2019年10月06日

2019年10月13日 礼拝予告

〇教会学校 9時15分〜
主題:「ダビデの契約」
聖書:サムエル記下7章8節〜17節
※礼拝後、分級が行われます。

〇特別伝道礼拝 10時30分〜
主題:「無視への刑罰」山北宣久牧師(日本キリスト教団出版局理事長)
聖書:ルカによる福音書16章19節〜31節
※礼拝後、ささやかな愛餐会(昼食の交わり)が行われます。会費は無料です。

皆様のお越しを心よりお待ち申し上げます。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 08:00| 日記

2019年10月6日 主日礼拝説教「御言葉の種が蒔かれる」須賀 工牧師

聖書:マルコによる福音書4章1節〜20節

 今朝、私達に与えられた御言葉は、マルコによる福音書4章1節から20節の御言葉であります。今朝の説教は、その中から、「種を蒔く人のたとえ」に、特に注目して、語りたいと思います。
 「種を蒔く人の譬え」は、福音書の中でも、特に有名な譬え話の一つではないかと思います。皆様も、一度は、聞いた事のある話であるかもしれません。本当に、よく知られた譬え話の一つであると言えるでありましょう。
 それでは、皆様は、今まで、この御言葉を、どのように聞いてきたでしょうか。聖書によれば、「種」とは、「神様の御言葉」であると言われています。そうであるならば、「種」が蒔かれる土地。それが、「私達のこと」になります。
 恐らく、そのように、聞いてきた人が多いだろうと思います。今朝の説教題から申し上げましても、そのように理解する方が多いだろうと思います。確かに、それは、正しい解釈の一つであります。決して、間違いではありません。
 しかし、もし、その側面だけで、この譬えを理解してしまうとどうなるのでしょうか。恐らく、「自分が『良い土地』にならなければ、実りが得られない」。「一生懸命に努力をして、良い土地・良い心の持ち主にならなければいけない」。そのような理解を生み出していくだろうと思います。
 しかし、それは、本当に正しい理解なのでしょうか。いわゆる律法主義、行為主義という視点で読むことが正しいのでしょうか。場合によっては、「自分は良い土地にはなれない」。そのような諦めを感じてしまう人も出てきてしまうかもしれません。あるいは、「自分は、良い土地だから、クリスチャンになれたのだ」と、自信をもって言える人が何人いるでしょうか。
 確かに、この譬え話に出てくる、土地は、「私達自身」を指しています。しかし、それだけではありません。実は、私達自身を表しているものが、もう一つあるのです。それが、分かってくると、この譬え話の謎が、始めて解けるだろうと思うのであります。
 では、私達自身の姿は、どこに描かれているのでしょうか。断片的ではありますが、聖書の御言葉を読んでみたいと思います。15節の御言葉を一部分だけお読みします。「道端のものとはこういう人たちである」。続けて、16節をお読みします。「石だらけの所に蒔かれるものとは、こういう人たちである。」更に続けて、18節をお読みします。「また、他の人たちは、茨の中に蒔かれるものである。」最後に、20節を読みます。「良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて受け入れる人たちであり」。
 これらの御言葉に、違和感を感じないでしょうか。分かり難い表現かもしれません。言い方を少し変えて言い直してみます。「道端に蒔かれた『種』は、こういう人たちである」。「良い土地に蒔かれた『種』とは、御言葉を聞いて受け入れる人たちである」。私達自身は、どこに描かれているのでしょうか。それが「種」なのです。
 「種を蒔く人は、神の言葉を蒔くのである」。このように聖書には記されています。御言葉が「種」として蒔かれるのです。
 しかし、そこで、もう一つのことが起きているのです。何が起きているのでしょうか。御言葉に聴く私達自身が、御言葉と一つになっているということなのです。御言葉に聴き、御言葉と共に生きる私達が、御言葉と共に、それぞれの現実へと蒔かれていくのだ、という話なのであります。
 つまり、この譬え話は、御言葉を聞くとか聞かないとか、そういう話ではないのです。御言葉が蒔かれた。しかし、私達の心が道端のようだったから御言葉を得ることができなかった。そういうことではないのです。良い心を持たなければ、御言葉を得ることはできない。御言葉を得られない人は、実りを得ることができない。そのような話ではないのです。
 私達が、どのような人間であろうと、どのような状況の中にあろうと、もう既に、私達は、御言葉と共に生きている。御言葉に生かされている。その上で、私達が、どの現実を生きるのか。どのような環境に身を置くのか。それが、問われているのであります。悪い心だから、御言葉が得られない、という話ではない。もう既に、御言葉と共に生かされているという恵みのなかで、私達の現実を改めて見つめ直していく。それがここで大事なことなのであります。
 私達が置かれている環境−蒔かれた先−は、決して、豊かな実りを保障するものだけではありません。御言葉に生かされていても、それが育たない環境がある。御言葉に生かされていても、それが、命にならない環境もある。御言葉と共に蒔かれても、それが育たないこともあるかもしれません。
 そして、それは、周りの環境だけの問題ではないだろうと思います。私達自身の問題であるかもしれない。その意味で、私達は、「種」であると共に「土地」なのかもしれません。即ち、私達自身の心の土地が、御言葉の種を枯れさせてしまう。そのようなこともあるだろうと思うのです。そのような現実があることを、まず、聖書は、指し示しているのであります。
 しかし、この譬え話には、もう一つ大切なポイントがあります。それは、この譬え話の主人公が、「種を蒔く人」であるということです。誰が、御言葉の種を蒔くのでしょうか。それが、主イエス・キリスト御自身なのであります。
 そして、実は、当時の農耕は、種を蒔いてから、土を耕すのが普通だと言われています。つまり、神の御言葉に生かされ、この現実へと蒔かれた私達を、主イエス・キリストが、養い、育ててくださる。それだけではない。私達が豊かに実を結び、神様の御心に適ったものとなるために、主御自身が、私達の心を耕してくださるのであります。
 農家の人々が、種を蒔き、育てたものを愛するように、主イエス・キリスト御自身が、御言葉に生かされた私達を愛し抜いてくださる。そして、正に、命を注ぐように、育て、養い、耕してくださる。その幸いが、ここから強く指し示されているのであります。
 主イエス・キリスト御自身が、その実りのために、汚れを担い、汗や涙を流しながら、私達のために、お働きくださるのであります。主イエス・キリストは、私達に御言葉を与え、御言葉と共に生かしてくださり、その恵みの中で、新しい生活へと、私達を蒔いてくださいます。そして、私達の心を、私達の生きる場所を、耕し続け、種を養い、育ててくださるのであります。
 良い土地にならなくても良いのです。御言葉と共に生きる、小さな種で良いのです。良い土地は、主イエス・キリストが、御自身の汗と涙と血によって切り拓いてくださる。そして、私達を神様に喜ばれる存在へと成長させてくださるのであります。
 御言葉が実にならないこともあるかもしれません。しかし、それでも、主イエス・キリストは、私達に御言葉を与え、御言葉と共に生かし、その恵みの中で、私達に新しい日々を備えてくださいます。そして、私達の心を耕し続け、私達を、神様の御心に適った、喜ばれる存在へと養い、測り知ることのできない喜びと希望を約束してくださるのです。その幸いを信じて、新たに、御言葉と共に歩み出したいと思います。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 07:57| 日記

2019年10月02日

2019年9月29日 主日礼拝説教「私たちのもとに、やって来られる救い主」須賀 舞伝道師

聖書:ヨハネによる福音書1章29節〜34節

 本日の御言葉は、ヨハネによる福音書1:29-34です。29節をもう一度お読みします。
その翌日、ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。」
このように、本日私たちに与えられました御言葉は、主イエスご自身が、ヨハネの方へと、近づいて来られるところから始まります。この29節に至るまで、月に1度ヨハネによる福音書を1:1から順に読んできました。私たちは、福音書の序文とその後に続く、ヨハネの証の言葉を通して、間接的に主のお姿を見て参りました。しかし、今朝、いよいよ主がそのお姿を、私たちに現されるのです。
 ヨハネは、主イエスが近づいて来られるのを見て、どんなに嬉しかったことでしょう。「見よ!」と、喜びの声を上げます。この言葉は、非常に強い命令形の呼びかけです。語気を強めずにはいられないほどの喜びが、ヨハネの中にあふれていたのです。不思議なことに、ヨハネが、誰に向けて証をしたのか、ここでは明らかにされていません。前後の記事には、ユダヤ人や弟子たちに、とはっきり書かれているだけに、ここだけが際立っているようにも感じます。ですが、誰に語ったのかは、あまり重要な問題ではなかったのかもしれません。むしろ、ヨハネは、特定の誰かにではなく、誰にでも、つまり、すべての人に主イエスを指し示して「見よ」と言ったのではないでしょうか。すべての人、それは私たちをも含みます。この世のすべての人が、真っ直ぐただ一人のお方を見つめるために、ヨハネは「見よ!」と声高らかに叫ぶのです。
 ヨハネは、主を「世の罪を取り除く神の小羊だ。」と言います。この呼び名は、福音書のこの箇所にしか出てきません。ヨハネは、どのような意味を込めて、主をそのように呼んだのでしょうか。これと深く関わってくるのが、「過越の小羊」です。本日お読みした旧約聖書の箇所、出エジプト記12章にでてくる、過越祭の犠牲の小羊の事です。昔、イスラエルの人々が、エジプトに捕らわれて苦しんでいた時、神様はモーセを指導者として召し出して、イスラエルの民をエジプトから救い出してくださいました。その時に、神様は、イスラエルの人々に、犠牲の小羊を屠り、その血を自分たちの家の門と柱に塗りなさいと命じられたのです。その夜、神様は小羊の血が塗られていない家の子どもを撃たれました。しかし、血が塗られている家の前を、神様は過ぎ越され、イスラエルの人々は災いを免れたのです。大きな悲しみと混乱のさなか、イスラエルの民はエジプトを脱出しました。この出来事を覚えて記念するため、イスラエルでは、これを過越の祭として祝うようになったのです。その習慣は、イエス様の時代にも続いていました。そして、ヨハネによる福音書19章には、本来、犠牲の小羊を捧げるはずの、過越祭の準備の日に、イエス様が十字架に架けられたと記されているのです。過越の小羊は、傷や汚れのない小羊でした。そして、主も、傷や汚れのないお方、即ち、一切罪のないお方でありながら、十字架の上でその身を捧げられた。十字架の上で流された血によって、私たちを、罪によって滅されることから守ってくださったのです。
 しかし、ここで疑問が一つ浮かんでくるのです。この箇所は、この福音書のまだ初めの1章、映画で喩えるならば、物語の主人公が誰なのか、観客に知らされた冒頭の場面にすぎません。主の十字架は、いわばクライマックスです。しかし、ヨハネは、まるでそのクライマックスを既に知っていて、その出来事の意味を深く確信した者でなければ、決して言わないような言葉を使って主イエスを呼ぶのです。「世の罪を取り除く神の小羊」と。なぜ、ヨハネは起こってもいない事柄について、まるで全てを知っているかのような呼び名で、主イエスを呼んだのでしょうか。
 もっとも、ヨハネも最初から全てを知っていたわけではありませんでした。31節と33節に、「わたしはこの方を知らなかった」という言葉が繰り返されます。救い主が誰なのか、どのようにして私たちを救ってくださるのか、一体いつ、どのような形で来られるのか、ヨハネも最初は全く知らなかった。それは、私たちも同じです。私たちも最初から、救い主を知っていたわけではありません。しかし、ヨハネも私たちも今は知っています。この私を罪から救ってくださる、救い主を知っている。今はなぜ知っているのか。それは、良い行いを積み重ねたり、知識を増やしたりすることで、イエスが誰であるかを理解したということではありません。多くの良い教えの中から、自分がこれだと思うものを選びとった結果、イエスが私の主であると確信したということでもありません。ヨハネは、そして、私たちは、知らされたのです。このお方が、私たちの救い主であると、神様が知らせてくださったのです。まだ誰も見ていない、知らない、人類の救いの出来事を知らせる神様の言葉を、ヨハネは聞いたのでした。
 ヨハネによる福音書は、他の福音書とは違い、主イエスの洗礼の出来事が直接的には記されていません。しかし、本日の御言葉は、明らかに主イエスの洗礼を前提としているのです。ヨハネは、ヨルダン川のほとりで人々に、救い主の到来が近いことを教え、悔い改めの洗礼を授けていました。その時、一人の若者が来て、皆と同じように洗礼を受けた。ナザレの人で、ヨセフの息子のイエスという名の若者でした。その時、天が開け聖霊が鳩のように降り、この人の上にとどまった。そして、ヨハネは『“霊”が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である(33節)』という神様の声を聞いたのです。神様が示してくださったこの出来事を見て、ヨハネは、このナザレの人イエスこそ、神の子、神の小羊であると確信したのです。主イエスが「世の罪を取り除く神の小羊」と呼ばれたのは、主が「聖霊によって洗礼を授ける人」であると示されたからであったのです。
 ところで、この「聖霊によって洗礼を授ける人」とはどういう意味でありましょう。主の上に聖霊がとどまったとヨハネは証しました。この「とどまる」という言葉は、一体となることを意味します。主イエスの地上の宣教活動は、霊を受けることから始まり、人々に霊を与えるものでした。主イエスがお語りになる言葉は、神の言葉でした(3:34)。そして、主の言葉を通して、御父の限りない霊が、私たちにも与えられるのです(6:63)。私たちは、主を通して神の言葉を聞き、霊を受け、永遠の命に与ることがゆるされているのです。
 これは、教会の宣教の働きにおいても同じです。この石山教会も、主から霊を受けた群れなのです。使徒言行録が伝える、ペンテコステのあの聖霊降臨の出来事を思い起こしてください。使徒たちに聖霊が降り、キリストの教会が誕生しました。主は、終わりの日に主が再び来られるまでの間、この地上の旅路を続ける私たちを、孤児(みなしご)のままにはしておかれませんでした。天から聖霊を送ってくださり、私たちの慰め主としていつも聖霊が共にいることを約束してくださったのです。そして、主の約束の通り、聖霊降臨の奇跡が起こり、今ここに石山教会として、聖霊は私たちと共に生きて働き続けているのです。聖霊は、聖なる福音の説教を通して、私たちの信ずる心を起こします。ですから、霊と真理をもって礼拝をする時、礼拝ごとに聖霊降臨の奇跡が、私たちにも起こるのです。
 そして、私たちの信ずる心を、目に見える印として確かにしてくれるのが、聖礼典です。聖礼典とは、洗礼と聖餐のことです。カトリック教会では、聖餐式の時、聖体変化したパンとぶどう酒を前に、ヨハネの言葉「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」と唱えるそうです。プロテスタント教会では、そのような伝統はありませんが、聖餐を通して、主イエスの十字架による救いの恵を、私たちは味わい知ることがゆるされています。そして、「世の罪を取り除く神の小羊」と主を指し示す時、ヨハネはそこで既に蘇りの主を指差していました。後に、主が十字架で死なれた時、悲しみと不安に打ちひしがれていた弟子たちのもとに、蘇りの主は来てくださり、食事を共にしてくださいました。ですから、聖餐は、主の十字架の死による罪の贖いを示すと同時に、主の蘇りの命に与る食卓でもあるのです。
 そして、ヨハネによる福音書の20章は、蘇りの主が、弟子たちに聖霊を与えたことを伝えています。21節以下を少しお読みします。
イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。誰の罪でも、あなたがたが赦せば、その罪はゆるされる。…」
息を吹きかけるのは、聖霊を与える行為です。このようにして、主イエスは弟子たちに聖霊によって罪を赦す宣教の業を託されたのです。罪の赦し、それは具体的に言うならば「洗礼」です。私たちの教会は、この弟子たちの信仰を受け継ぐ教会です。そして、愛する兄弟姉妹の皆さん!私たちも洗礼による罪の赦し受け、聖霊を授けられた者である幸いを、今一度胸に刻もうではありませんか!そして、この石山教会に託された、聖霊によって洗礼を授けるという宣教の業を、担っていく者でありたいと願うのです。
 本日の説教題を「私たちのもとに、やって来られる救い主」としました。今朝、私たちは、御言葉を通して、主が、いつも私たちのもとに近づいて来てくださる恵みを、感謝を持って受け入れたいと思います。私たちは、自分の頑張りによって、主に近づいていくのではない。むしろ、何も誇れるものもない、罪による自責の念ばかりの、低い低いどん底にいるこの私のもとでさえ、主の方からやって来てくださる。重くて背負いきれないこの私の罪を取り除き、全て代わりに担ってくださる。そして、御父の御手の中に、連れ戻してくださる。その主の大きな愛に、感謝し、共に祈りを合わせたいと思います。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 11:16| 日記