2019年01月07日

2019年1月6日 主日礼拝説教「救いは近づいている」須賀 工 牧師

聖書:ローマの信徒への手紙13章11節〜14節

 今朝、私達は、2019年、最初の礼拝を迎えています。心を新たにしつつ、共に御言葉に聴いていくものでありたいと思います。
 今朝、私達に与えられました聖書の御言葉は、ローマの信徒への手紙13章11節以下の御言葉であります。この御言葉は、新年の礼拝に親しんで読まれる箇所であると言われています。
 聖書には、私達の考え方とは、少し異なった「時間」の概念があります。私たちは、「時間」というものが、繰り返しの「円」のようなものであると考えることがないでしょうか。時計の針が回るように。また、朝と昼と夕の繰り返しのように。更に、月曜日から日曜日があり、また月曜日があるように。春夏秋冬のように。このように、私たちは、時間というものが、どうしても繰り返している一つの円ようなイメージを持つことがあるかもしれません。
 しかし、聖書の時間の考え方は違います。そもそも、「時間」もまた、私達と同様に造られたものであります。そうでありますから、始まりがあり、必ず終わりがあるのです。繰り返しの円というよりは、一直線の線のようなものであると言えるでありましょう。私たちの命が神さまによって造られ、始めと終わりが存在しているように、時間もまた、神様によって造られ、始めと終わりがあるのです。これが、聖書の時間の考え方であります。
 つまり、私たちは、一直線の時の流れの中をまっすぐに歩いているということです。そして、その一歩一歩の先に、「終わり」がある。それがいつ来るかはわかりません。それは、神様のご計画でありますから、勿論、知る由はありません。ただ、その日は、必ず来るのだ。そのことを私たちは知っていますし、また、その日が、必ず来ることを信じているのです。
 そして、それだけではありません。「世の終わり」に何があるのか。そのことも、私たちは、聖書を通して教えられていることであります。世の終わりに何があるでしょうか。それは、「神様の完全な救い」です。
 世は終わります。世は滅んでいきます。しかし、そこで終わるのではなく、神様の徹底的な救いがはじまるのであります。それが「時間の終わり」であり、「世の終わり」でなのであります。
 そして、キリスト者は、キリストによって、この救いへと導かれていく。その約束を受けているのであります。そうでありますから、世界の終わりは、決して絶望ではありません。それは、むしろ、救いの希望であります。
 人生は旅路のようなものであるかもしれません。一歩一歩踏みしめて、年を重ね、歩んでいくものであります。しかし、その歩みは、絶望的な死に向かった歩みではありません。なぜなら、私たちは、希望に向かって一歩を進めているからです。
 時間は直線的です。そして、必ず、神様の救いの時、時間の終わりがやってきます。私たちの一歩は、それに近づく一歩なのです。だから、人生は、日々、希望に向かった歩みの積み重ねのようなものなのです。
 一休禅師はこのような言葉を残しました。「元旦は冥土の旅の一里塚。めでたくもあり、めでたくもなし」。仏教的なシニズムのようなものがここにはあるかもしれません。新しい一年は、見方を変えれば、死に近づく絶望的な一歩なのかもしれません。しかし、私たちは、違うのです。私達の新しい年の一歩は、希望に向かった一歩なのです。神の時、神の救いの支配へと一歩近づいたからなのであります。だから、うれしいのです。だから、喜ばしいのであります。
 時間は一直線です。始めがあり、終わりがあります。そう考えますと、今、この時は、決して戻らない瞬間であるということです。今日と同じ明日はありません。昨日と同じ今日もありません。時間の流れは、一直線に流れていきますから、同じ時間というものは存在しえないのです。そう考えますと、時間というものをもっと大切にしていきたいものであります。神様から与えられた時間。はじめと終わりがある時間。その時間を心から大切に生きていく。希望を持ち、喜びをもって、この時を生きるものでありたい。
 パウロは、言うのです。「主イエス・キリストを身にまといなさい」と。救いの時は、一歩一歩近づいてきます。そこに心を向けて生きるために、私たちは、いつでもキリストと結びついて生きることが大切なのであります。キリストから離れて、世の終わりを待つのではないのです。キリストに堅く結びつき、キリストに希望を置き、キリストの救いに生かされながら、その時を待つ。その時、私たちは、世の終わり、時間の終わりこそが、真の救いの時であるという確信に至ることができるのであります。
 なぜなら、キリストを通してのみ、私達は、永遠の命の希望を頂くからであります。キリストによってのみ、私たちは、死を越え、終わりを超えた、永遠なる世界に心を向けることができるからであります。
 私たちの一歩が、救いに近づく新しい一歩であることを、心から喜び、待ち望むためには、私たちは、いつでも永遠の命の希望に生かされている必要があるのでしょう。この必要は、キリストの下にあって、満たされているのではないでしょうか。だからこそ、私達は、心をキリストと深く結びつけながら、新しい一方を踏み出していきましょう。この世のものに気を取られるのではなく、キリストに思いを向けながら、キリストを着させていただきながら歩みたい。そして、日々、キリストと共に希望をもって歩み続けるものでありたいのです。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 10:58| 日記

2018年12月30日

2019年1月6日 礼拝予告

〇教会学校 9時15分〜
主題:「シメオンとアンナ」
聖書:ルカによる福音書2章25節〜38節
※礼拝後、誕生の祝福、誕生日会が行われます。
※保護者の方々も是非、共にお越しください。

〇主日礼拝 10時30分〜
主題:「救いは近づいている」須賀 工 牧師
聖書:ローマの信徒への手紙13章11節〜14節
※礼拝後、五分の集い、信仰の学びが行われます。

皆様のお越しを心よりお待ち申し上げます。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 16:38| 日記

2018年12月30日 主日礼拝説教「愛は律法を全うする」須賀 工 牧師

聖書:ローマの信徒への手紙13章8節〜10節

 今朝、私達に与えられた御言葉は、ローマの信徒への手紙13章8節から10節の御言葉であります。改めて8節から10節の御言葉をお読みします。「互いに愛し合うことのほかは、だれに対しても借りがあってはなりません。人を愛する者は、律法を全うしているのです。『姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな』、そのほかどんな掟があっても、『隣人を自分のように愛しなさい』という言葉に要約されます。愛は隣人に悪を行いません。だから、愛は律法を全うするものです。」
 キリスト教の教えの中には、「黄金律」−ゴールデンルール−と呼ばれるものがあります。「黄金律」とは、簡単に申し上げるならば、キリスト教における一番大切な教えのことであります。それは、「神と人とを愛する」ということです。つまり、キリスト教において、一番大切な教え。それは「愛」ということであります。
 「互いに愛し合うことのほかは、だれに対しても借りがあってはなりません」。このように、パウロは、今朝の御言葉で記しています。「借りたものを返すこと」。これは、大切なことです。
 しかし、「愛」は違います。「愛」は、借りっぱなし、貸しっぱなしで良いのだと言われています。つまり、見返り−ペイバック−を必要としないことです。「これだけ愛したのだから、同じように愛を返してほしい。」あるいは、「こんなに愛されたのだから、これだけ返さなければいけない。」そう思うことがあるかもしれません。
 しかし、それは、「本当の愛」ではないということであります。「愛」とは、その意味で、「与え放しのもの」。そのようにも言えるかもしれません。
 あるいは、借りたものを返したら関係は、そこで義務は果たされてしまいます。しかし、「愛」に終わりはない。「愛するということ」に限界はないのだ、ということも言えるかもしれません。
 そして、この箇所で、もう一つ大切な事があります。それは、今朝の御言葉には、「人を愛する者」と、記されていることであります。
 この「人」とは「他人」という意味があります。つまり、「自分とは違う存在」という意味であります。自分と合う人、自分にとって都合の良い人だけを愛するのではないということです。自分とは違う存在として、お互いを受け入れあいながら、愛するということが大切なのです。自分にとって都合の良い人を愛するということは、結局は、見返りを求めた愛なのかもしれません。
 それでは、そもそも「愛」とは何でしょうか。今朝の御言葉に示された「愛」。これは「アガペー」という言葉で表現されています。「アガペー」とは、一言で言えば、「聖なる愛」「神様の愛」のことです。
 つまり、私達は、「神様の愛」に生きるようにと、ここで奨められていることになります。それは言い換えるならば、神様の御心に適った愛に生きるということでもありましょう。
 今朝の御言葉によると、「全ての掟」が「愛する」という言葉で要約されるのだとあります。律法も掟も、神様の御心のことです。つまり、神様の御心に適った生き方をしたいのであるならば、即ち、律法を全うしたいのであるならば、何よりもまず、神様の愛に生きることが大切なのであります。自分が、清く正しく生きることではなく、むしろ、自分を捨ててでも、神と人とを愛する。その神様の愛に生きる。それが一番が大切なのだと言うのであります。
 では、この愛とは、更に具体的に、どのような愛なのでしょうか。アガペーという言葉を更に詳細に申し上げると「価値を生み出すこと」という意味になるそうです。価値をつけるということではありません。目の前の人に「価値を生み出す」ことです。価値をつけるとするならば、自分にとって都合の悪い人に対しては、価値を低くつけてしまうことがあるかもしれません。
 しかし、価値を生み出すことは違います。あなたが、どんな存在であり、どんな人間であったとしても、「あなたには価値がある」と言えること。これが、価値を生み出すということです。
 人間は違う存在です。個性があります。そして、自分にとって都合の悪い存在もいるかもしれません。しかし、どのような人間であったとしても、「あなたは価値がある」「あなたは大切な存在なのだ」と言えるところに、「聖なる愛」がある。私達の生きるべき愛の世界がある。そのことを、今朝の御言葉は、私達に強く指し示しているのではないでしょうか。
 今朝の御言葉によれば、「隣人を自分のように愛しなさい」と教えています。自分を愛せる人間とは、どういう人間でしょうか。それは、「愛されていることを知っている人間」です。誰に愛されているのでしょうか。神様であります。主イエス・キリストであります。私達が、どれだけ弱く、汚れに満ちたものであったとしても、「あなたには価値がある」。「あなたはわたしの宝だ」と、神様は仰せになる。そして、十字架で命を捨ててしまうほどに、断固として、私達を愛し抜いてくださる。それほどまでに大きな愛の中に、私達は入れられているのであります。価値を生み出してくださっているのであります。その恵みの中で、私達は、自分を本当に愛することができるのであります。自分の価値を知ることができるのであります。
 そして、何よりも、その本当の愛に支えられながら、私達も又、神様の愛に生きるものへと招かれていくのであります。大事なことは、この愛の原点に返ることであります。
 今朝の御言葉の最後には、「愛は隣人に悪を行いません。だから、愛は律法を全うするものです」と記されています。
  ある人が、このように言いました。「この愛という言葉をキリストと言い換えてみたら良い」と。「キリストは、隣人に悪を行いません。だから、キリストは、律法を全うするものです」。
 私達が、一人で愛に生きることは難しいものです。しかし、愛をもって、律法を全うされたキリストと結ばれて生きる時、私達は、そこで初めて、神を愛し、人を愛し、自分を愛することができるのであります。
 大事なことは、この愛の原点に返ること。愛されていることを味わうこと。そこから、キリスト者同士の関係、教会の外との関係もまた、眞の愛に溢れた新しい関係へと造り替えられていくのかもしれません。
 2018年が終わり、2019年を迎えます。改めて、神様の愛の原点に立ち帰り、感謝をもって、新しい歩みへと向かって行く者でありたいと思います。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 16:34| 日記