2020年05月11日

2020年5月17日 主日礼拝「目が開かれる」須賀 工牧師

2020年5月17日 主日礼拝
〇祈り
 天の神様、あなたの御名を賛美します。今、あなたの恵みの中で、生かされて、あなたを礼拝することができます幸いに、深く感謝を申し上げます。
 どうか、今、共に礼拝を捧げる一人一人の心を一つにし、高らかに、あなたの御名を賛美する礼拝を捧げられますように、あなたが、中心に立って、私達の心を導いてください。
 過ぐる日々、あなたによって生かされていながらも、あなたの恵みを忘れ、御心に適うことの少なかった、私達を憐れんで下さい。どうか、罪によって、閉じてしまっている、私達の心の目を、あなたが御言葉の力によって、聖霊の働きによって、再度、開いてくださり、あなたの救いの確かさを見上げるものへと導いてください。
 どうか、この時も、御言葉によって、私達を養い、それぞれの場所で、あなたの恵みを覚えながら、生活をしていくことができますように、一人一人をお守りお導きください。今は、共に、一堂に会して、礼拝を捧げることは適いませんが、どうか、それぞれの場所で、あなたの恵みを受けて、喜びと希望の内に過ごすことができますように。
 そして、一日も早く、安心して、この会堂に集い、共に礼拝を捧げることができますようにお守りください。病の内にある方々、痛みを覚えている方々がおりますならば、特に、あなたがかえりみてくださり、あなたの癒しの御手の内に、新たに生かしていただきますように、心より祈ります。
 過ぐる日、あなたの御許に召された、聖徒達を覚えます。どうか、今、あなたの御手の中で、真の平安を得ていることを信じるものとしてください。天にある民も、地にある民も、共に復活の希望の中に生かされ、高らかに、あなたを賛美することができますようにお守りください。愛する者を失い、悲しみのうちにいる方がおりましたら、どうか、あなたが慰めと励ましを与えてください。
 感染症の脅威は、まだ、人類を脅かしています。どうか、世界中の一人一人が、この時も安心して生活ができますように。そして、この脅威と日々、格闘している医療関係の方々、それぞれの社会の上に、あなたの励ましを与え続けてください。
 全てのことを感謝し、全てのことを委ねて、このお祈りを主イエス・キリストの御名によっておささげいたします。アーメン

〇聖書
(新約聖書)マルコによる福音書8章22節〜26節
22 一行はベトサイダに着いた。人々が一人の盲人をイエスのところに連れて来て、触   れていただきたいと願った。
23 イエスは盲人の手を取って、村の外に連れ出し、その目に唾をつけ、両手をその人   の上に置いて、「何か見えるか」とお尋ねになった。
24 すると、盲人は見えるようになって、言った。「人が見えます。木のようですが、   歩いているのが分かります。」
25 そこで、イエスがもう一度両手をその目に当てられると、よく見えてきていやされ、   何でもはっきり見えるようになった。
26 イエスは、「この村に入ってはいけない」と言って、その人を家に帰された。

(旧約聖書)列王記下6章8節〜23節
8  アラムの王がイスラエルと戦っていたときのことである。王は家臣を集めて協議し、  「これこれのところに陣を張ろう」と言った。
9  しかし、神の人はイスラエルの王のもとに人を遣わし、「その場所を通らないよう   に注意せよ。アラム軍がそこに下って来ている」と言わせた。
10 イスラエルの王は神の人が知らせたところに人を送った。エリシャが警告したので、   王はそこを警戒するようになった。これは一度や二度のことではなかった。
11 アラムの王の心はこの事によって荒れ狂い、家臣たちを呼んで、「我々の中のだ    れがイスラエルの王と通じているのか、わたしに告げなさい」と言った。
12 家臣の一人が答えた。「だれも通じていません。わが主君、王よ、イスラエルには   預言者エリシャがいて、あなたが寝室で話す言葉までイスラエルの王に知らせてい   るのです。」
13 アラムの王は言った。「行って、彼がどこにいるのか、見て来るのだ。わたしは彼   を捕らえに人を送る。」こうして王に、「彼はドタンにいる」という知らせがもた   らされた。
14 王は、軍馬、戦車、それに大軍をそこに差し向けた。彼らは夜中に到着し、その町   を包囲した。
15 神の人の召使いが朝早く起きて外に出て見ると、軍馬や戦車を持った軍隊が町を包   囲していた。従者は言った。「ああ、御主人よ、どうすればいいのですか。」
16 するとエリシャは、「恐れてはならない。わたしたちと共にいる者の方が、彼らと   共にいる者より多い」と言って、
17 主に祈り、「主よ、彼の目を開いて見えるようにしてください」と願った。主が従   者の目を開かれたので、彼は火の馬と戦車がエリシャを囲んで山に満ちているのを   見た。
18 アラム軍が攻め下って来たので、エリシャが主に祈って、「この異邦の民を打って   目をくらましてください」と言うと、主はエリシャの言葉どおり彼らを打って目を   くらまされた。
19 エリシャは彼らに、「これはあなたたちの行く道ではない。これはあなたたちの求   める町ではない。わたしについて来なさい。あなたたちの捜している人のところへ   わたしが連れて行ってあげよう」と言って、彼らをサマリアに連れて行った。
20 彼らがサマリアに着くと、エリシャは、「主よ、彼らの目を開いて見えるようにし   てください」と言った。主が彼らの目を開かれ、彼らは見えるようになったが、見   たのは自分たちがサマリアの真ん中にいるということであった。
21 イスラエルの王は彼らを見て、エリシャに、「わたしの父よ、わたしが打ち殺しま   しょうか、打ち殺しましょうか」と言ったが、
22 エリシャは答えた。「打ち殺してはならない。あなたは捕虜とした者を剣と弓で打   ち殺すのか。彼らにパンと水を与えて食事をさせ、彼らの主君のもとに行かせなさ   い。」
23 そこで王は彼らのために大宴会を催した。彼らは食べて飲んだ後、自分たちの主君   のもとに帰って行った。アラムの部隊は二度とイスラエルの地に来なかった。

〇子どもたちへのメッセージ
 エリシャという人がいました。この人は、神様の御言葉を伝える人でした。ただ、神様の御言葉を伝えるだけではありません。神様の御言葉を伝えて、イスラエルの国を導く人でもありました。つまり、神様は、エリシャという人を通して、イスラエルの国を守ってくださっていたのです。
 このエリシャは、とても、すごくて、他の国の王様の動きを全部、神様から教えてもらえていたらしいのです。「今、王様、風呂入っているよ」とか、「今、王様、トイレやわぁ」みたいにです。
 だから、アラムの王様は、このエリシャは、要注意だと考えたのです。「あのエリシャって人、やばくない」みたいな。「あのエリシャさえいなければ、イスラエル弱いじゃん」みたいな。特に、アラムという国の王様は、「あのエリシャは、殺さなければいけない」と考えた。それぐらい、恐れていたようです。そして、ある日、真夜中に、大勢の軍隊を連れて、エリシャの家まで来た。エリシャの家を囲んだ。
 皆さん、どう思いますか。ある朝、目が覚めたら、目の前に、軍隊がいたら。めちゃくちゃびびるよね。しかも、それが、自分と敵対していた軍隊だったらどうだろう。「あぁ、俺終わった」みたいな気持ちになるかもしれません。実際に、エリシャの弟子たちは、「うーわ、エリシャさん、まじ、自分ら、終わりですわ」みたいな気持ちになったらしい。
 しかし、エリシャは、こう言うのです。「恐れなくていい」と。「あなたがたには、今は見えていない、本当の真実がここにはあるのだ」と。
 そして、彼らの目を開いた。元々、目は開いていただろう。しかし、更に、目を開いてくれた。少し、分かり易く言うならば、心の目を開いてくれた、ともいえるかもしれません。
 すると、目の前にいる軍隊よりも、もっと大きく、もっと力強く、もっと沢山いる神様の軍隊が見えたんだって。神様が、そこにいることが見えたのです。だから、「恐れることはない」ということなのです。
 実は、これが、神様を信じるということなのです。目の前の現実は、最悪かもしれません。しかし、目を開かれた人には、そこに神様が共にいてくださることが分かる。神様が、共に生きてくださり、共に戦ってくださることが見える。これが、神様を信じる人に与えられる目なのです。そして、この信じる心の目は、イエス様によって、今、私達にも与えられているのです。その幸いを是非、心に留めて、神様を見上げつつ、希望をもって、勇気を出して、日々、歩んでほしいと思います。

〇お祈り
 天の神様、新しい御言葉の恵みに感謝します。私達の目の前には、時々、私達を恐れさせるような現実があります。しかし、どうか、そのような現実の中にあっても、あなたを見つめる目を与え、私達を平安へと導いてください。
 どうか、子ども達一人一人が、祝福され、導かれて、この時も、あなたの御守りの中を歩むことができますように、あなたがお働きください。
 このお祈りを主イエス・キリストの御名によって、おささげします。アーメン

〇説教「目が開かれる」須賀 工牧師
 今朝、私達に与えられた御言葉は、マルコによる福音書8章22節から26節の御言葉であります。22節の御言葉をお読みします。「一行はベトサイダに着いた。人々が一人の盲人をイエスのところに連れて来て、触れていただきたいと願った」。
 ここでまず、大切なことは、「ベトサイダ」とは、どのような町であったか、ということであります。実は、「ベトサイダ」という町は、主イエス・キリストに「叱られた町」なのであります。マタイによる福音書11章を見ると、そのように記されています。
 それでは、なぜ、「ベトサイダ」は、主イエス・キリストに叱られたのでしょうか。それは、主イエス・キリストの「しるし」あるいは、「証拠」を見ても、「悔い改めなかった」からなのであります。言い方を変えて申し上げるならば、「しるし」や「奇跡」、あるいは「証拠」となるものを見ても、神様を信じなかった、ということであります。
 それでは、彼らは、なぜ信じなかったのでしょうか。それは、沢山の「しるし」や「証拠」を見ても、彼らが納得しなかったからであります。違う言い方で申し上げるならば、彼らは、自分たちが納得できる「しるし」や「証拠」を必要としていた、ということにもなるのです。どれだけ信憑性があったとしても、自分が、納得しなければ、人は、信じないのであります。
 つまり、彼らが、主イエス・キリストのもとに、盲人を連れて来たのは、善意からではないのです。「しるし」や「証拠」を見たかったからなのであります。主イエスが、真の救い主であるか否か。その証拠を見るために、盲人を連れて来たのであります。
 これが、ベトサイダの人々の現実だったのであります。自分たちが納得できる「奇跡」をみたい。そのようにして、主イエス・キリストをテストしている。そして、気づかないうちに、彼ら自身が、救い主ないし神様の試験官になってしまっている。それが、彼らの現実だったのであります。
 彼らは、自分たちが、納得できる救いを見たかったのであります。自分たちが納得できるものしか信じられなかったのであります。しかし、それは、私達と無関係なのでしょうか。納得できるから信じる、理解できるから信じる、理解も納得もできないものは信じない。そのような姿勢は、私達の内にも起こり得ることではないかと思うのです。その時、私達もまた、主イエス・キリストを、あるいは、神様御自身をテストする立場に立っているのではないでしょうか。
 そして、その時、私達もまた、自分にとって理想的な救い主を造りあげることで、主イエス・キリストを、正しく、見ることができなくなっている。言うならば、救い主を、正しく見る目が、閉じてしまっているのであります。目があっても見えず、耳があっても聞こえないという現実が、ここに起きてしまうのであります。
 そして、何よりも、ここにこそ、神を中心とせず、自分の思いを中心とする人間の罪がある。ここに人間の汚れがある。その罪や汚れに支配されている以上、私達は、真の救い主を見上げることができない。それ故に、本当の救いや恵みを見ることもできない。今朝の御言葉によるならば、人間が罪に留まり続けるところでは、救いの奇跡は起きないのであります。そして、本当の盲人は、罪に支配された私達自身なのだ、ということが、ここで明らかにされているのです。
 今朝の御言葉は、まず、この人間の罪の現実にスポットを当てているのであります。そして、このような人間の現実の中で、盲人の癒しの出来事を記しているのであります。即ち、この奇跡の出来事は、ただ一人の盲人の目が開かれた、という話ではないのです。このように、罪によって目が閉じてしまっている人間。この人間の心の目が、どのように開かれるのか。どのようにして罪から救われて、神を見るのか。神様を見出すのか。それが、今朝の御言葉の大切なテーマなのであります。
 そのことを踏まえた上で、23節から26節までをお読みします。「イエスは盲人の手を取って、村の外に連れ出し、その目に唾をつけ、両手をその人の上に置いて、『何か見えるか』とお尋ねになった。すると、盲人は見えるようになって、言った。『人が見えます。木のようですが、歩いているのが分かります。』そこで、イエスがもう一度両手をその目に当てられると、よく見えてきていやされ、何でもはっきり見えるようになった。イエスは、『この村に入ってはいけない』と言って、その人を家に帰された」。
 ここでまず、大切なことは、主イエス・キリストが、手を取って、救いへと導いてくださる、ということであります。自分の足でいくのではありません。自分の足で、救いを獲得するのではないのです。主イエス・キリストが手を取って導き、そして、この私に触れ、目を開いてくださる。これが、救い主の救いの御業なのであります。
 自分で納得できる救いだけを信じるというのは、自分の意志や自分の足で、救いを獲得することと似ています。しかし、真の救いとは、人間の力によるものではないのです。いや、人間が、人間の力で、救いを獲得することは、不可能なのであります。なぜなら、私達の目は閉じているからです。
 あくまでも、救い主によって、手を引いていただき、触れていただくことによって、私達は、救い主を見ることができる。神様が共にいる、その恵みを見ることができるのであります。
 しかし、すぐに、何もかもが見えるわけではないのです。初めは、ぼやけてみえるのであります。信仰の目も同じであります。全てが初めから明確になるわけではない。分からないことがある。ぼんやりとしか見えないことがある。それで良いのです。何かがはっきりと見えるまで、自分は救われないのか。そう思う必要は無いのです。ぼんやりと見えている、その所で、もう既に、私達は、救い主の救いの御手の中に入れられているのであります。
 そして、そこで、主イエス・キリストは、再度、触れてくださるのであります。まだ、何も見えていない、あなたを諦めることはないのです。再度、あなたの心の目に触れて下さるのであります。
 それでは、救い主は、どのようにして、触れるのでしょうか。主イエス・キリストの手で、その目を塞ぐようにして、触れるのであります。
 この人が抱えている問題、私達が抱えている問題を、手で塞ぐようにして、触れてくださるのであります。主イエス・キリストが、私達の問題を、罪の問題を覆ってくださることで、私達の目が開かれ、そこに救い主がいることを見ることができる。主イエス・キリストが、罪に支配された、私達の目を覆ってくださることで、目を開いてくださり、新しい世界の扉も開いてくださるのであります。
 その世界とは、救い主がそこにいる。神様がそこにいる。そういう世界なのであります。かつては、神様を見失っていた。しかし、主イエス・キリストによって、罪が覆われることによって、目が開かれ、そこに神が共にいてくださることが見えるのです。その幸いを新たに味わい直す世界を開いてくださるのであります。
 ここで大事なことは、私達の救いのために、イエス様が、私達の罪を覆ってくださる、ということなのであります。罪を覆う。それが、救い主の救いなのであります。
 そして、それが、あの十字架の出来事でもあるのです。私達の罪を担い、私達の罪を覆うようにして、御子は、十字架で身代わりとなるのであります。それによって、私達は、神様を見上げる目が与えられ、神様が共に生きていることを知ることができるのであります。
 私達が見てる現実は、決して、良いものばかりではありません。目を伏せたくなるような現実もあるかもしれない。しかし、神様のものとされ、神様を見上げる目が開かれた時、そこで、神様が共にいることを知ることが出来る。あらゆる苦難を凌ほどの、計り知れない主の守りが、そこにあることを見つめることができる。死の力を越えていくほどの、絶大なる神が、この自分を囲んでいることを、いや、この自分の目の前にいることを見ることができる。
 その幸いを得るために、今、主イエス・キリストは、あなたの手を引いておられます。どうか、この手をしっかりと握りしめ、そこにいる主イエス・キリストの救いに委ねて、新たな生活へと、神が共に生きてくださる、新しい世界に向かって心の目を上げつつ、歩んで参りたいと思います。

〇お祈り
天の神様、新しい御言葉の恵みに心から感謝を申し上げます。あなたによって生かされていながらも、私達は、自分の思いに支配され、正しく、あなたを見上げる目を失ってしまうことがあるかもしれません。どうか、主よ、私達を改めて憐れんでくださり、あなたを正しく見上げる目を与え、私達の救いを確かにしてください。どうか、まだ、この真実の恵みに目が閉じている方がいますならば、あなたが、御子を通して、その人を導き、その人に触れ、真の救いへと至らせてください。全てのことを感謝し、全てのことを、あなたに委ねて、このお祈りを、主イエス・キリストの御名によって、おささげいたします。アーメン。

〇主の祈り
天にまします我らの父よ。願わくは御名(みな)をあがめさせたまえ。
御国(みくに)を来たらせたまえ。みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ。
我らの日用(にちよう)の糧(かて)を今日も与えたまえ。
我らに罪を犯すものを我らが赦(ゆる)すごとく、我らの罪をも赦したまえ。
我らを試(こころ)みにあわせず、悪より救いいだしたまえ。
国と力と栄えとは、限りなく汝(なんじ)のものなればなり。アーメン。

posted by 日本基督教団 石山教会 at 14:47| 日記

2020年05月04日

2020年5月17日 礼拝予告

〇教会学校 休会

〇主日礼拝 10時30分〜 
※礼拝堂に集まっての礼拝を自粛しています。10時20分よりYouTubeで礼拝をライブ配信しています。

前 奏
招 詞 詩編91篇1節〜2節
讃美歌 8
祈 り
聖 書 新約 マルコによる福音書8章22節〜26節
    旧約 列王記下6章8節〜23節
子どもたちへのメッセージ
祈 り
讃美歌 484
説 教 「目が開かれる」須賀 工牧師
祈 り
讃美歌 521
主の祈
頌 栄 29
祝 祷
後 奏
posted by 日本基督教団 石山教会 at 20:46| 日記

2020年5月10日 主日礼拝「恵みを思い出す」須賀 工牧師

2020年5月10日 主日礼拝

〇祈り
 天の神様、あなたの御名を賛美申し上げます。今、あなたの御恵みの内に、礼拝を捧げることができます幸いに心から感謝申し上げます。
 どうか、今、共に礼拝する一人一人の心を導いてくださり、高らかに、あなたの御名を賛美するものとしてください。そして、どうか、礼拝する一人一人の内に、あなたが強く臨んでくださり、御言葉によって、一人一人を養い、生かし、導いてくださいますように、心よりお願い申し上げます。特に、病の内にある方々、心に痛みを覚えている方々、悩みの中にある方々の上にも、あなたの豊かな恵みを余すところなく、与えてください。
 あなたから、大きな恵みを頂きながらも、あなたの御心に適うことの少ない、私達の罪をお赦しください。どうか、この時も、御子イエス・キリストの十字架の死と復活にある救いの光の中へと、私達を導き、光の子、あなたの子どもとして、新たに歩む者としてください。そして、どうか、この恵みを、まだ知らずに生きている方々がいますならば、あなたが、その一人一人を導き、真の平安と救いの中で、新たに生かしていただきますように、聖霊の働きを心から願います。
 あなたの恵みの中にあって、この礼拝を捧げられることを感謝すると共に、過ぐる日、あなたの御許へと召された聖徒たちを覚えます。どうか、主の御許にあってもなお、一人一人の聖徒たちが、復活の希望の光の中で、真の平安を得、私達と共に、あなたを賛美することができますように。召された聖徒たちの平安と、残されたご遺族一人一人の上に、慰めと励ましを与えてください。
 どうか、今、感染症によって、苦しみ、不安を覚えている方々を、あなたが守ってください。一日も早く、感染症が終息し、共に、新たに、歩み出すことができますようにお導きください。特に、医療に関わる一人一人の働きを、あなたが支えてください。
 この時を心から感謝し、全てのことをあなたに委ねて、このお祈りを主イエス・キリストの御名によっておささげいたします。アーメン

〇聖書
(新約)マルコによる福音書8章1節〜21節
1 そのころ、また群衆が大勢いて、何も食べる物がなかったので、イエスは弟子たちを呼び寄せて言わ
  れた。
2 「群衆がかわいそうだ。もう三日もわたしと一緒にいるのに、食べ物がない。
3 空腹のまま家に帰らせると、途中で疲れきってしまうだろう。中には遠くから来ている者もいる。」
4 弟子たちは答えた。「こんな人里離れた所で、いったいどこからパンを手に入れて、これだけの人に
  十分食べさせることができるでしょうか。」
5 イエスが「パンは幾つあるか」とお尋ねになると、弟子たちは、「七つあります」と言った。
6 そこで、イエスは地面に座るように群衆に命じ、七つのパンを取り、感謝の祈りを唱えてこれを裂
  き、人々に配るようにと弟子たちにお渡しになった。弟子たちは群衆に配った。
7 また、小さい魚が少しあったので、賛美の祈りを唱えて、それも配るようにと言われた。
8 人々は食べて満腹したが、残ったパンの屑を集めると、七籠になった。
9 およそ四千人の人がいた。イエスは彼らを解散させられた。
10それからすぐに、弟子たちと共に舟に乗って、ダルマヌタの地方に行かれた。
11ファリサイ派の人々が来て、イエスを試そうとして、天からのしるしを求め、議論をしかけた。
12イエスは、心の中で深く嘆いて言われた。「どうして、今の時代の者たちはしるしを欲しがるのだろ
  う。はっきり言っておく。今の時代の者たちには、決してしるしは与えられない。」
13そして、彼らをそのままにして、また舟に乗って向こう岸へ行かれた。
14弟子たちはパンを持って来るのを忘れ、舟の中には一つのパンしか持ち合わせていなかった。
15そのとき、イエスは、「ファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種によく気をつけなさい」と戒
  められた。
16弟子たちは、これは自分たちがパンを持っていないからなのだ、と論じ合っていた。
17イエスはそれに気づいて言われた。「なぜ、パンを持っていないことで議論するのか。まだ、分から
  ないのか。悟らないのか。心がかたくなになっているのか。
18目があっても見えないのか。耳があっても聞こえないのか。覚えていないのか。
19わたしが五千人に五つのパンを裂いたとき、集めたパン屑でいっぱいになった籠は、幾つあった
  か。」弟子たちは、「十二です」と言った。
20「七つのパンを四千人に裂いたときには、集めたパンの屑でいっぱいになった籠は、幾つあった
  か。」「七つです」と言うと、
21イエスは、「まだ悟らないのか」と言われた。

(旧約)列王記下4章42節〜44節
42一人の男がバアル・シャリシャから初物のパン、大麦パン二十個と新しい穀物を袋に入れて神の人の
  もとに持って来た。神の人は、「人々に与えて食べさせなさい」と命じたが、
43召し使いは、「どうしてこれを百人の人々に分け与えることができましょう」と答えた。エリシャは
  再び命じた。「人々に与えて食べさせなさい。主は言われる。『彼らは食べきれずに残す。』」
44召し使いがそれを配ったところ、主の言葉のとおり彼らは食べきれずに残した。

〇子どもたちへのメッセージ
 私達は、神様の恵みの中で生かされています。今、こうして、命が与えられ、その命が支えられて生きられるのも、当たり前のことではありません。神様が、共にいてくださり、必要な恵みを備えてくださいます。
 しかし、私達の心は、決して、強くありません。神様の恵みを知りつつも、それを忘れてしまうことがあります。不安なことがあったり、悲しいことがあったり、満足できないことがあると、神様の恵みを忘れてしまいます。いや、うれしいことがあれば、尚更、神様の恵みを忘れてしまうことがあるかもしれません。
 その時、きっと、神様も、悲しい気持ちになるだろうと思います。誰かのために一生懸命、何かをしてあげても、その人が振り返ってくれないと悲しい気持ちになります。神様もきっと同じかもしれません。
 だけど、神様は、決して、諦めるお方ではありません。変わらずに、諦めずに、忍耐して、私達に恵みを与え続けてくださるのです。神様は、そうやって、私達を養ってくださるお方なのです。
 私達は、どうしても、目に見えない神様よりも、目に見えるものを大切にしてしまいます。目に見えるもので溢れていることで、安心することもあります。けれど、目に見えるものは、ずっと残るものではありません。いつかは、無くしたり、壊れたりするものです。目に見えないものは、目に見えないのですから、決して、無くすこともなければ、壊してしまうこともありません。
 神様も同じ。神様の御言葉も同じです。目には見えません。だから、決して、無くなるものではないし、壊れるものでもないし、変えられるものでもありません。私達は、どんな時でも、無くならない、壊れない、変わらない、神様の深い愛と恵みの中で、生かされているのです。
 神様は、神様の恵みを忘れてしまう私達を悲しまれます。しかし、変わることなく、取り去ることもなく、私達に御言葉の恵み、愛の恵みを与え続けてくださるのです。
 大事なことは、この恵みを思い出して生きる、ということなのです。何もなくても、失敗ばかりの自分であっても、目に見えない、神様の恵みは、決して取り去られることはない。その幸いに思いを馳せつつ、新たに歩み出しましょう。

〇祈り
 天の神様、御言葉の恵みに感謝します。いつも、私達に恵みを与えてくださり、心も身体も、生かしてくださいますお恵みに感謝します。あなたの恵みを覚えながらも、あなたを忘れてしまうことがある、私達の心を導いてください。どんな時でも、どんな私達であっても、私達を養い続けてくださる、あなたの愛に感謝します。どうか、この恵みを、いつも心に刻んで、感謝して歩むことができますようにお守りください。今、もし、悲しい気持ちでいる子ども達がいるならば、どうか、あなたが守り、養ってください。そして、どうか、私達も、その子ども達のために祈りを合わせることができますように、私達の心も導いてください。全てのことを感謝して、このお祈りを主イエス・キリストの御名によっておささげします。アーメン

〇説教「恵みを思い出す」須賀 工牧師
 今朝、私達に与えられた御言葉は、マルコによる福音書8章1節から21節の御言葉であります。今朝の御言葉には、大切な前提があります。それは、「神様の恵み」です。私達は、今、主イエス・キリストを通して、「神様の恵み」に支配されて、生かされている。これが、今朝の御言葉の大切な前提であります。このことを、まず、踏まえた上で、今朝の御言葉に聞くことが大切なのであります。
 今朝の御言葉によると、主イエス・キリストは、「7つのパンと少しの魚」を用いて、四千人の空腹を満たしました。ここで、主の恵みに与ったのは、「異邦人たち」であります。
 因みに、マルコによる福音書6章30節から44節には、主イエス・キリストが、五つのパンと二匹の魚を用いて、五千人の空腹を満たしたことが記されています。どちらも、同じような話ですが、ここで、主の恵みに与ったのは、「ユダヤ人たち」でありました。
 つまり、今朝の御言葉は、主イエス・キリストを通して、神様の恵みに与れるのは、決して、ユダヤ人だけではない、ということが、まず強調されているのであります。言い方を変えて申し上げるならば、世界中の人々が、主イエス・キリストのもとへ集められ、神様の恵みに与ることが、許されている、ということなのであります。
 それは、更に、言い方を変えて申し上げるならば、「特定の誰か」ではなく、そこにいる「あなた」もまた、この恵みの座へと招かれている。「特定の誰か」ではなく、そこにいる「あなた」もまた、神様の恵みの支配の中で、神様によって養われ、生かされている、ということなのであります。
 当時のユダヤ社会において、異邦人は、神様を知らない罪人でした。異邦人と共に食卓を囲むということは、罪人と共に食事をすることでもあります。要するに、ユダヤの宗教的価値観から申し上げるならば、異邦人が、神様の恵みに与ることも、異邦人と共に食事をすることも、まず、あり得ないことでありました。
 しかし、主イエス・キリストは、異邦人もまた、神様の恵みの中に招いてくださり、彼らを養い、生かしてくださる。神様を知らずに生きた人々もまた、神様の恵みの中で生かしてくださるのであります。その幸いが、まず、ここで示されているのであります。
 さて、この大きな恵みを踏まえた上で、大切なことがあります。それは、「この恵みを忘れないこと」であります。今、自分は、主イエス・キリストを通して生かされ、養われ、支えられている。余りあるほどの恵みの中で生かされている。その測り知ることの出来ない恵みに支配されている。そのことを覚えながら生きる、ということが大切なのであります。
 しかし、日々の生活を振り返るならば、この恵みを忘れてしまう、私達の姿があるかもしれません。神様に養われている。神様に支えられている。神様の恵みに支配されている。神様の恵みに満ちあふれている。このように、神様の恵みを日々、意識しながら、生きられる人は、あまりいないかもしれません。なぜなら、人間は、完璧な存在ではないからであります。
 決して、完璧になりなさい、という話ではありません。恵みの中に生かされていながらも、恵みを忘れてしまうことが、人間にはあるのだ、という事実を話しているのであります。聖書もまた、「正しい人は一人もいない」と証言しています。
 神様の恵みを忘れてしまうとき、私達の内には、何が起こるのでしょうか。パンが、不足していることだけに、心を奪われてしまうのであります。言い方を変えて申し上げるならば、不足ばかりに、気を取られてしまうのであります。あれが足りない。これも足りないと、心が、不安や悩みで一杯になってしまうのであります。
 そして、心が不安や悩みで、一杯になるとき、私達は、主イエス・キリストの御言葉を正しく聴き取ることができなくなるのであります。今朝の御言葉に従って申し上げるならば、主イエス・キリストの教えを、間違って解釈してしまうのであります。
 このように、主イエス・キリストの恵みを忘れた時、人は、不足している部分ばかりに気を取られ、心が悩みに支配され、御言葉に正しく聞くことが出来ず、これからを心配し、今を安心して生きられなくなるのであります。神様の恵みを忘れてしまうということは、こういう悲惨な現実を生み出してしまうのであります。
 しかし、神様の恵みを忘れてしまう時、そこでは、更に、大きな問題が明らかにされます。神様の恵みを忘れた時、不足ばかりに気が取られてしまう。それが人間です。
 しかし、それは、言い換えるならば、神様の恵み以外のものにも頼っていた、ということに他なりません。パンの不足に、心が奪われていた、ということは、それだけパンに頼っていた、ということの表れなのであります。
 今朝の御言葉を通して、主イエス・キリストが問題にしているのは、この部分なのであります。即ち、「あなたは、神様の恵みを忘れてしまうほどに、何かに頼っていないか」ということなのであります。
 私達にとって、パンがないことよりも恐ろしい問題があるのです。それは、神様の恵みを忘れてしまうほどに、何かに頼ってしまう、ということなのであります。言い方を変えて申し上げるならば、神様の恵みを必要としないほどに、他の何かを頼りにすること。これこそ、パンが不足することよりも恐ろしい問題なのであります。
 たとえ、パンが、どれだけ溢れていても、たとえ、必要が、どれだけ満たされていても、神様を必要としない、神様を求めない。その所で、人間は、本当には生きられない、ということなのであります。
 今朝の御言葉の中で、主イエス・キリストは、「ファリサイ派とヘロデのパン種によく気をつけなさい」と仰せになります。
 ファリサイ派の人たちは、主イエス・キリストを試しました。主イエス・キリストをテストしたのです。主イエスが、本当の救い主であるかどうか。その証拠を求めます。しるしを求めるということは、証拠を求めることです。
 主イエスをテストし、主イエスに証拠を求めた。それは、彼らが、彼らの納得出来る回答を求めた、ということでもあります。実は、これが「律法主義」の姿なのであります。 律法主義は、答えが明確です。「これは正しい」「これは正しくない」と線引きをし、人間の側に、基準を置いてしまうのであります。自分が納得できない回答は排除し、自分にとって都合の良い回答を受け止めるのであります。これが、律法主義にある、一つの現実なのであります。
 これは、神様の救いや神様の恵みに対しても同じであります。「これは恵みである」「これは恵みではない」と線引きをする。神様が与えてくださるものは、全て良いものだということにはならないのです。これは良いもの、これは悪いものと判別してしまう。これが、律法主義にある悲惨な現実なのであります。つまり、彼らは、神様の恵みにより頼むことよりも、自分たちの判断に拠り頼んでいる、ということになるのです。これは、私達と無関係の問題なのでしょうか。
 ヘロデという人は、徹底的に、この世の権力や地位に拠り頼んだ人間です。神様のことを思うよりも、この世のことを思ったのであります。神様に依り頼むことよりも、この世の力に拠り頼んだのであります。これもまた、私達と無関係の問題なのでしょうか。
 私達人間と神様を切り裂く危険は、いつも近くにあるのです。私達もまた、目に見えるものに頼ってしまうことがあります。私達もまた、自分の判断だけを頼ってしまうことがあります。私達もまた、この世の力に頼ってしまうことがある。
 その時、何が起きているのか。神様の恵みを忘れ、神様から離れてしまう。主イエス・キリストは、ここで、神様の恵みを忘れてしまうことが、いかに悲しいことかを教えてくださっています。たとえ、パンに溢れていたとしても、たとえ、自分の都合通りに、すべてが動いたとしても、たとえ、この世の力に支えられていたとしても、神様との関係が、破綻しているところには、本当の命はない。本当に生きることにはならない。そのように教えてくださっています。
 逆に申し上げるならば、たとえ、何もなくても、たとえ、失敗ばかりの駄目な自分であっても、たとえ、この世から忘れ去られた人であったとしても、神様と深く・固く結ばれていく時、神様の恵みの中で、真の喜びを抱いて生きることができる。いや、真の喜びを抱いて、永遠の命に生きることができる。なぜなら、神様は、永遠なるお方だからであります。
 私達に与えられる恵みは、ただ、日々の糧だけではありません。神様と共に生きられるという恵み。永遠の糧を頂く、ということなのであります。私達を支配している恵みとは、こういう恵みなのであります。大事なことは、この恵みを覚えて、神様の恵みの支配の中に生き続ける、ということであります。
 今朝の御言葉は、「まだ悟らないのか」という、悲しい言葉で終わります。つまり、弟子たちも理解できなかった。神様の恵みに生かされていることを忘れてしまった。それはまた、私達自身の姿なのかもしれません。
 しかし、主イエス・キリストは、この人間の無理解を知りつつ、それでも、十字架に向かって歩みを進めてくださるのであります。そして、この直後、主イエス・キリストは、御自身が救い主であることを明らかにし、救い主の十字架の死と復活を予告します。言うならば、あの十字架の死と復活を通してこそ、初めて、神様の恵みの深さを悟ることができるのだと言いたいのかもしれません。
 主イエス・キリストは、私達の罪や弱さを背負い、十字架で死んでくださり、復活してくださった。そこに、罪の赦しがある。そこに、神様との和解がある。そこにこそ、私達を永遠に生かす恵みの糧がある。ここにこそ、この世のものを越え、死を越えるほどの、真の恵みがある。この恵みに生きて良いのだと、私達は、改めて、何度でも招かれているのであります。
 神様の恵みを忘れてしまう弱い私達でありますが、こうして、何度でも、主は、生きて、御言葉を通して、真の恵みの中へと、私達を迎え入れてくださいます。この恵みを覚えつつ、共に、新しい日々を歩んで参りましょう。

〇祈り
天の神様、新しい御言葉の恵みに心から感謝します。あなたから恵みを頂き、今を生かされている私達でありますが、私達は、それでも弱く、あなたを忘れ、自分の力に頼り切ってしまうことがあります。どうか、私達の弱い心をお赦しください。そして、どうか、この時、御子イエス・キリストにある真の恵みによって、私達を生かしてください。全てのことを感謝し、全てのことをあなたに委ねて、このお祈りを主イエス・キリストの御名によって、おささげいたします。アーメン

〇主の祈り
天にまします我らの父よ。願わくは御名(みな)をあがめさせたまえ。
御国(みくに)を来たらせたまえ。みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ。
我らの日用(にちよう)の糧(かて)を今日も与えたまえ。
我らに罪を犯すものを我らが赦(ゆる)すごとく、我らの罪をも赦したまえ。
我らを試(こころ)みにあわせず、悪より救いいだしたまえ。
国と力と栄えとは、限りなく汝(なんじ)のものなればなり。アーメン。

posted by 日本基督教団 石山教会 at 20:43| 日記