2024年01月07日

2024年1月7日 主日礼拝「弱さを誇る」大坪信章牧師

コリントの信徒への手紙2、12章1節〜10節、出エジプト記4章10節〜17節
説 教 「弱さを誇る」

 今日は、成人礼拝という特別の礼拝です。この礼拝には、共に歩む清和幼稚園の20歳(成人)になった卒園生をお招きしています。ひとまず「お帰りなさい」と言いたいですね。卒園生にとって、この教会幼稚園は、魂の故郷だからです。そして、すべての人々にとって、教会は、魂の故郷です。ところで、卒園生の皆さんは、清和幼稚園の建学の精神を覚えていますか。それは『こころのやさしい子どもを育てる』です。世間では『三つ子の魂百まで』と言いますので、卒園生にも、きっと、優しい心が宿っています。今日の聖書のお話は、その心の優しさに通じる『弱さを誇る』という、お話しです。普通、世の中では「圧倒的強さを誇る」と言ったりするので「弱さを誇る」という言い方自体、成立しないようにも思えます。でも、聖書は、いつも世の中とは真逆のことを言います。そのことは、ぜひ覚えておいてください。他にも「悲しむ人々は、幸いである」(マタイ福音書5章4節)とか「狭い門から入りなさい」(同5章13節)と言ったりします。ただ、この真逆を地で行こうとすると、どうしても躊躇いが生じます。みじめにならないか。損をしないか。無意味ではないかというふうに。だから、人間は、どうしても、強さを誇ろうとしてしまうのです。

 先ほど読んでいただいた聖書の言葉は、キリストの使徒と呼ばれるパウロが、ギリシャのコリントの町の教会に宛てて書いた手紙です。パウロは、当時、現在のトルコやギリシャの国を巡回しながら宣教していました。そのため、各地に沢山の教会が建てられていきました。そこで、パウロは指導者として、その建てられた教会のために奔走し、離れた場所にいる時は手紙を書きました。そうして、教会の問題やトラブルを解決し、教会の発展に尽くしたのです。この手紙の10章〜12章のテーマは「誇り」です。たかが誇り、されど誇りです。もし、誇るものを間違えてしまえば、自分という人間性が崩壊します。そして、教会という組織・共同体も崩壊し兼ねません。要約すると、まずパウロは、1節を見ると、自分が神さまから見せてもらった幻を、誇りたくて仕様がないと言っています。誇りとは、いわゆる自慢話しです。でも、これは、パウロの本心ではありません。この時パウロは、既に『弱さを誇る』という信仰によって生きていたので、自慢話しが「無益」ということは分かっています。その上で、パウロは、自分が見た幻を、敢えて誇り、敢えて自慢するのです。

 続いて、2節を見ると、パウロは「キリストに結ばれていた一人の人を知っています」と言っていますが、それは、自分のことです。それでは、なぜ、自分のことを、わざわざ第3者のように見立てたのかと言うと、それは、自分が思い上がらないためです。パウロは「十四年前、第三の天にまで引き上げられた」と言っています。天は、当時3つの層に分かれていると言われていました。地上に近い順に、第1の天が大空、第2の天が宇宙、第3の天が楽園(神の国)です。だから、パウロは、一番、上の楽園(神の国)にまで行ったのです。ただ、そこに体ごと行ったのか、魂(霊)だけが行ったのかは、自分では分からないので、神だけが知っていると言います。 そして、その楽園で、4節「人が口にするのを許されない、言い表しえない言葉を耳にした」と言うのです。おそらく、世の終わりや新しい世のこと、また、神の存在のリアルについて聞いたのでしょう。パウロは、そういう人の特別な体験こそ誇ると言うのです。

 しかし、それに対して、5節を見ると「自分自身については、弱さ以外には誇るつもりはありません」と言います。ただ、実際にパウロは、そういう特別で神秘的な体験をしたので、それを誇っても嘘にはならず、嘘つき呼ばわりもされません。それでも、そういう神秘的な体験や、誰もが羨むような体験は誇らず、自分の弱さだけを誇ると言うのです。その理由は2つあります。1つは、6節「わたしを過大評価する人がいるかもしれない」からです。もう1つは、 7節「思い上がることのないように」です。まず「過大評価」についてですが、過大評価とは、事実よりも高く見積もったり評価したりすることです。だから、自分を誇れば、場合によっては、相手が自分のことを見た目以上に、また、自分の話しを聞く以上に過大評価する可能性があるのです。そうなると、相手に本当の自分を知ってもらえなくなります。要するに、自分が、ありのままではいられなくなるのです。等身大の自分ではいられなくなり、結果、自分らしく生きることができなくなります。また「思いあがり」についてですが、これは、天狗のように、高慢に高ぶって、自分が自分を過大評価することです。そうして、他人と自分を比較します。そうなると、場合によっては、築き上げて来た自分の立場や人間関係、そして財産を、すべて失うことになります。

 だから、パウロは、7節で、そんなふうに「思い上がることのないように」「わたしの身に一つのとげが与えられました。それは、思い上がらないように、わたしを痛めつけるために、サタンから送られた使いです」と言ったのです。人間は、思い上がることと引き換えに、大切なものや大事なものを失います。だから、そうならないように、パウロは、自分に「とげ」が与えられたと言ったのです。この「とげ」は、パウロにとって苦痛や悩みの種である、一種の病気と言われています。眼病か癲癇か、マラリアか片頭痛か、詳しいことは分かりません。ただ、それは「とげ」と表現されているので、刺すような慢性的な痛みだったようです。しかし、その痛みは、警告音のように、自分が間違った思いや行動に走ろうとした時、特に思い上がろうとした時、はっと我に返らせてくれるものでもあったのです。確かに痛い、でも、その痛みのお陰で、パウロは、思い上がらず、大切なものや大事なものを失わずに済んだのです。

 ただ、その痛みに耐えられない時期もあったようです。だから、8節を見ると、そのような時は「とげ」である「サタンから送られた使い」を、自分から離れさせてくれるように、3度も神さまに祈ったとパウロは言っています。数字の3は完全数なので、何度も祈ったことが窺えます。しかし、神さまからの答えは、9節にあるように「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」というものでした。ということは、パウロが抜いてほしいと願った「とげ」は、抜かれずに、痛みは残ったのです。ただ、パウロは、それ以上に素晴らしい言葉を神さまからいただきました。それが「わたしの恵みはあなたに十分である」という言葉です。他の訳では「わたしがあなたと共にいる。それで十分ではないか」となっています。

 だから、パウロは、最後に、こう言うのです。9節「キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう」と。この「キリストの力」というのは、謙遜です。この謙遜が心に宿るように、パウロは「大いに喜んで自分の弱さを誇る」と言うのです。その弱さは、パウロが抱えていた病状だけに限らず、10節を見ると「侮辱」も「窮乏」も「迫害」も「そして行き詰まりの状態」も、みんな、そうでした。ただ、そういう目に遭っている時のパウロは、決して思い上がったりしなかったのです。だから、そのような弱さを抱える状態を、パウロは「キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱い時にこそ強いからです」と言えたのです。それは、本当にそうなのです。もし、思い上がるような人間になってしまったら、人は、自分を見失い、結局は、すべてを失ってしまうからです。

 20歳になった卒園生の皆さんは、学生の方が多いと思います。いずれ、学問や知識や技術を身に着けて、世に出て行きます。既に世に出て働いている人は、経験や技術を身に着けています。皆さんには、若さがあり、これから色んな力や能力を身に付けて、何でもできるようになります。でも、人生には、それ以上に大切な学びがあることを、皆さんには知っておいてほしいのです。力の使い方を間違えないようにしてほしいのです。思い上がったら終わりです。世の中には「過大評価」について注意してくれる人や「思い上がり」について諭してくれる人は中々いません。いたとしても、若い時や調子に乗っている時は、誰の言葉も耳に入って来ないのです。悲しいことに、栄光から挫折という転落の例は、至る所に転がっています。そして、気づいたら、すべてを失ってしまっていた。そうならないために、若い皆さんには「キリストの力」である謙遜を心に宿していただきたいのです。それが『弱さを誇る』ということです。

 この「弱さ」は、自分にとって、決して、みじめでも無意味でもありません。また、それは、単に酷い目に遭ったとか、嫌な目に遭ったとか、そういうふうに考えるものでもありません。そのような時こそ「キリストの力」である謙遜は、私たちの心の中に宿るからです。それが、私たちの誇りです。なぜなら、この謙遜という「キリストの力」には、共感する力があるからです。逆に思い上がりには、反感や反発する力があります。どちらの力が自分を成長させてくれるのか、また、自分の所属する組織や共同体を成長させてくれるのかは、一目瞭然です。だから、イエス・キリストが十字架に架けられた姿に、多くの人は共感するのです。そして、この十字架の謙遜、それは、イエス・キリストの弱さによって、私たちは救われるのです。イエスさまは、私たちを罪から救うため、私たちの罪を背負って十字架に架かり、その罪を償って死なれました。その謙遜には、神さまの私たちへの愛が溢れています。だから、十字架に架けられたキリストの姿は、人々の共感を呼ぶのです。私たちも、このイエスさまを信じ、弱さを誇る者になりましょう。そして「キリストの力」である謙遜と愛の交わりの中で、互いに共感し合い、私たちにとって大切なものや大事なものを、これからも守り続けていきましょう。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 19:47| 日記

2024年1月14日 礼拝予告

〇教会学校 9時15分〜
聖書:テモテへの手紙2、3章14節〜4章5節
説教:「聖書は神の霊の導きの下に」

〇主日礼拝 10時30分〜 
聖 書:ルカによる福音書7章36節〜50節、イザヤ書6章1節〜8節
説 教:「罪の赦しを信じる信仰」大坪信章牧師

感染予防対策をした上で、礼拝を献げています。みなさまのお越しを心よりお待ち申し上げます。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 01:30| 日記

2024年01月01日

2024年1月1日 元旦礼拝「神に倣う者」大坪信章牧師

1月1日 エフェソの信徒への手紙4章25節〜5章2節
説 教 「神に倣う者」  

 新年おめでとうございます。今日は2024年1月1日です。おまけに11時からの元旦礼拝ということで、1並びのぞろ目です。これを世の中では、エンジェルナンバー(天使の数字)と言うようです。でも、そこに、今日、私たちが求めているものはありません。1並び以外にも、8並びなど色々あるようですが、それは、天使からのメッセージだとも言われるようです。たとえ、そうだとしても、そこに、今日、私たちが求めているものは、何もありません。

 改めて、今日は、新しい年の新しい月の新しい一日と言うことで、新しいこと尽くめです。その中に、今日、私たちが求めているものがありそうです。もしかしたら、クリスマスや年末に新しい服を買って、まさに今日、新しい年の始まりに着て来られた方がいるかもしれません。新しいのは、本当に見ていて気持ち良いものです。新しいのが嫌だという人は珍しいかもしれません。もし、新しいのが嫌だという人がいれば、その人は、ワイン通かもしれません。人間、誰しも生きていれば、人間そのものが古くなっていきますから、新しくなるための努力は、皆さん大変です。でも、この生身の体が、生まれて此の方、何十年も腐らずに、よく動いて、よく声を出しているな、と感心します。自分の体に感心するわけではなく、そういう被造物を造られた神さまは、素晴らしいなと思います。それも日々、再生を繰り返しているからこそ腐らず、保ち続けることが出来ます。こういう再生が繰り返される現状を思えば、キリストの復活に見られる死者の甦りが無いわけがありません。ただ、身体は腐らずとも、心が腐ったり、考え方が腐ったりするのが人間です。だから、本当に今日、私たちが求めてきた新しさを実感するためには、心が新しくなる必要があります。先ほど、少し新しい服のことについて触れましたが、聖書には、23節で「新しい人」のことが記されています。いわゆる、古い人、新しい人の「新しい人」です。勿論、古い人のほうは脱ぎ捨てて「新しい人」のほうを身に着けます。こうして、初めて、すべてが新しくなったと言えます。その「新しい人」を着て、心から新しい気持ちになって、この2024年という一年を、始めることができれば幸いです。

 それでは、その新しい人を身に着けたいと思いますが、まず、25節で「だから、偽りを捨て、それぞれ隣人に対して真実を語りなさい。わたしたちは、互いに体の一部なのです」とあります。これは、嘘偽りによって隣人を陥れたりせず、事実は事実として語るということです。人間は、自分が不利になったり、逆に、有利になると分かった時、事実を曲げるようなことをします。それは、裏切りにも似た言動で、それを被ったほうは、本当に傷つきます。しかし、そのように自分に都合良く生きるのは、結局、相手の隣人だけではなく、自分をも傷つけることになると聖書は言うのです。なぜなら「わたしたちは、互いに体の一部」だからです。同じ家族や同じ信念を抱く共同体や組織は、一つの体です。その中で事実を曲げるというのは、その意味する体(自分)のために、何も良いことなどないのです。それは、まるで同士討ちのようで、自分の首を絞めるようなことです。だから、新しい人は、自分よりも、組織全体、体全体を優先する人だと言えます。

 次に、26節では「怒ることがあっても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで怒ったままでいてはいけません」とあります。怒りは、家族や同じ信念を抱く共同体や組織を一つの体と考えれば、その体に相当のダメージを与えます。それだけではなく、健康上の理由で自分の体にも悪いのです。罪は、具体的に恨みを抱くということです。恨みを抱けば、その先には、最悪の事態が予想できてしまいます。とは言っても、怒らない人などいません。人間は、誰でも喜怒哀楽の感情は持っています。だから「怒ることがあっても」と、聖書は言うのです。そして、聖書は、その怒りについて「日が暮れるまで」続けないようにと言います。これは、翌日まで持ち越さないということです。つまり、1日を区切りとするということです。それが無理なら、1週間でも1か月でも、ある時を区切りとするということです。この年末年始であれば、新年まで持ち越さないと言えます。いずれにしろ、新しい人は、子どものように、寝たら、すぐに忘れる人だと言えます。

 また、27節では「悪魔にすきを与えてはなりません」とあります。これは、今、取り扱ってきた嘘偽りや怒りもそうですし、28節29節にある「盗み」や「悪い言葉」そして、31節の「無慈悲、憤り、怒り、わめき、そしり」もそうです。そういう感情や言葉はすべて、悪魔に「すき」それは、機会やチャンスを与えることに繋がります。だから、そういう感情や言葉が自分の中に生まれた時、翌日まで持ち越さないというのが一つの対処法です。やっぱり、自分の心身の状態が弱っている時や、余裕がない時に、付け込む隙を与えてしまっていることが多いのです。だから、悪魔は、まるで、病原菌のようです。そういう意味では、事が起こってしまった時には、早め早めの対処が必要です。しかし、新しい人は、その上をいく人で、要するに、事が起こる前、つまり、最悪の事態を想定し、前もって予防線を張っておく人だと言えます。

 その具体例が、28節にあります。「盗みを働いていた者は、今からは盗んではいけません。むしろ、労苦して自分の手で正当な収入を得、困っている人々に分け与えるようにしなさい」と。要するに、盗みを働くようなことをしないでもいいように、「労苦して自分の手で正当な収入を得る」ということです。そうすれば「困っている人々に分け与える」こともできるのです。そうなると、もはや悪魔に隙を与えるどころか、神さまに「よくやった」と、お誉めの言葉をいただくようなことを、自然に実行できる人になれるのです。また、もう一つの具体例として、29節には「悪い言葉を一切口にしてはなりません。ただ、聞く人に恵みが与えられるように、その人を造り上げるのに役立つ言葉を、必要に応じて語りなさい」とあります。要するに、悪い言葉を発しないでもいいように「聞く人に恵みが与えられ」「その人を作り上げるのに役立つ言葉」を「必要に応じて語る」ことができるようにしておくということです。それは、相手の益になる言葉、助けになる言葉のことです。そのことを「相手の耳に恵みを施すように」と訳している文章もあります。施しは、別に金銭によらずとも、言葉によって実践することもできるのです。その言葉は、人を立ち直らせたり立ち上がらせたり、意欲を与えることに繋がります。だから、それは、その人のためにも、また、それが組織であれば、組織のためにも良いことです。目に留まるのは「悪い言葉」は「一切口にしてはなりません」と言われていることです。
 
 それでは、どうすれば、相手を慰め、励ますような言葉を口にできるのでしょうか。それは、言葉の性質を、よく知ることから始まります。昨日も、私が友人にダジャレばっかり言うので、その後どうなったかと言うと、その人もダジャレを言い始めたのです。そのように、言葉は伝染するのです。これをコロナ禍の時期に言えば、インパクトが強すぎますが、今なら大丈夫です。コロナ禍では、福音が伝染していくという表現を使っただけで、不安を煽っていたということもありました。そのように、言葉も伝染します。つまり、相手を慰め励ますような言葉を、自分が、いつも耳に施されている環境、自分がいつも聞くことが出来る環境に身を置くということです。そうすることで、自分も、相手に慰めや励ましの言葉を口にすることができるのです。要するに、この礼拝の場を、その環境として大切にするということです。そうして、礼拝の中で語られる神の言葉(御言葉に)触れるのです。この御言葉を、主観的にではなく、客観的に浴びる状態を、自分に確保しておくということです。それが、礼拝に集う、礼拝を守ることの意義です。主観的に聖書を読めば、自分の都合の良いように読むので、それ自体が隙のある状態です。そうすれば、そこに、人としての成長は期待できず、その人は、古い人を着続け、一向に新しい人を着ることはできないのです。

 そのため、30節では、こう言われています。「神の聖霊を悲しませてはいけません。あなたがたは、聖霊により、贖いの日に対して保証されているのです」と。「神の聖霊」とは、神の言葉です。御言葉を悲しませてはいけないのです。御言葉こそ「聞く人に恵みが与えられ」「その人を作り上げるのに役立つ言葉」であって「必要に応じて語る」ことが求められている言葉だからです。何より、この御言葉は、自分自身に「恵みが与えられ」「自分自身を作り上げるのに役立つ言葉」なのです。それは、神さまが私たちを愛しているといっておられる言葉であり、私たちを救うために、神の独り子イエスさまを十字架に架けて、私たちの罪の贖い(罪の償いの犠牲)とされた出来事だからです。罪の報酬は死なのです。だから、人が罪を犯せば、普通は、この先、誰も生きることはできません。私たちは、この神の言葉によって赦されて、愛されて生かされています。私たちの命は、イエスさまの犠牲の上に成り立っている命です。だから、自分の命を大切にしましょう。自分の命を守るためにも、この神の聖霊を悲しませてはならないのです。神さまは、この御言葉によって、私たちを「贖いの日」それは、救いの完成の日まで、私たちを守ると言っておられるのです。聖霊を注いでくださいとか、聖霊で満たしてくださいとか、よく祈りの言葉で口にしますが、それは、御言葉を注いでください、御言葉で満たしてくださいということです。そうすれば、御言葉は、私たちの中で溢れて、自然に口から出てきます。その言葉が口から出れば、私たちの周りには、平和と喜びの輪が広がっていくのです。

 だから31節で「無慈悲、憤り、怒り、わめき(これは騒ぎとも訳されます。)、そしり(これは、棘のある言葉とも訳されます。)などすべてを、一切の悪意と一緒に捨てなさい」と言われるのです。その上で、32節では「互いに親切にし、憐れみの心で接し、神がキリストによってあなたがたを赦してくださったように、赦し合いなさい」と言われているのです。悪意を捨てること自体、難しそうですが、聖書は、神さまが自分を愛してくださったように、親切や憐れみや赦しを実行していくようにと言います。なぜなら、聖書には、愛は多くの罪を覆うと書いてあるからです。それは、隣人に対しても、また、自分に対しても、そうです。要するに、キリストの愛が、私たちの罪を覆い、私たちを救うのです。私たちは、愛は知っていても、真実の愛は知らないのです。それは、教えられたり、自分が、その真実の愛で愛されなければ分からないのです。私たちは、神さまに赦され愛されています。それは、十字架に付けられたイエス・キリストの言葉と出来事として、今日も宣べ伝えられています。
 
 聖書は、繰り返して言っています。5章1節2節「あなたがたは神に愛されている子供です」と。愛されている人ではなく「子ども」と言うところに、子どもの性質の良さが、そこに込められています。それは、今日の話の中で言った、寝たら、すぐに忘れることもそうですが、真似をするということです。子どもは、真似をして、情報を取り込み、また、成長していきます。だから、子どもを、どのような環境に置くかということは、とても大事なことなのです。私たちは「神に愛されている子ども」です。だから、聖書は言うのです。「神に倣う者となりなさい。キリストがわたしたちを愛して、御自分を香りのよい供え物、つまり、いけにえとしてわたしたちのために神に献げてくださったように、あなたがたも愛によって歩みなさい」と。 新しい人を着るということで、話しを始めましたが、それは『神に倣う者」となるということです。それは、イエスさまを着るということ、イエスさまを身に着けるということです。お帰りの時には、コートを忘れないでください。そして、イエスさまを身に着けることも忘れないでください。そして、お互いに、お互いのことを思って、この年を良い年にしていきましょう。良い年は、私たちが作り上げていくのです。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 10:52| 日記