは、私たちが罪に囚われ、罪に苦しみながら生きることがないように、私たちの罪のために死んでくださったのです。だから、イエスさまを信じる人は、罪と共に生きるのではなく、愛と正義と共に生きられるのです。

 これを“愛の浪費”と言います。愛の浪費は、他人には、中々理解されず、無駄、無意味、勿体ないと思われがちです。でも、イエスさまは言われました。13節「はっきり言っておく。世界中どこでも、この福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう」と。「この福音」というのは、イエスさまの十字架と復活という良い知らせです。だから、この福音が宣べ伝えられる所では、彼女のしたことも、記念として語り伝えられるのです。要するに、イエスさまの十字架の死は、私たちへの愛のしるしだったのです。だから私たちも、イエスさまの十字架の愛に、愛の気持ちを込めて応えていくのです。愛の形は、それぞれ違って当然です。祈り、献金、奉仕、献身など、その形は様々です。大事なのは、その形に自分の気持ちをしっかりと込めることです。愛の浪費は、愛を献げるということだからです。これは無駄なことですか? 決して無駄ではありません。その積み重ねが、信仰によって生きるということです。私たちも自分の愛を、イエスさまのために浪費し、隣人のためにも浪費できる、そのような素敵な人生を歩んでいきましょう。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 10:22| 日記

2025年03月05日

2025年3月16日 礼拝予告

〇教会学校 9時15分〜
聖 書:マタイによる福音書26章17節〜25節
説 教:「過越の食事」

〇主日聖歌隊礼拝 10時30分〜 
聖 書:マタイによる福音書27章15節〜26節、エレミヤ書26章7節〜19節
説 教:「2人のイエスの処遇」大坪信章牧師

感染予防対策をした上で、礼拝を献げています。みなさまのお越しを心よりお待ち申し上げます。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 23:52| 日記

2025年03月02日

2025年3月2日 主日聖餐礼拝説教「不思議な沈黙」大坪信章牧師

マタイによる福音書27章11節〜14節、詩編62篇1節〜13節                 
「不思議な沈黙」

 教会の暦で降誕節第10主日を迎えました。今週の半ばをもって、クリスマスから始まった降誕節が終わります。そして、いよいよ今週の半ば、今年は3月5日の灰の水曜日から受難節レント(四旬節)に入り、次週の日曜日が受難節第1主日となります。灰の水曜日は、カトリックの儀式で、枝を燃やして出来た灰を、頭か額に掛けることで、悔い改めの気持ちを現したことに由来します。つまり、その受難節レントの開始の日から、私たちは、私たちの罪のために身代わりとなって十字架に架かって死んでくださった、イエスさまの十字架の御苦しみを思って過ごします。その期間は、4月19日(土)まで続きます。そして、翌4月20日(日)が、今年のイースター、イエスさまの復活の日です。だから、今週は未だ、ぎりぎり降誕節の日曜日です。けれども私たちは、今日この日曜日から十字架に向かって歩み、その身に苦難を背負われたイエスさまの十字架の道行きを共に辿ります。というのは、クリスマスに誕生されたイエスさまは、占星術の学者(通称、博士たち)が献げた没薬の贈り物が物語っているように、お生まれになった時から十字架の死を身に帯びておられました。そのことを考えれば、この降誕節が終わる日曜日から、イエスさまの十字架の道行きを辿るのも、イエスさまを知る上では、大切なことだと言えます。

 それでは、イエスさまの十字架の道行きを共に辿って行きます。この十字架の道行きは、先程も述べた通り、イエスさまの誕生の時に、既に十字架の死の影が射していたので、そこから始められます。もっと言えば、イエスさまは、苦難の僕、或いは、苦難の王なので、旧約の預言者や王の時代から始められます。もっと言えば、イエスさまの血は、小羊の犠牲の血でもあるので、祭司の時代から始められます。更に言えば、十字架の影は、エバとアダムが蛇に誘惑されたエデンの園の出来事にも射しています。というのは、創世記3章15節に「お前と女、お前の子孫と女の子孫の間にわたしは敵意を置く。彼はお前の頭を砕きお前は彼のかかとを砕く」とあるからです。「お前」とは、蛇という名のサタンです。また「女の子孫」或いは「彼」とは、エバの子孫として生まれるイエスさまです。そうするとイエスさまは、サタンの「頭を砕き」サタンは、イエスさまの「かかとを砕く」と解釈できるのです。つまり、サタンは、イエスさまを十字架の死に追い詰めますが、イエスさまは、その十字架の死によってサタンの力を無力化します。なので、イエスさまの十字架の道行きは、創世記から、天地創造の初めから始まっていると言えます。これらの十字架の死の影が射した1つひとつの旧約の物語は、それこそ『不思議な沈黙』の様相を呈しています。ただ、普通、十字架の道行きと言えば、イエスさまが、当時ユダヤを支配したローマ総督の前で裁判にかけられ、死刑を宣告され、十字架を背負わされる場面から始まります。

 それが今日の物語です。11節を見ると「さて、イエスは総督の前に立たれた」とあります。この経緯は、27章1節2節に書かれてあるように「夜が明けると、祭司長たちと民の長老たち一同は、イエスを殺そうと相談した。そして、イエスを縛って引いて行き、総督ピラトに渡した」ので、イエスさまは「総督の前に立たれ」ました。つまり、イエスさまは、犯罪人として裁判にかけられるため、総督ピラトの前に立たされたのです。実に、この時に行なわれた裁判は2回目でした。というのは、26章57節以下に記されている通り、この裁判の前にもイエスさまは、人々に捕らえられ、ユダヤの最高法院に連れて行かれたからです。そこで最高法院のメンバーたちは、イエスさまを死刑にしようと大祭司カイアファの前で偽証人を立て、イエスさまにとって不利な偽証をさせましたが、証拠は何もありませんでした。しかし、結局は、大祭司カイアファがイエスさまを神への冒涜罪に定め、人々もイエスさまを「死刑にすべきだ」と言いました。しかし、最高法院は、当時ローマ帝国の支配下にあったので、人を死刑にする権限を行使できず、それでイエスさまを殺そうとした「祭司長たちと民の長老たち一同」は、イエスさまをローマ総督のもとに引いて行ったのです。このような経緯で、イエスさまは、総督ピラトの前に立たされました。もはやイエスさまは、水面下で蠢く人間の悪しき思惑や勢いに全く呑まれたかのようです。

 しかし、聖書は次のように言うのです。「イエスは総督の前に立たれた」と。立たされたのと立たれたでは、話しが全然違ってきます。だからイエスさまは、人間の悪しき思惑や勢いが罷り通る苦難の中でも、決して、その思惑や勢いに呑まれず、むしろ、毅然とした態度で「総督の前に立たれた」ことが見て取れるのです。それは、何事にも動じず、御自分の信念を貫かれる態度です。けれども、どうでしょうか。総督がイエスさまに、11節「お前がユダヤ人の王なのか」と尋問すると、イエスさまは「それは、あなたが言っていることです」と言われたのです。これは、尋問の内容を認め肯定しているようですが、答え方としては曖昧です。他の訳では「そうとも言える」となっていて尚更です。更に他の訳では「その通りだ」となっていますが、福音書が書かれた原語のギリシャ語は、そこまで断言していません。イエスさまが言われた「それは、あなたが言っていること」という動詞の用法と時制は、直説法の現在です。直説法とは、現実のことや現実に起こる可能性があることについて述べる時に用い、それは、明日以降にも影響する現実です。だから、総督が「お前がユダヤ人の王なのか」と言った言葉は現実で、現実に起こる可能性があり、その現実は、明日以降にも影響していくのです。イエスさまの現在は、占星術の学者(通称、博士たち)の物語の通り「ユダヤ人の王」として生まれた方です。だから、その現実が明日以降も、つまり、十字架で死んだ後も影響していくのです。しかも、その現実は、ユダヤ人という範囲を超えて、異邦人も含む「全人類の王」となる現実として影響していきます。

 もし、イエスさまが総督ピラトの尋問に「その通り、わたしがユダヤ人の王だ」と言われたら、ピラトの言葉は上書きされます。そうすると、先にピラトが言った「お前がユダヤ人の王なのか」という言葉は、ピラトが言った言葉ではなくなり、ピラトは、イエスさまの口から出た正しい言葉によって裁かれます。しかし、イエスさまが「それは、あなたが言っていることです」と、ピラト自らが言ったことにすることで、ピラトには救いの可能性が与えられ、たとえ、今この時が過ぎ去っても、明日以降も、その可能性が与えられるのです。これは、1回目の最高法院で行なわれた裁判の、大祭司カイアファの尋問にも、イエスさまは同様に答えられたので、カイアファに対しても同じことが言えます。要するに、この不当な裁判の前に立たれたイエスさまの毅然とした態度は、御自分の正しさを主張するためではなかったということです。むしろ、限りなく私たちを「イエスは主である」という信仰の告白へと導き、決して救いの可能性を遮らないと言えます。だから、自ずから続く物語の内容も、腑に落ちるのです。その内容とは、12節「祭司長たちや長老たちから訴えられている間、これには何もお答えにならなかった」というイエスさまの態度です。ここで「祭司長たちや長老たち」が、イエスさまに発した言葉は、大祭司カイアファや総督ピラトが発した、信じて口にすれば信仰告白になる、そのような言葉ではありません。彼らは、イエスさまの言動を捏ね繰り回し、イエスさまに不利な証言や偽証として告発したのです。

 そう言えば、最近も、それに似たようなことが起こったような気もしますが、気のせい、ではないですね。しかし、イエスさまは「これには何もお答えにならなかった」のです。先程は、大祭司カイアファや総督ピラトに対して口を開いて答えられたのに、ここでは一言もお答えになりませんでした。それは、イエスさまが「総督ピラトの前に」毅然とした態度で立たれた姿とは、かけ離れているように見えます。だから、私たちとしては、その同じ裁判の中で御自分を告発する者たちにも、イエスさまが、毅然とした態度であってほしいと思うのです。ただ、考えても見れば、イエスさまは、総督ピラトに、救いの可能性を与えるという意味で、実際は、曖昧に答えられました。今回イエスさまは、告発する者たちに「何もお答えにならなかった」わけですが、実際は、ピラトに為さったのと同じことを、ここでも為さっただけなのです。それは、曖昧ということが同じなのではなく、ピラトに救いの可能性を与えたという意味で同じことが、つまり、イエスさまを告発する者たちに救いの可能性を与えるという意味で同じことが起こったのです。それがイエスさまの沈黙です。すると、そんなことは、知る由もないピラトが、見兼ねて口を挟んでイエスさまに言いました。13節「あのようにお前に不利な証言をしているのに、聞こえないのか」と。しかし、イエスさまは、14節「それでも、どんな訴えにもお答えにならなかったので、総督は非常に不思議に思った」のです。この「不思議に思った」という言葉は「驚き呆れた」というふうにも訳されます。なぜなら、イエスさまは、何を言われても、弁明どころか、彼らの告発の内容すら、全く気にも留めない様子だったからです。

 これが、イエスさまの、沈黙は沈黙でも『不思議な沈黙』です。沈黙したくなる時を考えれば、それは、例えば、律法学者やファリサイ派のような、もう、何を言っても対話にならず、人の話しを聞かず、一方的に論破してくるような人には口を噤(つぐ)むということがあります。でも、イエスさまが沈黙された、それも『不思議な沈黙』を為さったのは、それが理由ではありません。その「不思議」とは、イエスさま御自身が、旧約の時代に預言され、待ち望まれた救い主だったということが大きく関係します。つまり、なぜ、イエスさまは、毅然とした態度で総督ピラトの前に立たれたのに、御自分を告発し訴える者たちに対しては沈黙なさったのか。それは、旧約のイザヤ書53章7節以下に、次の言葉が記されていたからです。7節「苦役を課せられて、かがみ込み彼は口を開かなかった。屠り場に引かれる小羊のように毛を刈る者の前に物を言わない羊のように彼は口を開かなかった。捕らえられ、裁きを受けて、彼は命を取られた。彼の時代の誰が思い巡らしたであろうか。わたしの民の背きのゆえに、彼が神の手にかかり命ある者の地から断たれたことを。彼は不法を働かず、その口に偽りもなかったのに、その墓は神に逆らう者と共にされ、富める者と共に葬られた。病に苦しむこの人を打ち砕こうと主は望まれ、彼は自らを償いの献げ物とした。彼は、子孫が末永く続くのを見る。主の望まれることは、彼の手によって成し遂げられる。彼は自らの苦しみの実りを見、それを知って満足する。わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために彼らの罪を自ら負った。それゆえ、わたしは多くの人を彼の取り分とし、彼は戦利品としておびただしい人を受ける。彼が自らをなげうち、死んで、罪人のひとりに数えられたからだ。多くの人の過ちを担い背いた者のために執り成しをしたのは、この人であった」と。

 もし、イエスさまが、告発し訴えてきた者たちに対して沈黙を破り、弁明されたら、どうなっていたでしょうか。おそらく、告発者たちの顔は血の気が引いて真っ青になり、死人のようになったでしょう。なぜなら、彼らは偽証を積み重ねていたからです。嘘偽りの証言をしていたからです。要するに、総督ピラトの時もそうだったように、イエスさまが、この裁判の席で御自分のために口を開かれたのであれば、その言葉は、不当な裁判に関わった、すべての人々を裁く言葉になったからです。しかし、イエスさまが不利な証言や偽証をする者たちに対して、沈黙されたというなら、それは、先程イザヤ書53章を朗読した通り、イエスさまが、御自分を十字架に架けようとしたすべての人々の罪を一身に受け、背負われたということなのです。こんなことも分からない私たちです。自分の罪が、イエスさまを十字架に架けて殺したということが分からない私たちです。しかし、イエスさまの、この『不思議な沈黙』によって、それこそ、真の毅然とした態度により、私たちは救われたのです。イエスさまは、このどうしようもない私たちの罪のために、身代わりとなって十字架に架かって死なれました。この十字架の犠牲こそが、私たちを救うのです。このイエス・キリストの愛によって私たちも目を覚まし、今週半ばから始まる受難節レントの期間を悔い改めによって歩み通していきたいと思います。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 10:21| 日記