ルカによる福音書5章27節〜32節、詩篇32篇1節〜7節
説 教「罪人を招く主イエス」大坪信章牧師
27節「その後」とありますが、それは、イエスさまが、中風を患っている人を癒された出来事の「後」のことです。中風を患っている人の癒しの出来事では、御言葉による罪の赦しと病の癒しが行なわれました。その、いずれも決して簡単ではない業を、イエスさまは行なわれました。それは、単純にイエスさまが、それが誰であれ、その一人ひとりに対して責任を持つ神の子・救い主、主だったからです。それゆえに、イエスさまの言葉、その一言一言には、抗し難い、それは、決して抗えない、そういう権威があったのです。要するに、逆らえないということです。積極的に言えば、従わざるを得ないということです。世の中では、権力が行使され、権力に逆らえない、権力に従わざるを得ないという事態を生んでいます。その強制力は、決して平和や平安を約束することはありません。むしろ、不安や恐れを与えています。しかし、今や権力ではなく、主であるイエスさまによって、権威が行使され、その恵みや救いの言葉に逆らえない、その言葉に従わざるを得ないことが起こっています。その強制力は、人々に解放と回復と自由を約束しています。普通、恵みとか救いを拒絶する人はいません。もし「恵みに逆らう」とか「救いの方法に従わない」という言い方があれば、それは、言葉として、ものすごく違和感があります。普通に考えて、恵みや救いは、中々そう有ることが難しいことです。だから、もし、それが実際に有り得るなら、それは、もう本当に有り難いと言うか感謝でしかないのです。しかし、その恵みや救いの喜びを、世の多くの人々は拒絶しています。この恵みと救いは、中風を患っていた人にとって「あなたの罪は赦された」というイエスさまの一言、それは、御言葉によって与えられました。その御言葉に権威があったのは、その一言に、神の子であり救い主であるイエスさまの、彼に対する責任と約束が込められていたからです。イエスさまは、中風を患っている人の罪の身代わりとして十字架を背負い死なれます。それは、イエスさまが主だからです。たとえ人間社会から見捨てられたような人であれ、イエスさまは、その人の主なのです。いわゆる「あなたの罪は赦された」という一言は、中風を患っていた人に対する主の命令だったのです。そして、このことは、今日の物語にも通じることなのです。
27節「その後」イエスさまは「出て行って、レビという徴税人が収税所に座っているのを見て、『わたしに従いなさい』と言われ」ました。「出て行った」というのは、マルコ福音書では「湖(ガリラヤ湖)のほとりに」出て行ったようです。そして、そこで「レビという徴税人が収税所に座っているのを」見られたのです。この「収税所」で有名なのは、カファルナウムの町の収税所です。そう言えば、中風を患っている人の救いも、マルコ福音書では、カファルナウムの町を舞台に起こっています。そのカファルナウムは交通の要衝でした。だから、その町を出入りする通行人からは通行税が、そして、輸出や輸入の商品などからは通関税が徴収されました。収税所は、その他にも人頭税から所得税に至るまで、様々な税を徴収する事務所だったのです。そして、そこに居た「レビ」は、マルコ福音書では「アルファイの子レビ」と、父親の名前まで明らかにされています。しかし、マタイ福音書では、福音書の著者「マタイ」自身を指すのです。だから、実際、このレビは、レビなのかマタイなのか、それとも、同一人物が途中で名前を変えたのかは定かではありません。ユダヤでは、名前を2つ所有することは有り得ますが、レビとマタイは、いずれもヘブライ語の名前なので、その2つを1人の人間が所有する可能性は低いようです。或いは、レビは、レビ族(神の代理人としての祭司)の家系なので、そのことが関係しているのかもしれません。ただ、この後、徴税人の「レビ」は、悔い改めて主に立ち帰るのです。この当時、徴税人が悔い改めて主に立ち帰るというのは、この出来事や同じく徴税人ザアカイの出来事に限ったことではありませんでした。このルカ福音書を遡れば、3章で、洗礼者ヨハネが、悔い改めの洗礼を宣べ伝えていた時に「徴税人も洗礼を受けるために来て」(12節)いるからです。だから「レビ」がレビでもマタイでも、或いは、同一人物でも不思議はないのです。ただ、イエスさまの弟子(12人弟子)として選ばれた徴税人は、マタイ(神の賜物)という名前の人物だったということだけは確かなことです。この徴税人のレビは、収税所に座っていました。それは、レビが、ある程度、高い地位に就いていたことを窺わせます。そこで思い出すのが、この福音書の19章に記されている、徴税人ザアカイの物語です。ザアカイについては「この人は徴税人の頭で、金持ちであった」(2節)と説明されているので、明らかに地位の高い人でした。そして、徴税人は皆一様に裕福でした。なぜなら、彼らは、当時ユダヤを植民地としていたローマ帝国に寝返った売国奴、つまり、裏切り者のユダヤ人だったからです。彼らは、大枚をはたいて徴税人の職を勝ち取り、帝国の代理人として、税金や罰金を徴収する権限が与えられていました。レビは、祭司の家系ですから、当然、神の代理人としての働きが求められますが、現状は、ローマ皇帝を主とする帝国の代理人に成り下がっていたと言えます。そして、おもに、先ほど幾つか挙げた様々な税を、通行人から取り立てました。それも、人々から徴収できる正規の徴収額以上の金銭や現物を取り立て、正規の分は帝国に、残りは私利私欲のために自分の懐へ入れたのです。ただ、それと引き換えに、徴税人は、人々から、泥棒や人殺しなどの罪人、また、異教徒(異邦人)と同じくらい憎まれ、会堂からも締め出され、社会から孤立していたのです。
そのような、徴税人のレビに、イエスさまは目を留められました。そして、唐突に「わたしに従いなさい」と言われると、28節「彼(レビ)は何もかも捨てて立ち上がり」イエスさまに「従った」のです。これは、ルカ福音書の5章で、ガリラヤ湖の漁師たちが「舟を陸に引き上げ、すべてを捨てて」イエスさまに従った出来事と同じです。それを徴税人のレビに当てはめれば、自分の地位の高さを表す「その座を放棄し」そこから「立ち上がり」そして「すべてを捨てて」イエスさまに従いました。それは、冒頭でも話したように、イエスさまが、ガリラヤ湖の漁師たちは勿論のこと、レビにとっても主だからです。いわゆる「わたしに従いなさい」という一言は、徴税人のレビに対する、主の命令だったのです。その後、レビは、29節「自分の家でイエスのために盛大な宴会を催し」ました。そして「そこには徴税人やほかの人々が大勢いて、一緒に席に着いて」いました。要するに、レビは、幹事(世話役)を買って出て、徴税人仲間や社会に埋もれていた大勢の人を家に招待したのです。それは、悪名高い人たちや罪人呼ばわりされた病人や体の不自由な人たちでした。このレビが率先して行なった幹事という働きは、色々なスキル(能力)が求められます。特にコミュニケーション能力は欠かせません。その会話術や説得力などは、元々、徴税人のレビが持っていた能力でした。しかし、レビは、その能力を、これまでは、徴税人として使い、様々ものに課税し、必要以上に人々から税を徴収し、正確に帳簿を付けたのです。そういう意味で、レビには、職務遂行能力があったと言えます。しかし、今、彼は、その能力を幹事(世話役)として、イエスさまに献げたのです。
これまでは、ローマ皇帝がレビの主で、その下でレビは税の徴収者でした。しかし、その主の下で得た高い地位と裕福な暮らしと引き換えに、レビは、人間性も人間味も失ったのです。その結果、レビは、人々の冷たい視線や敵意の目に晒され、息苦しく、それは、生きることが苦しくなっていたのでしょう。しかし、イエスさまが自分の主だと気づいたのです。そして、その下で、レビは社会から爪弾きにされ、社会に埋もれた人々の魂の徴収者になったのです。それは、ルカ福音書5章で、ガリラヤ湖の漁師たちがイエスさまから「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる」(10節)と言われたのと同じことが、ここでも起こっているのです。つまり、レビは「人間をとる徴税人」になったのです。それは、とても素晴らしいことで、誰もが喜ぶことでした。しかし、30節を見ると「ファリサイ派の人々やその派の律法学者たちはつぶやいて」イエスさまの弟子たちに言ったのです。「なぜ、あなたたちは、徴税人や罪人などと一緒に飲んだり食べたりするのか」と。おそらく、このファリサイ派の問いに、弟子たちは答えられなかったのです。なぜなら、それは、主が良しとされたことだったからです。それで、代わりにイエスさまが答えられました。31節32節「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである」と。悔い改めというのは、自分の人生を後悔することではありません。自分の人生を、新しい主との間で契約を更改するように更改することなのです。
これまで、イエスさまの働きには、医者の側面が強く出ていましたが、ここで、はっきりと御自分の働きについて証しされました。「わたしが来たのは、罪人を招いて悔い改めさせるためである」と。つまり、イエスさまは、御自分のことを、真の主を見失った罪人たちの主(神の子・救い主)だと言われたのです。サムエル記上16章7節に、このような御言葉があります。「人は目に映ることを見るが、主は心によって見る」と。イエスさまは、真の主を見失い、この世の主の下で人間性も人間味も失い、平安も喜びもないレビの心を見抜かれたのです。レビという名前は「親しむ」とか「結合する」という意味があります。これは、レビが誰と親しみ誰と結合するかで、人生は大きく変わることを暗示しています。つまり、誰を主として生きるのか、それによって私たちの人生も大きく変わります。レビは、イエスさまを主とし、失った人間性と人間味を取り戻しました。それは、幹事として、盛大な宴会に多くの人々を招いたことからも分かります。レビの能力は、最大限に最善の仕方で用いられたのです。それは、レビの家系である祭司の働きの復活でもありました。祭司は、人々の罪を贖う儀式を神から請け負っています。同じように、レビは今、人々の罪を贖う主の下へ、社会に埋もれ、罪に悩み苦しむ人々を招く者になったのです。レビは「ここに神の子・救い主がおられます。今すぐおいでください。この方は、私の主、私の罪の贖い主、また、あなたの主、あなたの罪の贖い主です」と言い広めたのではないでしょうか。私たちも、この神の子・救い主である、主イエスさまによって取り戻した人間性、そして、人間味を、喜んで神さまに献げていきましょう。
2023年08月20日
2023年8月20日 主日礼拝説教「罪人を招く主イエス」大坪信章牧師
posted by 日本基督教団 石山教会 at 10:18| 日記
2023年08月19日
2023年8月27日 礼拝予告
〇教会学校
7月30日(日)〜8月27日(日)まで夏休校です。
〇主日礼拝 10時30分〜
聖 書:ルカによる福音書5章33節〜39節、エレミヤ書31章31節〜34節
説 教: 「罪の悲しみ救いの喜び」大坪信章牧師
感染予防対策をした上で、礼拝を献げています。みなさまのお越しを心よりお待ち申し上げます。
7月30日(日)〜8月27日(日)まで夏休校です。
〇主日礼拝 10時30分〜
聖 書:ルカによる福音書5章33節〜39節、エレミヤ書31章31節〜34節
説 教: 「罪の悲しみ救いの喜び」大坪信章牧師
感染予防対策をした上で、礼拝を献げています。みなさまのお越しを心よりお待ち申し上げます。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 20:35| 日記
2023年08月10日
2023年8月13日 主日礼拝奨励「神の時としての今を生きる″」大保 清兄
ヨハネの黙示録1章1節〜20節、ダニエル書12章1節〜4節
奨 励「神の時としての“今を生きる”」 大保 清兄
今、司会者に朗読して頂いた黙示録1章1節から20節までですが、特に今日、与えられたメッセージは1章8節です。ここから、神さまの恵みを皆さまと共に分かち合いたいと思います。
皆様は、黙示録を読んで、どのような感想を持たれたでしょう。私の感想は、訳の解らない、無気味な内容であると思いました。意味不明な数字や科学的小説のような物語が描かれています。
そもそも、黙示とは何でしょうか?調べてみると、ギリシャ語でアポカリュプシス、隠されていたものを神が現わにすること、又は、ベールをはがすことであります。では、隠されていたものとは何でしょう?私達、救われた者の未来、即ち、救いの完成であります。
特に私が黙示録を意識し始めたのは、1970年代に流行したオカルト映画でした。私と同年輩の方なら、ご覧になったことがあると思います。オーメン、エクソシスト、いずれも悪魔の申し子、聖書によれば、未来に出現すると言われる反キリストのことです。
ヨハネ第一の手紙4章1節を開いて下さい。
オーメンは、米国の国連大使の家庭に生まれた子供で、名がダミアン、悪魔の申し子で、やがて、世界を支配する者として育って行きます。他方、エクソシストでは、悪魔を追い払う賜物を与えられている、カトリックの神父との一大決戦であり、特にショッキングだったのは、少女の首が360度回転するシーンでした。
前置きはさておき、黙示録に戻ります。では、世の終りとは、どんなことでしょうか?よく誤解されるように、この世界の滅亡、天変地異、今日、報道でとりあげられる気候変動による海面の上昇、温暖化による異常気象、戦争のうわさ等により、世界が滅亡するのではないかとの不安な気持ち、恐怖心であります。このようなことは、起きるかもしれないし、起こらないかもしれません。特に、戦争に関しましては、教会は非戦を貫き、我国の平和憲法を世界に掲げていかなければならないと思います。しかし、そのことは破局論、即ち、この世が滅亡するのではないかとの悲観論であります。
世の終りのこと、神学に於いては終末論と言いますが、救いの完成、新しい天と地、死も涙もない神の国が、キリストの再臨と共に来るという、福音の完成された形であります。
黙示録を読んで難しいと思われるのは、文章の中に、超自然的な幻や、意味不明な数字が記されているからです。
黙示録を解釈する3つの方法があります。
1.過去主義的解釈:黙示録が書かれた時代背景 紀元90年頃、ローマ皇帝ドミティアヌス帝による皇帝崇拝を拒否したクリスチャン達とローマとの闘争の歴史を象徴的言葉で書く1つの絵画的なものであります。
2.歴史主義的解釈では、黙示録をヨハネの時代から、世の終り迄を救済史(救いの歴史)の全ての期間を予告するものと見る、教会が迫害を受け、苦しみが段々と深まっていく状態を描いた一種のパノラマ、絵のようなものであります。
3.未来主義的解釈では、世の終りとキリストの再臨の時期(日時ではない)を中心として書かれたものであります。
私は、歴史的解釈、未来的解釈を受け入れるものであります。しかし、黙示録をテキストとした説教には、教会は昔から消極的でした。何故なら、黙示録の極端な解釈をして、異端に陥る危険性があったからなのです。
過去の米国のある教会では、再臨がいつ起こるか、具体的数字を発表して、信者の人々が自分の財産を売り払い、再臨を待っていたのですが、その日、何も起こらず大騒ぎになったと言うことです。
又、最初から異端として捉える宗派ですが、勿論、自分たちこそが、真の宗派は教会ではなく、王国会館であると宣言しているエホバの証人も、やはり、再臨の日時を発表しましたが、その日は何もなく過ぎてしまいました。彼らは面白い弁明をしています。イエスさまは途中まで降りてこられたが、途中で止まっておられるのだと。
又、最近、話題になっている旧統一教会の教えである、教祖が再臨のキリストであると宣言していますが、そうしたら、二千年前に昇天したキリストは、どこに行かれたのでしょうか?デタラメも甚だしいです。使徒言行録1章9節から11節まで朗読いたします。
この預言の書とも言われる黙示録は教会で預言の書として朗読され、説教のテキストになりました。それでは、黙示録が書かれた頃の時代背景はどのようなものだったのでしょうか?
紀元95年、ローマ皇帝ドミティアヌスの迫害の時であり、迫害の理由は、クリスチャンが皇帝崇拝を拒んだからです。
ヨハネは流刑地−バトモス島−犯罪人が島流しされる土地に於いて、強制労働をさせられていたと言われます。翌96年、釈放されてエフェソに行き、黙示録を書いたそうです。ペンテコステの後、教会は拡大し続けました。しかし、ユダヤ人による宣教の妨害、帝国による皇帝崇拝の強制、それを拒否するクリスチャン達への迫害がますます激しくなり、中でも有名な皇帝ネロによる使徒パウロ、ペテロへの迫害で、彼らは殉教して行きました。
次に、終末論−世の終りのことですが、時間の問題が大きく関係してきます。各文明圏では、どのように時間を捕らえてきたでしょうか?東アジア代表の文明圏インドで仏教が誕生したのですが、初めも終りもない円環の時間として捉えられ、教義では輪廻転生と言われました。人間、死ぬと他の者に生まれ変わり、この世に戻り、同じような一生を送る。但し、生まれ変わるのは人間とは限りません。人が生きていた時の行ない、業と言いますが、それによって何に生まれ変わるのか決められています。この苦しい輪廻から逃れるために、仏教徒は修行に励みました。
西の文明の代表はギリシャです。その考えは、霊肉二元論、霊魂は神性なもの、肉体は汚れたもので、死ぬと霊魂は天上の世界へ、体はハデスと言う死後の世界で影のような形で暮らすそうです。何故、このような奇妙な考えが生まれるのでしょうか?その答えは、ユダヤ教、キリスト教、後にはイスラム教も入ってきますが、創造者による天地創造と言う信仰がなかったからです。現代では当たり前となっている直線的時間と言う考え方、前に向かって流れ、決して後戻りすることはないと言う時間の捉え方であります。
ちなみに、我が国の元号は中国から輸入され、一世一代、つまり、天皇が即位してから亡くなる迄の元号が贈り名となる訳であります。つまり、天皇が時間をも支配するという意味であります。しかし、この考え方は我が国だけでしか通用しません。世界に於いては、皆様もご存じのように、キリスト紀元による暦があり、キリスト降誕時、文字通り訳すと、キリストの支配する時、又はキリストの降誕前によって、時代のあとさきが分かれているのであります。確かに世界の宗教には、創世神話、つまり、世界の成り立ちを説明する教えがありましたが、ユダヤ・キリスト教のような論理的に一貫した神学はありませんでした。後年、西欧に於いて科学が発展する要因となったのであります。
この黙示録の預言は手紙の形式を用いて7つの教会に届けられました。大切なことは、神の言はヨハネ個人によって受けとられましたが、教会という会衆の中で朗読され、説教のテキストとして用いられてきたのです。今日に於いても、信仰は個人だけのものではなく、教会によって継承されなければならないのです。
黙示録の預言を送られた宛先は、アジア州にある7つの教会、エフェソ、スミルナ、ベルガモン、ティアティラ、サルデス、フィラデルフィア、ラオデキアであります。しかし、アジアと言っても、私達の住むアジア大陸ではなく、ローマ帝国の植民都市、小アジア地中海沿岸に存在する教会であります。
次に、差出人として、黙示・預言の言を与えられたキリストの紹介、今、おられ、かつておられ、やがて来られる方と言う表現は、永遠に存在する方、歴史上かつて起こったことのない前代未聞、驚天動地−今まで見たことも聞いたこともない驚くべき出来事、死から甦った御方を、今一度、思い起させようと言う事であります。
地上の王たちの支配者であるイエス・キリストとは、西欧に於いてクリスマスの時期に、恒例行事として演奏されるヘンデルのメサイアという曲の中に、キリストをキング・オブ・キングス、ロード・オブ・ロード(王の王、主の主)とたたえるフレーズがあります。ヨハネによる福音書の19章8節に総督ピラトがキリストを尋問する場面がありますが、ピラトはキリストに対して「お前を釈放する権限も、十字架につける権限も、このわたしにあることを知らないのか。」つまりピラトは、あらゆる権限の究極である生殺与奪、即ち、生かすも殺すも私次第にあると威張るのですが、それに対して、キリストは、「神から与えられなければ私に対して何の権限もないはずだ」と言われましたが、返事の意味は次の通りです。
総督ピラト、又は、その主君である皇帝は、自分たちの力で全世界を支配する最高の権力があると思っているのですが、実は、歴史をも支配される神によって救済のご計画の道具に過ぎないことを、イエスさまによって教えられたのであります。
恵みと平安とは、神さまの憐み深いご性質のおかげで、人間の罪を赦し、神の子として下さり、安心して神の助けを受けつつ、悩みを乗り越えて、毎日を生かさせて頂くことであります。
では、私達は、何によって罪から解放されたのでしょうか?キリストの十字架の上で流された血潮のおかげです。確かに、救いは完成されました。しかし、体は今だ贖われていません。体の贖われることを、パウロは心の中でうめきながら待ち望んでいると叫んでいます。(ローマの信徒への手紙8章23節)
この事に、私達は疑問を持ちます。何故、十字架によって罪から解放された筈なのに罪を犯し続けるのだろう。この辺りの消息をマルチン・ルターに聴いてみましょう。
「キリスト者は一生涯、罪人であると同時に義人である」人間は生まれながら神の審きの下にある罪人であるが十字架の贖いにより罪赦され義人と見なされるようになった。つまり、キリストによって神の前に義しい者とされたのであります。キリストを離れた時は罪人のままであります。「キリスト者は生涯、悔い改め続けなければならない。」私達は洗礼を受けた時のみ、悔い改めるのではなく、生涯に亘って悔い改めること、即ち、神に背を向けた状態から、神に方向転換することであります。そして、世の終りであり、キリストの再臨の時に、罪から完全に解放された新しい体に変えられ、新しい天地、死も涙もない神の国に住まわせて頂くのであります。
それでは次に、小見出しにある「天上におられるキリストの姿」を見てみましょう。ヨハネの居る場所は、パトモスと言う島で、最初に申し上げたように囚人の流刑地であります。ヨハネは旧約の預言者のように、聖霊によって壮大な終りの日の幻を見せて頂きました。天上におられるキリストの姿は非常に異様に思われます。
私達が福音書で慣れ親しみある姿は、私達と同じ人間、赤子として生まれ、成長して時には飢え渇き、そして最後に十字架の上で苦しみながら死んでいくという姿であります。
キリストには2つの性質があると言われています。真の神、真の人であります。天上におられるキリストは、神としてスポットライトが当てられています。又、キリストは3つの職務を持っておられます。王・預言者・大祭司でありますが、時間の都合上、詳しいことは省略いたします。ただ、王としてのキリストにだけ触れたいと思います。王としてのキリストは、皇帝や支配者のように地上の国々を支配されるのみならず、永遠に生きておられ、死や陰府−死んだ後、行くとされる所−さえ支配されると言われます。これらのことが象徴的に書かれています。
以上のことを頭において頂き、今日、ここに礼拝に集っておられる皆様と共に、今日、神が語って下さるメッセージに耳を傾けたいと思います。8節をご覧ください。キリストは全能の神であります。「私はアルファであり、オメガである。」アルファとはギリシャ語のアルファベット最初の文字A、オメガは最後のZにあたります。神は、私達の誕生のときから年老いて死ぬ迄の全生涯を御手の中において導き支配されます。老いて、だんだん身体が衰えていき、思うように動かすことが出来なくなった時、将来に何の希望もなく、ただ死を待つだけの身となったと思える時も、神は全てをご存じなのです。
他方、若い人としては、元気があり、将来に向けて多くの希望に満ち溢れています。良い学校を卒業して、安定した会社に就職、恵まれた結婚をして無事、定年まで務めあげ多額の退職金、年金を貰い、悠々自適の老後を夢見るのです。
最近、政府は人生百年時代、高齢化時代なので、老後年金だけでは不足するので、自分で積み立て、株などへの投資を勧めるキャンペーンを流しています。確かに老後に備えることは必要でありましょう。しかし、それだけで良いのでしょうか? 一寸先は闇と言うことわざがあります。以前発行された教会だよりに投稿された文章に私は大変教えられました。人生には3つの坂がある。上り坂、下り坂、まさか。兄弟は長年連れ添ってこられた伴侶の方を短期間の内に失った悲しみを赤裸々に書いておられます。又、ものの本によりますと、戦後、日銀によって旧円と新円の切り替えが行われ、旧円が紙くず同然になったと言う記録を見ることですが、戦後の混乱期、正に、歴史的大転換であり、このようなことは滅多に起こらないと思いますが、人生には思いもよらないことが起こります。御言に注目して頂きたいのですが、今いましから始まっています。普通の時間の順序ですと、過去・現在・未来になりますが、神は「今います方である」ことが協調されています。私達は、どうしても、過去の自分の犯した過ち、失敗等にとらわれ続けること、そして、未だ、先の見えない未来に不安を覚えるのですが、神は、現在、今を生きよと命じられます。
老人になると現在が苦しく、過去は良かったと逃避する傾向があります。今日、今を抜きにして人は本当に生きることは出来ません。今を感謝と満足を持って過ごすことが出来なければ、過去の懐かしい思い出も苦いものに変わってしまいます。 又、私達がどんなに素晴らしい未来を描こうとも、現在に満足と感謝がなければ、未来は不安とあせりを、かきたてるものでしかないでしょう。
では、こうした充実した毎日を送る為には、何が必要でしょうか。それは、今の時を支配される神に目を向けることであります。そして、一日一日を神から与えられた日として、精一杯生きることであります(マタイによる福音書6章25節〜34節参照)。人間の目が過去か未来のどちらかに向いてしまう時、生活の中心を見失うのです。悪魔の企みは今の時を空っぽにしてしまい、今の時、神に出会わないようにさせることです。
神は、過去・未来をも支配されます。大事なことは、現在、今を支配されることを知ることであります。キリストは、今、生きて救いを与えようと待っておられるのです。
あなたは、このキリストの招きに、どのように答えられますか?
コリントの信徒への手紙二 6章1節〜2節
「わたしたちはまた、神の協力者としてあなたがたに勧めます。神からいただいた恵みを無駄にしてはいけません。なぜなら、『恵みの時に、わたしはあなたの願いを聞き入れた。救いの日に、わたしはあなたを助けた』と神は言っておられるからです。今や、恵みの時、今こそ、救いの日。」
奨 励「神の時としての“今を生きる”」 大保 清兄
今、司会者に朗読して頂いた黙示録1章1節から20節までですが、特に今日、与えられたメッセージは1章8節です。ここから、神さまの恵みを皆さまと共に分かち合いたいと思います。
皆様は、黙示録を読んで、どのような感想を持たれたでしょう。私の感想は、訳の解らない、無気味な内容であると思いました。意味不明な数字や科学的小説のような物語が描かれています。
そもそも、黙示とは何でしょうか?調べてみると、ギリシャ語でアポカリュプシス、隠されていたものを神が現わにすること、又は、ベールをはがすことであります。では、隠されていたものとは何でしょう?私達、救われた者の未来、即ち、救いの完成であります。
特に私が黙示録を意識し始めたのは、1970年代に流行したオカルト映画でした。私と同年輩の方なら、ご覧になったことがあると思います。オーメン、エクソシスト、いずれも悪魔の申し子、聖書によれば、未来に出現すると言われる反キリストのことです。
ヨハネ第一の手紙4章1節を開いて下さい。
オーメンは、米国の国連大使の家庭に生まれた子供で、名がダミアン、悪魔の申し子で、やがて、世界を支配する者として育って行きます。他方、エクソシストでは、悪魔を追い払う賜物を与えられている、カトリックの神父との一大決戦であり、特にショッキングだったのは、少女の首が360度回転するシーンでした。
前置きはさておき、黙示録に戻ります。では、世の終りとは、どんなことでしょうか?よく誤解されるように、この世界の滅亡、天変地異、今日、報道でとりあげられる気候変動による海面の上昇、温暖化による異常気象、戦争のうわさ等により、世界が滅亡するのではないかとの不安な気持ち、恐怖心であります。このようなことは、起きるかもしれないし、起こらないかもしれません。特に、戦争に関しましては、教会は非戦を貫き、我国の平和憲法を世界に掲げていかなければならないと思います。しかし、そのことは破局論、即ち、この世が滅亡するのではないかとの悲観論であります。
世の終りのこと、神学に於いては終末論と言いますが、救いの完成、新しい天と地、死も涙もない神の国が、キリストの再臨と共に来るという、福音の完成された形であります。
黙示録を読んで難しいと思われるのは、文章の中に、超自然的な幻や、意味不明な数字が記されているからです。
黙示録を解釈する3つの方法があります。
1.過去主義的解釈:黙示録が書かれた時代背景 紀元90年頃、ローマ皇帝ドミティアヌス帝による皇帝崇拝を拒否したクリスチャン達とローマとの闘争の歴史を象徴的言葉で書く1つの絵画的なものであります。
2.歴史主義的解釈では、黙示録をヨハネの時代から、世の終り迄を救済史(救いの歴史)の全ての期間を予告するものと見る、教会が迫害を受け、苦しみが段々と深まっていく状態を描いた一種のパノラマ、絵のようなものであります。
3.未来主義的解釈では、世の終りとキリストの再臨の時期(日時ではない)を中心として書かれたものであります。
私は、歴史的解釈、未来的解釈を受け入れるものであります。しかし、黙示録をテキストとした説教には、教会は昔から消極的でした。何故なら、黙示録の極端な解釈をして、異端に陥る危険性があったからなのです。
過去の米国のある教会では、再臨がいつ起こるか、具体的数字を発表して、信者の人々が自分の財産を売り払い、再臨を待っていたのですが、その日、何も起こらず大騒ぎになったと言うことです。
又、最初から異端として捉える宗派ですが、勿論、自分たちこそが、真の宗派は教会ではなく、王国会館であると宣言しているエホバの証人も、やはり、再臨の日時を発表しましたが、その日は何もなく過ぎてしまいました。彼らは面白い弁明をしています。イエスさまは途中まで降りてこられたが、途中で止まっておられるのだと。
又、最近、話題になっている旧統一教会の教えである、教祖が再臨のキリストであると宣言していますが、そうしたら、二千年前に昇天したキリストは、どこに行かれたのでしょうか?デタラメも甚だしいです。使徒言行録1章9節から11節まで朗読いたします。
この預言の書とも言われる黙示録は教会で預言の書として朗読され、説教のテキストになりました。それでは、黙示録が書かれた頃の時代背景はどのようなものだったのでしょうか?
紀元95年、ローマ皇帝ドミティアヌスの迫害の時であり、迫害の理由は、クリスチャンが皇帝崇拝を拒んだからです。
ヨハネは流刑地−バトモス島−犯罪人が島流しされる土地に於いて、強制労働をさせられていたと言われます。翌96年、釈放されてエフェソに行き、黙示録を書いたそうです。ペンテコステの後、教会は拡大し続けました。しかし、ユダヤ人による宣教の妨害、帝国による皇帝崇拝の強制、それを拒否するクリスチャン達への迫害がますます激しくなり、中でも有名な皇帝ネロによる使徒パウロ、ペテロへの迫害で、彼らは殉教して行きました。
次に、終末論−世の終りのことですが、時間の問題が大きく関係してきます。各文明圏では、どのように時間を捕らえてきたでしょうか?東アジア代表の文明圏インドで仏教が誕生したのですが、初めも終りもない円環の時間として捉えられ、教義では輪廻転生と言われました。人間、死ぬと他の者に生まれ変わり、この世に戻り、同じような一生を送る。但し、生まれ変わるのは人間とは限りません。人が生きていた時の行ない、業と言いますが、それによって何に生まれ変わるのか決められています。この苦しい輪廻から逃れるために、仏教徒は修行に励みました。
西の文明の代表はギリシャです。その考えは、霊肉二元論、霊魂は神性なもの、肉体は汚れたもので、死ぬと霊魂は天上の世界へ、体はハデスと言う死後の世界で影のような形で暮らすそうです。何故、このような奇妙な考えが生まれるのでしょうか?その答えは、ユダヤ教、キリスト教、後にはイスラム教も入ってきますが、創造者による天地創造と言う信仰がなかったからです。現代では当たり前となっている直線的時間と言う考え方、前に向かって流れ、決して後戻りすることはないと言う時間の捉え方であります。
ちなみに、我が国の元号は中国から輸入され、一世一代、つまり、天皇が即位してから亡くなる迄の元号が贈り名となる訳であります。つまり、天皇が時間をも支配するという意味であります。しかし、この考え方は我が国だけでしか通用しません。世界に於いては、皆様もご存じのように、キリスト紀元による暦があり、キリスト降誕時、文字通り訳すと、キリストの支配する時、又はキリストの降誕前によって、時代のあとさきが分かれているのであります。確かに世界の宗教には、創世神話、つまり、世界の成り立ちを説明する教えがありましたが、ユダヤ・キリスト教のような論理的に一貫した神学はありませんでした。後年、西欧に於いて科学が発展する要因となったのであります。
この黙示録の預言は手紙の形式を用いて7つの教会に届けられました。大切なことは、神の言はヨハネ個人によって受けとられましたが、教会という会衆の中で朗読され、説教のテキストとして用いられてきたのです。今日に於いても、信仰は個人だけのものではなく、教会によって継承されなければならないのです。
黙示録の預言を送られた宛先は、アジア州にある7つの教会、エフェソ、スミルナ、ベルガモン、ティアティラ、サルデス、フィラデルフィア、ラオデキアであります。しかし、アジアと言っても、私達の住むアジア大陸ではなく、ローマ帝国の植民都市、小アジア地中海沿岸に存在する教会であります。
次に、差出人として、黙示・預言の言を与えられたキリストの紹介、今、おられ、かつておられ、やがて来られる方と言う表現は、永遠に存在する方、歴史上かつて起こったことのない前代未聞、驚天動地−今まで見たことも聞いたこともない驚くべき出来事、死から甦った御方を、今一度、思い起させようと言う事であります。
地上の王たちの支配者であるイエス・キリストとは、西欧に於いてクリスマスの時期に、恒例行事として演奏されるヘンデルのメサイアという曲の中に、キリストをキング・オブ・キングス、ロード・オブ・ロード(王の王、主の主)とたたえるフレーズがあります。ヨハネによる福音書の19章8節に総督ピラトがキリストを尋問する場面がありますが、ピラトはキリストに対して「お前を釈放する権限も、十字架につける権限も、このわたしにあることを知らないのか。」つまりピラトは、あらゆる権限の究極である生殺与奪、即ち、生かすも殺すも私次第にあると威張るのですが、それに対して、キリストは、「神から与えられなければ私に対して何の権限もないはずだ」と言われましたが、返事の意味は次の通りです。
総督ピラト、又は、その主君である皇帝は、自分たちの力で全世界を支配する最高の権力があると思っているのですが、実は、歴史をも支配される神によって救済のご計画の道具に過ぎないことを、イエスさまによって教えられたのであります。
恵みと平安とは、神さまの憐み深いご性質のおかげで、人間の罪を赦し、神の子として下さり、安心して神の助けを受けつつ、悩みを乗り越えて、毎日を生かさせて頂くことであります。
では、私達は、何によって罪から解放されたのでしょうか?キリストの十字架の上で流された血潮のおかげです。確かに、救いは完成されました。しかし、体は今だ贖われていません。体の贖われることを、パウロは心の中でうめきながら待ち望んでいると叫んでいます。(ローマの信徒への手紙8章23節)
この事に、私達は疑問を持ちます。何故、十字架によって罪から解放された筈なのに罪を犯し続けるのだろう。この辺りの消息をマルチン・ルターに聴いてみましょう。
「キリスト者は一生涯、罪人であると同時に義人である」人間は生まれながら神の審きの下にある罪人であるが十字架の贖いにより罪赦され義人と見なされるようになった。つまり、キリストによって神の前に義しい者とされたのであります。キリストを離れた時は罪人のままであります。「キリスト者は生涯、悔い改め続けなければならない。」私達は洗礼を受けた時のみ、悔い改めるのではなく、生涯に亘って悔い改めること、即ち、神に背を向けた状態から、神に方向転換することであります。そして、世の終りであり、キリストの再臨の時に、罪から完全に解放された新しい体に変えられ、新しい天地、死も涙もない神の国に住まわせて頂くのであります。
それでは次に、小見出しにある「天上におられるキリストの姿」を見てみましょう。ヨハネの居る場所は、パトモスと言う島で、最初に申し上げたように囚人の流刑地であります。ヨハネは旧約の預言者のように、聖霊によって壮大な終りの日の幻を見せて頂きました。天上におられるキリストの姿は非常に異様に思われます。
私達が福音書で慣れ親しみある姿は、私達と同じ人間、赤子として生まれ、成長して時には飢え渇き、そして最後に十字架の上で苦しみながら死んでいくという姿であります。
キリストには2つの性質があると言われています。真の神、真の人であります。天上におられるキリストは、神としてスポットライトが当てられています。又、キリストは3つの職務を持っておられます。王・預言者・大祭司でありますが、時間の都合上、詳しいことは省略いたします。ただ、王としてのキリストにだけ触れたいと思います。王としてのキリストは、皇帝や支配者のように地上の国々を支配されるのみならず、永遠に生きておられ、死や陰府−死んだ後、行くとされる所−さえ支配されると言われます。これらのことが象徴的に書かれています。
以上のことを頭において頂き、今日、ここに礼拝に集っておられる皆様と共に、今日、神が語って下さるメッセージに耳を傾けたいと思います。8節をご覧ください。キリストは全能の神であります。「私はアルファであり、オメガである。」アルファとはギリシャ語のアルファベット最初の文字A、オメガは最後のZにあたります。神は、私達の誕生のときから年老いて死ぬ迄の全生涯を御手の中において導き支配されます。老いて、だんだん身体が衰えていき、思うように動かすことが出来なくなった時、将来に何の希望もなく、ただ死を待つだけの身となったと思える時も、神は全てをご存じなのです。
他方、若い人としては、元気があり、将来に向けて多くの希望に満ち溢れています。良い学校を卒業して、安定した会社に就職、恵まれた結婚をして無事、定年まで務めあげ多額の退職金、年金を貰い、悠々自適の老後を夢見るのです。
最近、政府は人生百年時代、高齢化時代なので、老後年金だけでは不足するので、自分で積み立て、株などへの投資を勧めるキャンペーンを流しています。確かに老後に備えることは必要でありましょう。しかし、それだけで良いのでしょうか? 一寸先は闇と言うことわざがあります。以前発行された教会だよりに投稿された文章に私は大変教えられました。人生には3つの坂がある。上り坂、下り坂、まさか。兄弟は長年連れ添ってこられた伴侶の方を短期間の内に失った悲しみを赤裸々に書いておられます。又、ものの本によりますと、戦後、日銀によって旧円と新円の切り替えが行われ、旧円が紙くず同然になったと言う記録を見ることですが、戦後の混乱期、正に、歴史的大転換であり、このようなことは滅多に起こらないと思いますが、人生には思いもよらないことが起こります。御言に注目して頂きたいのですが、今いましから始まっています。普通の時間の順序ですと、過去・現在・未来になりますが、神は「今います方である」ことが協調されています。私達は、どうしても、過去の自分の犯した過ち、失敗等にとらわれ続けること、そして、未だ、先の見えない未来に不安を覚えるのですが、神は、現在、今を生きよと命じられます。
老人になると現在が苦しく、過去は良かったと逃避する傾向があります。今日、今を抜きにして人は本当に生きることは出来ません。今を感謝と満足を持って過ごすことが出来なければ、過去の懐かしい思い出も苦いものに変わってしまいます。 又、私達がどんなに素晴らしい未来を描こうとも、現在に満足と感謝がなければ、未来は不安とあせりを、かきたてるものでしかないでしょう。
では、こうした充実した毎日を送る為には、何が必要でしょうか。それは、今の時を支配される神に目を向けることであります。そして、一日一日を神から与えられた日として、精一杯生きることであります(マタイによる福音書6章25節〜34節参照)。人間の目が過去か未来のどちらかに向いてしまう時、生活の中心を見失うのです。悪魔の企みは今の時を空っぽにしてしまい、今の時、神に出会わないようにさせることです。
神は、過去・未来をも支配されます。大事なことは、現在、今を支配されることを知ることであります。キリストは、今、生きて救いを与えようと待っておられるのです。
あなたは、このキリストの招きに、どのように答えられますか?
コリントの信徒への手紙二 6章1節〜2節
「わたしたちはまた、神の協力者としてあなたがたに勧めます。神からいただいた恵みを無駄にしてはいけません。なぜなら、『恵みの時に、わたしはあなたの願いを聞き入れた。救いの日に、わたしはあなたを助けた』と神は言っておられるからです。今や、恵みの時、今こそ、救いの日。」
posted by 日本基督教団 石山教会 at 11:49| 日記