2022年09月03日

2022年9月11日 礼拝予告

〇教会学校 9時15分〜
聖書:士師記7章1節〜7節
説教:「ギデオンの戦い」

〇主日礼拝 10時30分〜
聖書:使徒言行録17章16節〜34節、イザヤ書46章5節〜13節
説教:「生きた神」須賀工牧師

感染予防対策をした上で、礼拝をささげています。皆様のお越しを心よりお待ち申し上げます。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 17:58| 日記

2022年9月4日 主日礼拝説教「御言葉を伝える」須賀工牧師

聖書:使徒言行録17章1節〜15節、詩編119篇105節〜112節

 今朝、私達に与えられた御言葉は、使徒言行録17章1節から15節の御言葉です。まず、1節から4節の御言葉を、改めて、お読みします。「パウロとシラスは、アンフィポリスとアポロニアを経てテサロニケに着いた。ここにはユダヤ人の会堂があった。パウロはいつものように、ユダヤ人の集まっているところへ入って行き、三回の安息日にわたって聖書を引用して論じ合い、『メシアは必ず苦しみを受け、使者の中から復活することになっていた』と、また、『このメシアはわたしが伝えているイエスである』と説明し、論証した。それで、彼らのうちのある者は信じて、パウロとシラスに従った。神をあがめる多くのギリシア人や、かなりの数のおもだった婦人たちも同じように二人に従った」。
 パウロは、フィリピの後、テサロニケで伝道を開始します。まず、パウロは、「ユダヤ人の会堂」で伝道をしました。まずは、ユダヤ人に、福音を伝えること。これが、パウロの伝道方法です。
 ユダヤ人は、決して、見捨てられた民ではありません。彼らは、神様の救いの歴史を担ってきた人々でもあります。そして、その歴史は、主イエス・キリストを通して、更に展開をしたわけです。それ故に、ここで、語られている救いは、この歴史を無視して語ることはできません。その意味で、ユダヤ人も又、神様の救いへと招かれた、大切な人々なのです。
 それでは、このテサロニケにおいて、どのような「御言葉」が伝えられたのでしょうか。2節と3節を改めてお読みします。「パウロはいつものように、ユダヤ人の集まっているところへ入って行き、三回の安息日にわたって聖書を引用して論じ合い、『メシアは必ず苦しみを受け、死者の中から復活することになっていた』と、また、『このメシアはわたしが伝えているイエスである』と説明し、論証した」。
 何よりもまず、パウロは、「聖書を引用して論じ合った」とあります。そのまま訳するならば、「聖書に基づいて論じ合った」と言う事です。言い方を変えるならば、「聖書に何が書いてあるか」「聖書は何を語っているのか」ということを論じ合ったのであります。
 この場合の聖書は、ユダヤ人の信仰の土台となる「旧約聖書」のことです。要するに、ユダヤ人が土台としている「旧約聖書」が、一体、何を本当に語っているのか。そのことを明らかにする。それが、ここでのパウロの伝道内容だったのです。
 それでは、旧約聖書を通して、神様が、私達に示すものは、何でしょうか。それは第一に「メシアは必ず苦しみを受け、死者の中から復活することになっていた」ということであります。
 「メシア」とは、「救い主」のことです。その救い主が、必ず苦しみを受けなければいけない。そして、死から復活する。これが、旧約聖書を通して示された、神様からの約束なのです。
 ここで言われている「必ず」というのは、「運命的にそうなる」という意味ではありません。そうなることが「神様の御心」なのだ、という意味を持っています。
 神様は、遥か昔から、人間の罪を赦し、救うために、救い主を遣わすこと。そして、その救い主が、私達の罪を背負い、苦しみを受け、殺され、そして、復活すること。それらのことを、御心の内に決めておられたのだ、ということなのです。
 つまり、神様の救いは、私達が、私達の努力によって勝ち得るものではないのです。神様の固い御意志によって、遣わされた救い主が、裁きの身代わりとなることで、与えられるものなのであります。
旧約聖書には、そのような神様の断固たる決意と約束、そして、限りない愛が語られているのであります。そして、その救い主こそが、主イエスなのだ、ということ。それが、パウロの伝えたかったことの二つ目のことであります。
 パウロは、それらのことを、聖書に基づいて、論証したのです。これが、ここでのパウロによる伝道の内容なのです。彼の伝道は、決して、目新しいものではありません。何かの哲学や思想でもありません。あるいは、自己啓発的なものでもなければ、倫理や道徳の教えとも違います。
 聖書以外のことは語らず、聖書に基づいた言葉しか使わない。それが、パウロの伝道内容であり、方法だったわけです。
 しかし、この派手さに欠けた伝道を通して、幾人かの心が動かされていくことになります。その中の多くは、ギリシア人でありました。「神をあがめる多くのギリシア人」というのは、恐らく、「ユダヤ人に改宗をしたギリシア人」のことです。「おもだった婦人たち」というは、その町の「有力者」のことです。
いずれにせよ、パウロの伝道を通して、救われた人たちがいた。そのほとんどが、外国人だったわけです。彼らにとって、聖書は、外国の書物です。勿論、聖書に少しは触れていたでしょう。あるいは、少しは、聖書に親しんでいたと思います。
 但し、彼ら・彼女らは、ユダヤ人のように、聖書を知っていたわけではありません。あるいは、その背景や歴史を、彼らよりも知っていたわけではないのです。
 しかし、その彼らが、旧約聖書を通して、キリストを知り、その救いに生きるものとされたわけです。
それに対して、ユダヤ人はどうでしょうか。5節から9節の御言葉をお読みします。「しかし、ユダヤ人たちはそれをねたみ、広場にたむろしているならず者を何人か抱き込んで暴動を起こし、町を混乱させ、ヤソンの家を襲い、二人を民衆の前に引き出そうとして探した。しかし、二人が見つからなかったので、ヤソンと数人の兄弟を町の当局者たちのところへ引き立てて行って、大声で言った。『世界中を騒がせてきた連中が、ここにも来ています。ヤソンは彼らをかくまっているのです。彼らは皇帝の勅令に背いて、「イエスという別の王がいる」と言っています。』これを聞いた群衆と町の当局者たちは動揺した。当局者たちは、ヤソンやほかの者たちから保証金を取った上で彼らを釈放した」。
 旧約聖書を通して、キリストを知り、救われた多くは、ギリシア人でした。それに対して、ユダヤ人は、パウロたちを迫害したのです。つまり、聖書のことを知らずに生きた人々が、救いに生かされ、聖書の伝統に生き続けていたはずのユダヤ人が、救いを知ることができなかった。そのようなことが、ここで起きたわけです。
 つまり、救いとは、聖書の知識が多いか少ないかが重要ではない、ということです。主イエス・キリストの救いは、聖書のことを知っているか、否かに関わるものではないのです。知っているから救われるわけではないのです。救われているからこそ、納得ができ、知りたいと思えるのであります。
 このように、キリストの救いは、人間の知識を越えて、伝統を越えて、正に、聖書そのものを通して、御言葉そのものを通して、上から与えられるものなのであります。
 続けて、10節から12節の御言葉をお読みします。「兄弟たちは、直ちに夜のうちにパウロとシラスをベレアへ送り出した。二人はそこへ到着すると、ユダヤ人の会堂に入った。ここのユダヤ人たちは、テサロニケのユダヤ人よりも素直で、非常に熱心に御言葉を受け入れ、そのとおりかどうか、毎日、聖書を調べていた。そこで、そのうちの多くの人が信じ、ギリシア人の上流婦人や男たちも少なからず信仰に入った」。
 テサロニケでの騒動を受けて、パウロたちは、ベレアに送り出されます。パウロたちは、ベレアでも、同じように、伝道を開始しました。11節には、「ここのユダヤ人たちは、テサロニケのユダヤ人よりも素直で、非常に熱心に御言葉を受け入れた」とあります。
 「素直に、御言葉を受け入れる」とは、どういう意味でしょうか。パウロたちが語ることを鵜呑みにすることでしょうか。そうでありません。御言葉にもありますように、「毎日、聖書を調べる」ということです。ここに、熱心さと素直さがあります。
 これは、決して、パウロが語ることを、疑っているわけではないのです。パウロを通して、語られた救いを、自分の恵みとするために、御言葉を深めていくことなのです。パウロの語る一つ一つの御言葉が、聖書に基づく、神様の御言葉であり、その御言葉が、真実に、この私の恵みとなっているか。そのために、神様の御言葉を、生活の中で深めていく。そのことが大切にされたのです。
 聖書を通して、語られる、神様の恵み、救い、愛を、自分自身で、しっかりと聞いて、しっかりと噛み締めて生きること。そのような仕方で、彼らは、伝えられた御言葉を受け入れたのであります。
 説教は、決して、牧師の講演ではありません。パブリックスピーチでもありません。牧師は、そこで通りよき管でしかありません。そこで語られているのは、神様御自身です。そこで語られた御言葉を、しっかりと聞き、確かめ、味わい、受け止めていく。言うならば、御言葉を生活の中で体験していく。そのことは、私達においても、大切なことなのです。
 最後に13節から15節の御言葉をお読みします。「ところが、テサロニケのユダヤ人たちは、ベレアでもパウロによって神の言葉が宣べ伝えられていることを知ると、そこへも押しかけて来て、群衆を扇動し騒がせた。それで、兄弟たちは直ちにパウロを送り出して、海岸の地方へ行かせたが、シラスとテモテはベレアに残った。パウロに付き添った人々は、彼をアテネまで連れて行った。そしてできるだけ早く来るようにという、シラスとテモテに対するパウロの指示を受けて帰って行った」。
 テサロニケでの迫害の手が、ここベレアにも伸びてきます。初代教会は、このような迫害の中で、誕生し、成長したのです。
 しかし、このような伝道は、決して、パウロだけでなされたわけではありません。その土地に必要な人が与えられ、必要な場所が与えられました。フィリピでは、リディアと出会いました。テサロニケでは、「ヤソン」に助けられました。
 実は、この「ヤソン」という名前は、ローマの信徒への手紙16章21節に出てきます。そこには、「同胞のルキオ、ヤソン、ソシパトロがあなたがたによろしくと言っています」と書かれています。
 この「同胞」という言葉は、「出身地が同じ」という意味です。つまり、パウロとヤソンは、同郷の人であったことが分かります。ある人は、パウロとヤソンは、幼馴染だったのではないか、という想像をしていますが、いずれにせよ、異国の地で、同郷の人と出会えた。その人が、キリストを信じてくれた。それは、パウロにとって、強い励ましとなったのではないでしょうか。
 ベレアでは、具体的な名前は出てきません。但し、使徒言行録20章4節には、次のような言葉があります。「ピロの子でベレア出身のソパトロ」という言葉です。因みに、使徒言行録20章は、使徒パウロによる伝道旅行が一旦終わり、命の危険も顧みずに、エルサレムに帰ろうとする。そういう場面を描いています。
 その同行者の筆頭が「ベレア出身のソパトロ」だったと言われています。また、先ほどのローマの信徒への手紙16章21節に出てくる「ソシパトロ」も同一人物であったと思います。つまり、ベレアにおいても、パウロは、同郷の人と出会ったわけです。そして、彼は、命がけの旅路の助け手となったのであります。
 これらの箇所から分かることは、使徒パウロの伝道旅行は、決して、パウロ、シラス、テモテのような伝道者だけの働きではない、ということです。自分の家を捧げる人がいる。一緒に命をかけてくれる人がいる。伝道者の命を守るための案内人がいる。それだけではありません。そのために、迫害された人もいるのです。これら一人一人が、用いられてこその伝道旅行だったわけです。
 彼らは、何のために、パウロたちを助けたのでしょうか。それは、ただ一つです。御言葉を伝えるためです。彼らが受けた恵みを伝えるためです。神様の愛を伝えるためであります。そして、何よりも、彼ら自身が、御言葉を伝えられ、その御言葉が実を結び、神様の愛の内に生かされ、キリストのものとされて生きているからであります。
 神様は、今も生きて、教会を通して働かれています。教会を通して、御言葉を語り続けています。そして、御言葉は、私達の道の光、私達の歩みを照らす灯です。この深い恵みを覚え、聖書を通して語られる神様の御言葉の恵みを味わい、それを確かなものとし、そして、その恵みを伝えていく、そのために自らを捧げる。そのような信仰者としての生活へと、私達もまた、新たに歩み出すものでありたいと思うのです。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 17:55| 日記

2022年09月02日

2022年8月28日 主日礼拝説教音声「真の救い」須賀工牧師

聖書:使徒言行録16章16節〜40節、ダニエル書3章13節〜30節
説教:「真の救い」須賀工牧師

Spotify
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皆様の上に、神様の祝福が豊かにありますように(⌒∇⌒)
posted by 日本基督教団 石山教会 at 05:56| 日記